第11頁  最善と最高と

 2月8日、午前10時、瑞穂山の中腹付近。


「何もなかったなぁ」


 山の中を歩きながら、僕は一人呟く。

 ここ数日、自室でひまわり畑から採取してきたサンプルたちの分析をしていた。だけど、ひまわりの花からも土からも、何も特別な物は見つけられない。花本体か土に謎が隠れてると思っていたけど、それ以外の場所に何かあるのかな。それとも採取する場所か時期が悪かった? 前回とは場所と時間を変えて採取してみようかな……ん? 何か聞こえる。


 ぼんやりしながら歩いていれば、後ろの方からドドドっていう音が。何かが走っているようなその音。ぐんぐんとこっちに近づいてきている。一体何が起こってるの!?


「え、わっ、アサヒさん?」

「おはようございます陸奥さんすみません急ぎますのでこれで失礼します」

「え、はい……さようなら?」


 まさに猪突猛進。一息で台詞を言い切ると彼女は駆け抜けて行った。僕はポカンと口を開け、遠ざかっていくアサヒさんの背中を見送ることしかできない。足速いなぁ。


「あんなに慌ててどうしたんだろう」


 事情はよく分からないけど、さっきのアサヒさんすごく焦っているように見えた。普段通りマフラーで鼻先まで覆っているから、顔はあんまり見えなかったけど、目が鋭くて、緊迫した雰囲気を出していたようにも思う。まだ知り合ってから日が浅いけれど、何が起きても動じなさそうなアサヒさんが慌てている事態。余程のことが起きたのかもしれない。あ、もしかして……


「異形に、何かあった?」


 僕の脳裏に、先日嬉しそうに花の蜜を集めていたアサヒさんの顔が浮かぶ。僕にはとことん冷たいけれど、異形相手だと聖母のような優しさを見せるアサヒさん。異形の身に何かあったと仮定するならば、彼女の尋常じゃない雰囲気にも納得がいく。

 そして、気がつくと僕の足は、アサヒさんの消えて行った方向へ。彼女の残した足跡を追っていた。




※※※




「アサヒ、さん」


 ようやく見つけたその背中。息を切らせながら追いつくと、そこは山の奥深く。境の柵近くの茂みだった。アサヒさんは茂みの中でガサゴソとしている。


「どうしたんですか」


 僕の声に気がつかないくらい必死なのか、それとも返事をする時間さえ惜しいのか、彼女からの反応はない。僕が乱れる息を整えながら、彼女の手元を覗き込むと……


「え」


 と、声が漏れかけて、慌てて口を覆った。

 そこには、血まみれになってぐったりと横たわっている異形の姿が。狼のような頭が三つ、灰色の毛並みに鋭い牙と爪。ケルベロスと呼ばれる存在だろう。

 ハンターさんか村の人に撃たれたのだろうか。でも周りには誰も……あ、れ?

 周りを見渡せば、雪の上に点々と赤色が。どこから続いているのか分からないけれど、ケルベロスの血だろう。まさか遠くからアサヒさんの居るこの山まで歩いてきたのか。だけど……


「足が……っ」


 右足の膝関節より下、本来足があるはずのその場所は、もうほとんど原型を留めていない。ぐちゃぐちゃに腐っており、辺りに腐臭を撒き散らしている。彼はこんな状態の足で歩いてきたのか。

 しかも、負傷している場所はそこだけではない。腹部に三発、肩にも一発。僕が目視で確認できるだけで、四発の部位から腐敗が始まっていた。

 異形は弾丸を撃ち込まれると、その部分から腐敗が発生。弾を取り除かなければ、その腐敗は全身へと広がっていき、その命を蝕んでいく。このままではこの異形の命は消えてしまう。


「57、48y、qh」


 僕の存在に気がついたのだろう、目を閉じ、か細く息をしていたケルベロスが、警戒するような声を出す。本当は身体を動かして威嚇したかったのだろうが、もうその体力も残っていないらしく、微かにその巨体が動くだけで止まった。


 辺りの白い雪が真っ赤に染まっていく。今にも消えそうな命の灯。目の前の存在を見て、そう思った。もうこの異形の命は長く持たない、と。 


「助けに来ました、安心してください」


 だけど、僕がただ異形を見つめることしかできない中、アサヒさんがケルベロスの身体に触れてそう告げる。優しく、温かいその声音が、心に染みるようだった。暗い闇の世界に、明るい光が灯ったかのような温かさと安心感。自然と涙が頬を伝った。

 ケルベロスもその温かさに安心したのだろうか、ゆっくりとその瞳を閉じる。





※※※




「終わり、ました」


 数時間後、アサヒさんは治療を終えた。取り出した銃弾は10発。どれも身体の深い所に入り込んでおり、生命を左右する太い血管のすぐ近くにあった。取り出す際に弾丸が少しでも血管に触れれば、簡単に血管が腐り落ち、大出血に繋がってしまう。一つのミスでも命取りになる、そんな緊張感のある治療。かなりの集中力を要していた。


 ぽた、ぽた、とアサヒさんの額から汗が落ち、まっさらな雪の上に跡をつけていく。肺が凍りつきそうな位寒い気温の中で、零れ落ちるそれらは彼女の努力の証。

 少しでも吹きかければ消えてしまいそうだった命の灯に、必死に手を伸ばし続けた彼女の戦いの記録。それはとても気高くて、美しくて、綺麗だった。だけど……


「ごめんなさい」


 そんな彼女の口から出てきたのは謝罪の言葉。その目線は治療を終えたばかりのケルベロスに注がれた。

 今は眠っているケルベロス。撃ち込まれた弾丸たちは、命に届く間一髪の所で摘出が間に合い、腐敗が停止。命を救うことは出来た。しかし……


「既に腐り落ちた部分を再生する能力は私にはありません。もっと早くに声を聞けていれば……っ、彼は、足を失わなくても良かったかもしれないのに」


 アサヒさんは悔しそうに、拳を握っている。きっとログハウスでケルベロスの声を聞いて、全速力で走ってきたのだろう。あの時すれ違った彼女はひどく焦っていた。


 ケルベロスの命を救うことには成功したが、彼は代償としてその足を失った。損傷と腐敗がひどく、切断するしか方法がなかったのだ。もし切り落としていなければ、足から腐敗が全身に広がり、命を蝕んでいただろう。


「……っ」


 ギュッと手を握りしめているアサヒさんを見ていると、僕まで痛く切なくなった。足を失ったのは、アサヒさんのせいではないのに。


 最善は尽くした。でも、最高の結果にはたどり着けなかった。その事実が、僕たちの心に重く圧し掛かる。

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