EPISODE 01 魔王の日

第1話 目覚めは唐突に

 目醒めは綿細工の砂糖菓子。意識も曖昧なまま、俺は意識を浮上させた。最初に映ったのはモノクロームの景色。何処かは定かではないが、室内であることだけはわかる。まさしく寝起きの曖昧な意識では、自分自身さえも茫洋としているが、まず俺は一歩を踏み出した。


 歩ける。歩くという行為がたされた瞬間、世界が一斉に色づき始めた。視界の変化は同時に、俺の記憶を呼び起こす。


 そうだ。此処は何処だ! 俺の家ではない。だとしたら、これは夢か? だが、しかと裸足の足裏は床面の冷たさを感じ取っている。明晰夢という奴かもしれないが、それにしたって現実味が強すぎた。なんと言えばよいのか、ではなくと頭が理解している――。


 混乱しながらも、最後の記憶を探る。確か、半月連続勤務当然休みなし、残業代という概念すら皆無の朝帰りで、二時間ほど寝てから出勤しようとしたはず……。あれ、ちょっと泣けてきたぞ。


 だが、此処は俺の部屋ではない。俺の部屋は1Kのクソ安普請のアパートだ。本物のフローリングなど夢のまた夢、はるか遠い理想郷だ。そもそも、意識を取り戻した時、俺は立っていた。せんべい布団から抜け出たわけではない。


 不可解さに頭を押さえる。誰が使うのか、やたらと背の高いテーブルは安っぽい化粧板などではない、無垢の木材にワックスを塗り込んだであろう逸品だ。椅子も洗練されており、無駄のない意匠はミッドセンチュリー期の匠の作品と言われても納得できる。だだっ広い室内に反して調度品の数は抑えられており、清潔さが保たれている。何もかもが、俺の部屋とは正反対だった。


 この部屋の持ち主が富裕層であるのは間違いなかったが、どうして無駄に大きな什器を設えているのかは謎だ。世の中の金持ちは変わった趣味を持っている――あいにく金持ちの知り合いはいない。いたら、超絶ブラック企業なんかで働かないだろう――らしいが、これもそういった手合いによるものだろう。無駄に大きな家具に囲まれたい願望が何処から溢れ出るのかは疑問だが、そもそも会うこともない金を持て余している輩の考えなど理解できないし、する気もない。


 とにかく、自分に起きたことを整理するためにも、此処が何処であるかを突き止めるのは急務なのだ。


 俺はぺたぺたと素足で部屋を歩き回る。間接照明で照らされたよくわからない花瓶は、粘土細工と何が違うのかはわからないものの、ぼけた光に彩られている姿は高級品にしか見えない。壁に飾られた絵画は抽象的で子どもの落書きと変わらないように見えるが、重厚な木枠で額装されていると名のある画家の作品に見えなくもない。


 ガラス製の什器にも、様々な芸術品――とおぼしい――が展示されており、それらを。什器には埃など一切付着しておらず、微に入り細を穿った清掃が行き届いている事実が理解させられる。鏡のようにきらびやかな反射を見せるガラス面には、呆けた顔の俺がいて――。


「ア゛ーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」


 素晴らしいシャウトが俺の喉から放たれた。凄まじい高音でしゃがれた声は、何処ぞのラウドな感じのヴォーカリストも賛辞を述べてくれる程の声量だった。室内に防音処理がなされているのかはわからないが、外側にもさぞかし響いたことだろう。


「誰? 誰! 誰⁉ 誰?! 誰?? 誰‼ 誰ェエエエエエエ!」


 弁解させてもらうけど、誰しも自分の顔が変わっていたなら、これくらいの動揺を見せるはずだ。そう、断じて俺はヘタレではない。ヘタレではない。


 顎が外れんばかりにガラス面に向かって指をさしている――つまり、俺に向かって指さしているのは黒髪の子どもだ。


「え? え? え? 俺? 俺ェェエ?」


 俺が叫ぶと同時に、口を動かしている鏡像は紛れもなく、俺の知らない俺自身を映している証左と言えた。


 東洋人というよりは西洋人かそのハーフといった顔立ち。人形めいた整った顔立ちは幼いながらも、美貌と呼んで差し支えない。うん、ムカつく。なんだ、この世界に愛されたような顔は。俺のプリチィな死んだ魚の眼と、沈着した隈と、剃ってもなんか不健康に青いヒゲを返せ――いや、むしろ返すな。


「リベル! リベル! どうしたの?」


 扉を開けて飛び込んできたのは、長い銀髪が似合う美人さんだった。彼女は、あわわと震えるばかりの、縮んだどころか別人になった俺の身体を優しく抱き上げる。あ~、高貴な香りがする。高貴な香りとは知らんけど。


「リベル。何か怖いことでもあったの? 母が守ってあげますからね」


 ママン! 若くて母性あふれるとか、あなたは女神ですか?


 いかん、俺の脳回路は長年の超絶ブラック企業勤めで完全に焼き切れているらしい。冷静になれ、俺。ああ、あったかくてふわっふわだ。なにが、とは言えないが。


 しかし、俺はリベルと呼ばれたな。何処かで聞いたことあるような名前だが、日本人の俺にはキラキラネーム以外にはありえない名前だ。つまり、心は除いて俺は完全に別人となったようだ。


 ムカつく以前を考えれば、違う自分でリスタートできるのは割と悪い話ではないのかもしれない。心残りはあのクソ上司を殺せなかったところか。アイツが背中を向けた時、たまたま持っていた工具を見て“これでコイツの頭カチ割ったら楽になれるかも……”って思ったのをなんとか我慢したけど、こうなるならやっておけばよかった。積年の恨みを叩きつけてやれば、少しは溜飲が下がったことだろう。


 まあ、いいや。俺はリベルとして、イチからやり直そう。幸い、見た目もいいし、昔の俺よりは生きやすいはずだ。


 あったかでふわふわで頭に余計な考えが入ってこないからか、俺はこの事実をあっさり受け入れつつあった。

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