第52話 きっとまた会えると約束して

 頬の肉を裂く痛みで、ディアの意識の照準が全て現実に戻ってくる。二人の戦場は一階のエントランスに移っていた。


 チーニの黒い制服も、ディアのまとった襤褸も、どちらも血を吸って既にかなり重い。心なしか、チーニの傷が治る速度も落ちているように見える。


「治癒は体力に左右されるみたいだな」


 ディアが肩で息を整えながらそう言葉を投げると、頬についた血を拭いながらチーニが口を開いた。


「僕はラクリア家の血筋じゃないからね。ルーナのようにはいかないんだよ」


 ディアの脳裏に柔らかな顔で笑うルーナが浮かぶ。一瞬で暗闇の中に消えた少女の面影を追うように、ディアは大きく一歩踏み出した。


 上から斜めに振り下ろした剣は空を切る。疲労で避けそこねたチーニの剣が腹を刺す。一、二、ともつれる足でチーニから距離を取る。血液をまき散らしながら、腹に刺さった異物が抜けた。足に力が入らなくなり、剣を杖代わりに、なんとか立つ。痛みと血液不足から目の前が霞んだ。


「なぁ」


 弱く吐き出した声に、チーニの動きが止まる。


「なんで、俺を殺してくれなかったの」


 熱い水滴が瞼から落ちる。いつの間にか泣いていたディアの頬に鋭い衝撃が走った。こらえきれなかったディアは、そのまま冷たい床に倒れこむ。


「ふざけるなよ!」


 涙で歪む視界の真ん中にチーニの黒い靴が映る。鼓膜を揺らすチーニの声が泣いている。殴られた頬が痛い。


「君を殺すなんて選択肢、あるわけないだろ! ルーナも、僕も、ディアを殺すなんて、考えもしなかった。なんでか、分からないの?」


 初めて会ったときのように、チーニがしゃがみ込んでディアと目線を合わせる。その顔は青白く、目には涙が浮かんでいた。涙と血痕でぐしゃぐしゃの顔で、チーニは言葉を続ける。


「君が、大事だったからだよ。君に、生きていてほしかったから、君と、生きていたかったからだよ」


 ディアは横に向けていた体を倒して、天井を見上げた。頬を涙が伝う。動きの鈍くなった腕で、どうにか目元を隠す。


「おれは、ふたりに生きていてほしかった」


 ずっと、心の奥底で燻ぶっていた怒りが、ふつふつと炎になって心臓を内側から焼く。


 優しいチーニが優しいルーナを殺したこと。髪と目の色が違うだけで殺されかけた日々のこと。心無い嫌がらせのこと。救うつもりで壊した愚かな自分のこと。


「おれは、俺なんか、そこに居なくていいから。ふたりに生きててほしかった」

「いやだよ、僕はどっちかなんて選びたくない」


 ずっと隠れていた怒りが、表面に出てくる。言葉にする程にそれは大きくなっていく。燃えて、燃えて、灰になっていく。


「でも、ルーナは殺しただろ」

「ディアと天秤にかけたわけじゃない」


 チーニの声が鼓膜を揺らす。その声が優しくて、ディアの目からまた涙が溢れた。


「俺は、チーニが大事だよ」

「うん」

「でも、それと同じくらいルーナが大事で。ルーナを殺したチーニが許せない。だって、死は何も救わないだろ。俺、父さんに生かされたから、生きてたから、二人に会えたんだよ」


 ディアは絞り出すように言葉を続けた。


「だから、一回死んじゃえって、思ってる。それも、本当なんだよ」


 隣にチーニが倒れこんだ音がする。お互い、体力の限界だった。全身傷だらけで。この四年の間に心も傷だらけになっていて。


「なあ、俺、どうすればよかった?」


 暗い視界の向こうに問いかける。


「初めから、僕を怒ってよ。一人で抱え込んで、どっか行っちゃって。探しても、居なくてさ」


 問いかけに、言葉が返ってくる。きちんと意味の分かる音で。良く知っているチーニの声で。


「この四年間ずっと、君が居たらいいのにって、何度も思ったんだよ」


 チーニの声は震えていて、聞き取りずらかった。でも、言葉が返ってくるだけで、暗闇に一人ではないと感じられるだけで、それだけで、もう、十分だった。震える声は続く。


「君が居たら、寂しさも、痛みも、ぜんぶ半分こにできるのにって、何回も思ったんだよ」


 ディアは目を閉じる。隣にチーニの体温があるだけで、暗闇も怖くない。


「ねえ、ディア」


 震える手が、ディアの服を強くつかんだ。


「ごめんね」


 瞼を開く気力が無くて、ディアは声を絞り出す。


「うん」


 途切れそうになる意識を何とかつなぎとめて、ディアはチーニの方に体を向けた。同じように体を倒していたチーニの瞳と、視線が絡む。灰色の瞳に自分の赤い目が映りこんでいるのが見えて、ディアは小さく笑った。


 涙で歪んだ視界の真ん中に、血まみれのチーニが居る。チーニはぎこちなく、へたくそな笑顔を浮かべた。


「僕ら、遠回り、しすぎたかな」


 ディアは霞む視界の向こうにいるチーニの頭に手を伸ばす。しびれた指先で、柔らかい髪をなでる。


「ルーナと約束、してるんだ」

「なに?」

「君と、ディアと、二人で探しに行くって、約束、したんだ」


 視界が霞んで、チーニの表情は、もう見えなかった。ディアは目を閉じる。暗闇の中にチーニの声が落ちてくる。


「ねえ、ディア、ぼくら、また、会えるよね」


 口を動かそうとして、でも力が入らなくて、ディアはそのまま意識を手放した。

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