第49話 月を見上げて少年を思う
そこからの七日間は飛ぶように過ぎていった。
レナは警備計画を頭に叩き込むのに苦労し、ニフは警ら隊の隊員を実験台にしようとしてシアンに怒られ、ジェニーは彼女を子ども扱いする第二師団の団員を叩きのめした。チーニとラウネは王都に残るラクリア家の警備をしながら、稽古を重ねた。
レナは一番地の宿舎の庭を歩きながら、深く息を吐き出す。白く濁った吐息は月明かりに照らされて、すぐに存在を無くす。
緊張、興奮、不安、いろんな感情が体の中でふわふわと浮いていて、眠れそうになかった。真夜中過ぎの庭を、つま先を見つめながら歩く。
「やあ」
背後から声が聞こえて、レナは飛び上がった。気配を感じさせずに現れたハングを振り返って、レナは体の力を抜く。みんなが寝ているから、と咄嗟に悲鳴を飲み込んだ自分を褒めながら、苦笑いを浮かべた。
「こ、こんばんは」
「こんばんは、良い夜だね」
ハングは僅かに口角を上げて、レナの隣に並ぶ。
「私も眠れなくてね。少し歩こうか」
「あ、はい」
歩き出したハングを追って、レナは足を動かした。
「明日が不安かい?」
ハングは空を見上げたままレナに問いかける。こちらに視線が向かないことに安堵しながら、レナは顔を俯かせた。
「こんなに大規模な作戦は初めてで、それで」
ハングは息の中に笑みを含めて、吐き出した。
「君だけじゃない。この警備計画に参加している多くの人間が、そうだよ」
「え、そうなんですか?」
レナが顔を上げると、笑みを浮かべたハングと視線を合う。ハングは空に視線を戻しながら、口を開いた。
「そうだよ。不安は種の内に取り除く。それがラウネの方針だからね。大きな犯罪は実行される前に潰してきたんだよ」
上を見上げたまま、ハングは躓くことなくまっすぐに歩いていく。レナはその横顔を見上げ、また視線を下げた。頭に浮かぶのは、涙の跡を残して綺麗に笑ったチーニの顔だ。
「不安に対処する最も有効な方法は、不安の原因を取り除くことだよ」
柔らかなハングの声がレナの鼓膜を揺らす。レナは顔を俯かせたまま、胸の中心に居座る感情を少しずつ口に出した。
「私は、たぶん、何も、知らないんです。チーニ先輩の事。表情、とかも、笑った顔と無表情しか、知らないし」
絡まった糸をほどくように丁寧に、言葉を紡ぐ。
「だから、あの時、あんな風に怒ってる先輩を初めて、見て。チーニ先輩の感情を、あんなに揺らせる人がいるんだって、ちょっと、びっくり、して」
つま先に視線を固定したまま、意識は心の中に向ける。
「感情が揺れるってことは、先輩にとって、すごく大事な人なんだろうって、思って」
「うん。それで?」
ハングが柔らかな相槌を挟む。
「すごく大事な人、なのに、先輩は殺さなくちゃ、いけないのかなって思ったら。大丈夫なのかなって、思ってしまって」
レナの心臓が鋭く痛んだ。
「先輩、前に、本音を聞きたいから、探してるって、言ってて。それって、多分、仲直りしたい、ってことだと、思うんです。なのに」
レナの言葉が止まる。ハングは目を細めて、月を見つめた。冷たく青い光に視線を向けながら、頭の中に散らばる言葉の中から最適なものを選ぶ。
「チーニ君は、今も、仲直りするつもりだと思うよ」
「え?」
レナは顔を上げた。ハングの横顔は月明かりに照らされていたけれど、そこから彼の内側を覗き見ることはできない。ただ、静かに柔らかく、ハングは言葉を続けた。
「言いたかったことをぶつけて、ディアルムが飲み込んだ本音を聞いて、四年間の空白を埋めるつもりだと思うんだ」
ハングの口元が笑みの形になる。それは模範的な笑顔だったが、その表情からは楽しさや嬉しさがほんの少しも伝わってこなかった。
「そうやって、自分の譲れないものを守るために、命を懸けるつもりだと思うよ。王政だとか、法律だとかは、恐らく、彼の頭の片隅にすらない」
レナはハングの笑顔から目を逸らして、つま先を見つめた。
「……ケンカは、命を懸けてするものじゃないです」
柔らかな笑い声がレナの耳に落ちる。
「私も、そう思うよ」
宿舎の周りをぐるりと回り終えて、ハングはレナの肩に手を置いた。
「さあ、もう布団に戻った方がいい。明日も朝早いからね」
「はい。ありがとうございました」
レナは頭を下げて、ハングに背を向ける。頭上で輝く月を見ながら、ハングは微笑みを浮かべた。細められた瞳の向こう側には、廃墟の中で一人、うずくまるチーニが居る。
(君は、昔から、大事なものを大事にするのが、下手だね)
記憶の隅に居るチーニに笑いかけて、ハングは目を閉じた。
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