第30話 人の敵意は悪魔の形をしている

 翌朝、朝食を食べ終えたチーニは学院長室に居た。苛立ちを前面に押し出しているわけではないものの、座り方や表情から怒りがにじみ出ている。学院長は小さくため息を吐いた。


「チーニ」


 チーニは学院長の方に視線を向ける。眉尻が上がっていて、いつもより棘のある視線だ。学院長はチーニの傍により、その頬に触れた。


「落ち着いて話をしなさい。話し合いの場で有利に立つのは、冷静な方です。分かりますね?」


 チーニは視線をさげ、ぎゅっと奥歯を強く噛んで頷いた。学院長は頬をゆるく撫でて、時計を見て、小さくため息を吐く。エリムに伝えた約束の時間を五分すぎている。これ以上彼が来なければ、チーニの怒りは高まる一方だ。学院長は時計とチーニを見比べ、部屋の奥にある椅子に腰かける。


「呼びに行かないの」

「行きませんよ」

「なんで。逃げたかもしれないよ」

「口を慎みなさい。私は貴方を生徒として、一人の人間として、とても信頼しています。そして、それはエリムも同じです」


 チーニは口を閉じて、爪の先をじっと見つめた。時計の秒針が動く音だけが、部屋の中に響く。重い沈黙が二人の間に満ちていた。そこにノックの音が入り込んでくる。


「エリムです、学院長」


 学院長はため息を吐いて立ち上がり、部屋の扉を開いた。


「遅刻ですよ。エリム」

「すみません。考え事をしていたら、いつの間にか時間が過ぎていました」

「その顔じゃ言い訳は見つからなかったみたいだね」


 チーニは冷たい笑みすら浮かべずに、エリムを睨む。


「チーニ。感情で物事を進めるなと先程教えたはずですよ」


 学院長の鋭い声が飛ぶ。チーニは深く息を吐き出して、手のひらに爪が食い込むほど強く握った。心の表面を滑らかに整えて、それを表情に反映させる。綺麗な微笑を浮かべたチーニは学院長と視線を合わせた。


「これでいいですか? 学院長」


 学院長は一瞬目を見開いて、それから首を縦に振る。


「冷静になったようですね」


 怒りを押し込めて、チーニは微笑んだままエリムに視線を移した。


「話があるんだ。いいかな?」

「話? 俺に罪を擦り付けたいだけだろ」


 エリムが苛立った様子で言葉を吐き捨てる。学院長はため息を吐いて「冷静に話をしなさい。エリム」とチーニに言ったのと同じ言葉をエリムに向けた。エリムは苛立った様子でチーニの向かいにどっかりと腰を下ろす。チーニは微笑みながら、その一連の動作を観察する。


「話っていうのは、一昨日起きた植物園の花壇が荒らされた事件についてなんだ」

「俺が犯人だって言いたいのか?」

「うん。そうだよ。犯人は君だ」


 エリムが腰をあげて、チーニとの間にある机を強く叩く。鈍い音が部屋の中に響いた。チーニは眉一つ動かさず、エリムと視線を合わせたまま言葉を続ける。


「植物園の鍵は南京錠。型は古くて、こじ開けるのはそう難しい事じゃない。でも、南京錠に、こじ開けたような傷跡はなかった。これは学院長を始めとした多くの先生も確認済みだ」


「だからなんだよ? 南京錠に傷がないから俺が犯人ですってか? 随分突飛な推理だな。五歳児でも無理があるってわかるぜ」


 エリムはソファに腰を戻し、威圧するように大きな動作で足を組んだ。


「話は最後まで黙って聞いた方がいいよ。お家の教育が疑われるからね」


 表情を動かさないまま、声だけでチーニは薄く笑う。


「俺の実家を馬鹿にしてんのか?」


 エリムの眉間に深く皺が寄る。


「君の行動が家の品位を落としてるっていう話だよ」


 チーニはまっすぐにエリムを睨んだ。


「アァ?」

「二人とも話が脱線していますよ」


 学院長が二人の間の空気を切り裂くように声を発し、チーニは前のめりになっていた体をまっすぐに戻す。


「南京錠に傷がないってことは、犯人は合鍵を持ってた可能性が高い。そこで、君御用達の三番地の金細工のお店に行ってきたよ」


 チーニは傍らに置いてあった鞄から昨日、店主をだまして貰ってきた注文書と鍵の写しを机に並べる。エリムの顔が僅かに強張った。


「君が植物園の鍵を複製したって証拠だ」


 エリムは落ち着けた腰をまた上げて、机を強く叩く。紙が衝撃を受けて少し浮いた。


「この紙を俺が書いたって証拠はあるのか!? ないだろうが。想像力が足りてないんじゃないか?」

「じゃあ、店主をここに連れてこようか? この注文書を書いたのが白髪の男だったか、君だったか、ここで確かめてあげようか?」


 チーニはいつもより高い声で早口に言葉を並べ立てる。


「職人階級の人間のいう事なんか信用できないね」


 嫌悪をあらわにして、エリムは汚い者でも見るように眉間の皺を深めた。チーニは唇の片端をつり上げ嘲笑を浮かべる。


「へえ、そう。いいんじゃない? 一生そうやって否認し続ければ」


 チーニの顔から表情が消える。


「まあ刑務所の中でいくら叫んだところで、誰も聞いちゃくれないだろうけど」


 エリムが拳を振り上げた。


「調子に乗るのも大概にしろよ! 平民風情が!」


 振り下ろされた拳を受け止めて、逆に力をこめる。第二関節を手のひらの付け根で強く押せば、エリムの爪が彼の掌に強く食い込む。


「平民? だからなんだよ、命の価値は全く同じだろ」


 エリムはもう一方の手を振り上げた。チーニは手を離し、エリムから距離をとる。肩で息をするエリムは、真っ赤に怒った顔で怒鳴り声を上げた。


「そもそも悪魔が人の学校に居るのが悪いんだろ! あんな気味の悪い怪物と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がするね」


 チーニはエリムの腹を狙って鋭く拳を突き出す。が、一歩手前で後ろから学院長に腕を掴まれ、チーニの攻撃は届かずに止まる。


「エリム。貴方の処分については追って沙汰を出します。それまで、部屋で大人しくしていなさい」


 学院長の声を合図に、部屋の外から剣術の教師が入ってくる。外でずっと待機していたのだろう。暖房の効かない廊下で冷えたのか、指先も鼻も赤くなっていた。


「ディアは! ディアはただの人間だ!!」


 学院長の拘束を外そうと暴れながら、チーニはエリムの背中に叫ぶ。嘲笑でも、怒りでもなく、悲しみと痛みに満ちた声が、廊下に響く。


 エリムは振り返ることなく、学院長室から出ていった。ゆっくりと扉が閉まって、学院長の拘束が緩む。体から力の抜けてしまったチーニはその場に座り込んで膝を抱えた。


「ディアは、僕が昼食に遅れた時、僕の好きなものを取っておいてくれるんだ。僕がハングさんに貰った風鈴を壊した時だって、傷だらけになって、直してくれた。僕が痛そうな顔をするだけで、心配してくれる」


 ぼそり、ぼそり、と小さく力のない声が、チーニの口から零れ落ちる。


「ディアはあんなに優しいのに、誰もディアの優しさを認めない」


 学院長はチーニのまるい頭をそっと撫でた。


「僕のことばっかり、優しいねって言うんだ。友達のために怒れるなんて偉いねって」


 チーニの言葉に涙が混ざる。


「違うのに。ほんとに優しいのは、悪意に耐えてるディアなのに。傷ついても、やり返さないで黙って耐えてるディアの方が、僕よりずっと、ずっと優しいのに」


 ぼろぼろと目から雫が落ちる。心臓が痛くて、皮膚が裂けそうで、頭の中がぐちゃぐちゃで。腹が立っているのに悲しくて、チーニは怒りながら泣いていた。溢れてくる涙の止め方が分からない。痛みの止め方が分からない。


 彼らの嫌悪と恐怖が、理解できない。


「せんせい、みんなと違うって、そんなだめなことなの」


 チーニの頭を撫でていた手が止まる。


「違うことはダメなことでも、悪い事でもありませんよ」


 学院長の手がまたチーニの頭を撫でた。涙で歪んだ視界で、チーニは床を睨む。


 ディアを悪魔だと罵る人間を、みんなまとめて殴って、彼らの嫌悪と恐怖を否定したかった。ディアはただの人間だと、そう叫んで回りたかった。殴って、殴って、呼吸すら止めてしまいたい。


 乱暴で暴力的な欲求が体の奥から湧き上がってくる。


(こんな風に怒っている僕の方が、よっぽど悪魔に似ているのに)


 チーニは膝を抱きしめて、身の内で吠える獣を抑え込むように体を丸めた。

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