珈琲は月の下で

御子柴 流歌

前篇

「ふぅ……」


 ちょうどお客様の流れも途切れた、カフェスタイルのバー。

 お昼とされる時間はコーヒー系をメインに、夜とされる時間帯はお酒をメインに提供するスタイルのコーナーだ。


 カウンターのやや奥まったところで、鋭く、だけど小さく一息つく。

 傍からは気づかれない程度に背筋を伸ばしてみれば、関節も何度かぱきぱきと一心地つくような音を立てた。


 かれこれ一週間もこうしていれば、朝も昼も夜もよくわからなくなってくるものだ。

 それはこうしてカウンターの内側にいる私もそうだし、もちろんここにやってくる人たちもそうだろう。

 眠たそうにしていながらも、その瞳の奥は何かを期待しているように輝いて見えるのだ。


 ふと上を見上げれば、連絡船の天井に付けられた窓から見える月が、だいぶ大きく見えるようになっていた。

 もうあと七時間も経てばあの星へと到着するだろう。


 交代で入るクルーが向けてくる笑顔に似たような笑顔を向けながら、バックヤードへと向かう。

 だんだんと小走りのようになるのは、きっと自然なことだと思う。


 見た目よりは軽い音がするドアを開けば――。


「ヒナタ、おつかれさま」


「……あ、おつかれさまです。ココ先輩」


 彼女が、居る。


 私よりわずかに早く上がっていた彼女は、ユニフォームを着たまま携帯電話を片手に空――窓の外を見上げていたが、私の声に顔だけでワンテンポ遅れて反応した。

 またそうしてすぐに液晶画面に目を向けるのだろう。

 いつものことだ。


 こうされることくらい、あなたもわかっているはずでしょう?

 ――なんてことを、少しだけ思ってみたりする。


「ちょっ」


 彼女の首筋に、わずかに一刹那触れるだけのキスをする。

 そこが弱いことを知ったのは、私たちがまだ高校生だった頃だろうか。

 いつも見せてくれる初々しいような反応が、かわいくて仕方がなかった。


 振り向いた彼女は、その大きな目をくりっとさせながら慌てている。

 明るいブラウンのショートヘアがふわりと揺れた。


「もうっ。いきなりですか?」


「カタいこと言わないのー」


 たしかに、いきなりするのは久々だったけれど。


「きっちりあれこれ、準備しておきたいタイプだったかしら?」


「そういうことじゃなくてですね」


 呆れが半分以上詰め込まれたような顔を向けられる。


「大丈夫よ。他の人はいないから」


「だからぁ、そういうことでもなくてですね?」


 口調は怒っているようだし、眉間にしわなんて刻んでいる。


 だけど、平静を装っているその耳の端は、いつもより赤く見える。

 この部屋の照明はほんのり電球色になっているけれど、それよりも濃い色に染まっているようだった。

 きっとこれは、私の贔屓目がそう見せているわけじゃないと思う。


「まぁまぁ、とりあえず落ち着いて」


「そのセリフは早まったことをする先輩に対してお返ししますー」


 いつも通り、反応のいい子だ。

 応えの早さもそうだけど、ただ受けるだけじゃなく、物怖じしないというのが正しいかはわからないが、自分の主張は私に対してしっかりしてくる。

 出会った頃から変わらないことのひとつだった。


 ――『だって先輩、時々頼りないんですもん』なんてハッキリ言い切られたのも、わりと早い時期だったはずだ。

 まったく、ヒトをよく見ることのできる、よくできた後輩だった。


 だからこそ、なのだけれど。


「ヒナタもこれで上がりでしょ?」


「ええ」


「おつかれさま」


「先輩も。……っていうか、明らかに先輩の方が疲れてるんじゃないですか?」


「そんなことないわよ」


 ねぎらい合うかと見せかけて、ヒナタが私の顔をのぞき込んできた。

 その目に吸い込まれそうな気分になるのは、いつものことだ。


 勝手にドキドキしていると、ヒナタは軽く「ふふっ」と鼻で笑った。


「ファンデのノリでわかりますよ?」


「……そういうところ、めざといよねえ」


「えー、そんなことないですぅ」


「それは『あざとい女』……じゃないわね。『わざとらしい』の方が合ってるかも」


 こうして気兼ねなく話せる子がいる。

 たしかにそれは、嬉しいことだった。





           ○





 着替え終わって、どちらからともなく連絡船のロビーに出る。

 これで私たちふたりが担当する仕事は終わりで、あとはデッドヘッドのように過ごすことができる。

 かれこれ数日間似たようなルーティーンになっているのもあるけれど、何となくお互いの行く先がいっしょなのは今に始まったことではなかった。


 まもなくして、ヒナタの方から口を開いた。


「先輩、晩ご飯……って言うのか微妙ですけど、とりあえずどうします?」


「ヒナタの食べたいもので良いわ。昨日は私が決めちゃったし」


 どうしてもパスタが食べたくなってしまった私に、彼女は二つ返事で付き合ってくれた。


「……今日は、半分くらい出してあげる」


「え、ほんとですか」


「ホント」


 私がすぐに答えると、ヒナタはスッと私の前に入り込んで、いつものように目を見つめてくる。


 彼女には何が見えているのだろう。

 私には、私の心を掴んで離さない、きれいな彼女の瞳しか見えない。


 私の心の中まで、見えているのだろうか。


 私の想いまでも、見透かすことができるのだろうか。


 私の目を見て満足そうに歩き始めたヒナタの背を、私はしばらく立ち止まったままで見ていた。


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