僕は君だけを思う 前編

 日の落ちきった、ある寒い日。あちこちに漏れる嗚咽を聞きながら、僕は君を探していた。


 スキー場も温泉もある、たいして大きくもない、ごく普通の田舎町。スキー場も温泉もある。

 有名なホテルはもちろんのこと、大小様々な宿があるこの町は、雪道の怖さを全く理解していないバカな若者によって、毎年少なからず犠牲者を出していた。

 いくら路面凍結防止の水が道路の真ん中から流れているとはいっても、気温や雪の量によっては雪かきが間に合わない場合もあるし、当然日が落ちれば路面凍結だってする。

 都会の若者はそれを全く理解せず、タイヤチェーンすら巻かずにスピードを出して道路を走る。昼間ですら全く日の当たらない場所は凍るのだ。

 そんな場所を、スピードを出して走ったら当然スリップを起こす。


 去年は僕の祖父や隣のおばさんなどが、今年は君のお姉さん夫婦やその友人たちが犠牲者となった。


 今日は、君の家族――お姉さん夫婦を含めた、犠牲者たちの通夜だった。



 さく、さく、と音を立てながらお寺の庭を探す。奥まった場所の小さな池の畔に立つ君を見つけた僕は、花なき日の雪の中に佇む君に傘を差し出した。


「ほら、濡れるよ、香澄」


 周りにもまばらではあるが、人がいる。だから僕は、ハラハラと舞う雪にこれ以上君を濡らしたくなくて傘を差し出した。

 でも本当の理由は、泣いている君の顔を、他の誰にも見せたくなかったからだ。


「な、おと……っ」


 くるり、と僕に向き直った君がいきなり僕に抱き付いた。背中をさすったあとで頭を撫でると、君はふっ、と息を吐いて僕の顔を見上げた。

 それに手をそっとのばした先にあるものを……君の頬に伝う涙と嗚咽を止めたくて、その静かな想いにさそわれて、僕はその涙を指でそっと拭った。


「あ、りが、とう……っ」

「ううん」

「尚人は、いつも、私が困っていたり泣いてる時、現れるよね」

「そうかな」

「そうだよ」


 泣きながらも笑った君。

 そうだね、君の言う通りだよ。君が気付かないだけで、僕はずっと君を見ていたんだから。


「今だってそうでしょ?」

「そりゃあ、僕はいつだって香澄の力になりたいと思ってるし。香澄は違うの?」

「そうだね。確かに去年の私は、尚人の力になりたいって思ったもの」


 一緒だね、と二人で笑う。

 君を笑顔に出来たことが僕は嬉しかったし、君を想う気持ちは形にできない不確かなものだけど、でも、確かに僕の中に大きく存在するもので。

 今はまだ君の心が不安定だから、僕は君の心が安定するまでいろいろ待つつもりだった。

 でも、まさか君まであんな目に合うなんて、この時の僕は思いもしなかった。




 スキーシーズンも終わり、花咲く季節に、君と手を繋いで歩いた。

 その花を見て何かを思い出したのか、もう何もいらない……泣きそうな顔でそう言った君を慰めるように抱きしめ、頭を優しく撫でた。たぶん、お姉さん夫婦のことを思い出したんだと思う。

 小さいころの、ままごとのような無邪気すぎた約束は、今でも二人の間にある、君と僕を結ぶ存在と約束で。でも、それにすがっているのは僕だけ。

 それがつらくて切なくて、でも僕は、君を誰にも渡したくなかった。

 星のような花びらの雨の降る中、それを捕まえようとはしゃぐ君の笑顔が眩しくて、それを僕だけのものにしたくて君を捕まえて抱き締めると、君はびっくりした顔で僕を見上げた。


「尚人……?」


 戸惑ったような、何かを期待するような、君の瞳。今なら告げられる……そんな気がしたから、言い出せなかったその愛を、僕のありったけを込めて今、君に囁く。


「香澄が好きだよ。昔からずっと好きだ。だから、僕と結婚して?」

「……うん、私も尚人が好き。だから、尚人と結婚する」


 嬉しそうにそう言った君に微笑んで、お互いの気持ちを確かめあって。その報告は、塞ぎこむことが多かった君の両親を笑顔にすることができた。それなのに。


 君はキャンプに来た無謀な運転をしていた飲酒運転の車に跳ねられ、病院に運ばれた。手術も終わり、君がやっと目を覚ました時、君の記憶の一部が消えていた。

 それがなんとなくわかっているのか、時々申し訳なさそうな、哀しそうな顔をする君。辛かったけれど、僕はそんな顔をさせたくなくて、できるだけ笑顔でいるようにしていた。


 そんなある日、君がポツリと言った。


「ねえ、尚人……私、忘れてゆくの……。ううん、違うわね。何か大事なことを忘れてる気がするの。皆に聞いても、はぐらかして教えてくれないの。ねえ、私は何を忘れているの?」

「さあ……どうなんだろうね。何を、と言われても、僕には答えられないよ」

「もう、尚人まで! 意地悪しないで教えてよ!」

「まあまあ……。香澄、落ち着いて聞いてよ。たとえ忘れていたとしても、それは僕の口からじゃなく、自分で思い出さないといけないと思うんだ。もちろん意地悪で言ってるわけじゃないよ? もし、どうしても思い出せないなら、また思い出を作ればいいじゃない。君となら何度でも作りたい。僕はそう思うし、皆もそう思っていると思うよ?」

「でも……」

「本当に忘れているなら、無理して思い出す必要はないよ。思い出せることなら自然と思い出すだろうしね。無理して思い出そうとすると香澄が壊れてしまうと思うし、僕も他の皆も自分自身が許せなくなるよ。だから無理しないの」


 ね、と言った僕に、君は曖昧に笑う。


 僕はね、守りたいものがあるんだよ。だから僕は君を離さない。

 君を、君と作る未来を守りたいから。ずっと君と一緒にいたいから。


 そう言えたら、どんなにいいだろう。


 記憶のない君はお姉さん夫婦のことも、僕の告白もプロポーズも覚えていない。何故かその期間だけポッカリと穴が空いたように、覚えていないのだ。


 散った花びらはただ波に散りゆく。揺蕩うそれは君の揺れる心に似て、僕は切なくなる。

 僕だけを見て。そう言えたら、どんなにいいだろう。


 記憶のない部分よりも前の君は、別の人に恋をしていた。その人は別の人に恋していて、いつしか両思いになった。

 つらそうにしていた君がふっきることができるように、たくさん外に連れ出した。

 映画も、食事も、花見も。仲間たちと騒ぐ川遊びも、バーベキューも。

 川っぺりで遊んでいた皆が足を滑らせて川に落ち、笑って君に差しのべた手。それを一瞬迷った君は、諦めようとした僕の顔を見てニヤリと笑って、僕の手を握ることなく僕に抱き付いたから、僕もびしょ濡れになったっけ。


「尚人、ずっと私のそばにいてね」


 事故に遇う前、そう言った君。もちろん、君の隣……それは僕で、未来の家族。

 そう言ったら、君は顔を真っ赤に染めて「……バカ」と呟いた。


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