鬼の凄む山②
かすれた文字で『チケット売り場』と書かれた窓口には、50歳くらいのおばちゃんが暇そうに頬杖をついている。
「……あの、すみません」
凛月がそう声をかけると、人懐っこい笑顔で応対してくれた。
「おや。こんな時間に登るなんて、珍しいお客さんもいたもんだ!」
「え、あ……すみません……」
おばちゃんの勢いに押され、凛月は思わず縮こまってしまう。
「ばかだねえ、別に責めてるわけじゃないさ」
さっきの運転手に続いてこれまた
「もうすぐ
「はぁ……?」
「おや。あんた、もしかして知らないのかい?」
キョトンとした顔の凛月に、おばちゃんはニヤニヤ顔でそう言った。
「この伊吹山はね、人喰い鬼が住むと言われてるのさ」
「……鬼、ですか」
あまりに突拍子もない話に、凛月は同じ言葉をそのまま繰り返すだけ。
「そう。ま、昔からの言い伝えってだけで、実際に見たやつなんか一人もいないけどね。所詮は噂話さ」
「はぁ」
「あんた、さっきからはぁ……しか言ってないけど」
「ご、ごめんなさい」
「だから、いちいち謝らなくてよろしい!」
「は、はい!」
思わずつられて大声になってしまった凛月に、おばちゃんはやれやれと肩をすくめる。
「ところであんた、随分派手な髪してるねえ」
「っ……」
いくら言われなれたことでも、心に全く波風が立たないわけではない。
「もしかしてだけど、月子さんの親戚かい?」
うつむく凛月の顔を覗き込みながら、先ほどの運転手と似たようなことを問われる。
また、だ。どうやらこの髪色は祖母と関係があるらしい。
「そうです。一応、孫……みたいです」
「一応?」
不思議そうにこちらを覗き込んでくるおばちゃんに、凛月は慌てて釈明する。
「いやあの、私も最近知ったばっかりでして……」
「へえ。ま、あの人もなかなかに変わった人だったし、そういうこともあるもんかね」
「そうなんですか」
「そうさぁ。ずっとこの山のどデカイお屋敷で暮らしててねえ。愛想は良かったが、どこか浮世離れした感じというか」
懐かしむように語るその口調から、凛月はこの人と祖母の関係をなんとなく察することができた。
きっと、仲が良かったのだろう。
「あんたと、まったく同じ髪色だったせいかねえ」
やはり、そうか。
祖母も、自分と同じだったのか。
この、憎ったらしい髪。
「今からあの人のお屋敷に行くのかい?」
「あ、はい。今日から私が管理することになりまして」
「おやまあ! じゃああんたとは長い付き合いになりそうだ」
「そ、そうですよね。よろしくお願いします」
恐らく屋敷から繁華街に出るには、このロープウェイとバスを使わなければならないのだろう。
車があれば別かもしれないが、生憎と凛月は車も免許も持っていなかった。
「あいよ。こちらこそ。それで、あんた名前は?」
「久遠凛月です」
「あたしは
「よ、よろしくおねがいします」
受付からたくましい腕が差し出される。
それを握った凛月の頼りない腕が、ぶんぶんと振り回された。
「あ、そうだ凛月ちゃん」
ロープウェイを降りてからの道のりと、久遠家の人間は運賃が必要ない旨を説明した豊子が、凛月に向かって座ったままその身を乗り出してきた。
「ひとつ、忠告だ」
こそこそと内緒話のように、凛月の耳元で囁く。
「最近ね、この山に
「お、送り犬?」
「そう。夜に山道を歩いているとね、真っ黒な犬が後ろからぴぃったりとついてくるらしいんだよ」
「……へぇ」
こくこくと素直に頷く凛月。
「それでね、もし何かの拍子に転んじまうと、たちまちに食い殺されちまう」
「そ、そんな」
「でもねえ、もし転んじまったとしても、少し休憩をとっているふりをすれば見逃してくれるって、そういう妖怪さ」
「妖怪、ですか」
「この遠月市はね、河童やら座敷童やら天狗やら、いろ~んな妖怪があちこちに住んでいるのさ。外から来た人はみんな信じないけどねえ」
これまた突拍子もない話に、凛月ももはやなんと返せばいいのかわからず愛想笑いを浮かべるしかない。
「ははっ。ま、なんにせよ気を付けるこったね。久遠の御人といえども、ね」
「久遠……」
──また『久遠』。
正直、鬼だの犬だの妖怪だの、そういった話に関して凛月は全く興味もなければ信じてもいない。
そんなことより、自分の家系はなにか特殊なのだろうか? ここに来てからその疑問が増すばかりだ。そういった話は両親や他の親せきから一度も聞かされたことがない。
だが、思い当たる節がないでもない。
この髪色だ。
日本人ならまずありえない、透き通るような、忌々しい水色。
何度黒染めしても次の日には戻ってしまう、
この奇異な髪色のせいで、小さい頃から散々な目にあってきた。
「ご忠告、ありがとうございます」
「いいのいいの。月子さんには世話になったからね。そのお返しさ」
実は軽く聞き流しているだけの凛月に気づいているのかいないのか。そう言いながら、女性にしては大きな手で凛月の頭をぐりぐりと撫でまわしてくる。
「あ、あの長峰さん。私、もう今年で20歳なんですけど……」
「おんやまあ! 全然そうは見えないねえ! その立派な胸以外は! はっは!」
時間にして10分足らず。その間にあらゆるコンプレックスをいじられた凛月は、顔を真っ赤にして足早にロープウェイに乗り込むのだった。
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