第三幕 オシラサマ

変態ニートとすねこすり

「んん……」


 足元にむくみのような違和感を覚え、目を覚ます。


 障子から差し込む日の光の蒼さと空気の匂いから、自然にいつもの時間に起きれたのだとわかった。


 もうすぐ6月とはいえ、山の朝はまだまだ冷える。真冬とはまた違った寒さが凛月の顔をそっと覆っていた。


 外の気温を考えると布団から抜け出すのも億劫だが、そろそろ華が朝食を作り始める時間だ。


「……よしっ」


 そう気合を入れて、凛月はガバッと掛け布団をめくり上半身を起こす。


 温まった空気がサーっと逃げていき、代わりにひんやりとした心地よい冷気が流れ込んできた。


「くちゅん」


 すると、足元の方からかわいいくしゃみが。


「やっぱり」


 脚の間、ちょうどすねのあたり。そこに、可愛らしい栗毛の子犬が丸まっていた。


「ほら、風ちゃん。朝だよ〜」

「……くぅ」


 凛月の右脚にコアラみたいにしがみつく風の身体を控えめに揺らす。


 ここ最近毎日のように一緒に寝ている、というより勝手に布団に潜り込まれているので、凛月もすっかり慣れてしまった。


「……んあ」

「あ、起きた」


 さっきまで気持ちよさそうに微睡んでいた瞳が、パチリと開く。


 そしてのそのそと4つ脚で起き上がると、全身をプルプルと揺らした。


 風と鈴。彼女たち姉弟の正体は『すねこすり』という妖怪だった。夜な夜な通行人の脚の間をくぐり抜けてその脛をなでていくという、何やらよくわからない妖怪である。


 言い伝えでは、まるで犬のような姿をしていたとかいないとか。


「おはよう。風ちゃん」

「あ、凛月おねーちゃん……おはよぉ。今日もさむいねぇ」


 もはや人外の者が言葉を喋るくらいでは、凛月は微塵も驚かない。


「そうだねー。でも」

「きゃ!」

「風ちゃんを抱っこすると……あ〜あったか〜」


 羽みたいに軽いその身体を胸元に抱き寄せ、両手で抱っこする凛月。


 ふわふわの毛と、人より高めの体温が心地よい。


「もお、おねえちゃん〜」


 そう言いながら凛月の腕の中でもぞもぞと動く風も、どこか嬉しそう。


 キラキラと輝くまんまるの瞳に、くりんとあがったしっぽ、ピンと尖った耳。そして全体的に丸っこいその身体は、テレビで見た柴犬を彷彿とさせる。


「ぐりぐり〜」

「ちょっとおねえちゃ……あははっ、くすぐったいよぉ」

「……あー、たまらん」


 子犬の姿になっている風の、柔らかな毛に覆われたお腹に凛月は顔を埋める。


「すーっ」


 言葉ではなんとも言えない、寝起き独特のかぐわしいケモノ臭が凛月の寝起きの脳みそを溶かしていく。


「凛月おねえちゃん、それ好きだねー」

「うん……。何というか、クセになるというか」

「へー、よくわかんないや」


 子犬の腹に顔を埋め、一心不乱に息を吸うその姿はまさしく変態のそれである。


「でも、そんなにいいなら……えい!」

「うわあ!」


 風の言葉と共に、ぽん! と音がしたかと思うと、初めて出会ったときと同じ人間の姿の風が、凛月の膝の上に座っていた。


「びっくりしたー……って、風ちゃん?!」


 眼前に広がる衝撃の光景に、凛月はあぐらをかいたまま飛び上がりそうになる。


 目の前で、一糸まとわぬままの風が凛月を見つめていた。


 あまりの光景に凛月は鯉のように口をパクパクさせるばかり。


 そんな凛月を知ってか知らずか、穢れを知らない幼女は汚れた大人を堕落させるかのように、無自覚に餌を撒く。


「こっちのお腹も、すりすり、する……?」

「んなっ?!」


 恥じらいからくる潤んだ瞳、わずかに蒸気した頬。


 膝立ちになった風の、くびれのないぷにぷにですべすべで真っ白で愛らしいそのお腹。


「フー……フー……」

「お、おねえちゃ……息が」


 凛月……もとい変態の鼻息が、風の首筋と栗色の髪を撫でる。


 ギラギラと血走った瞳が、上下する小さなおへそを捉えて離さない。


 本当にいいのか? 大人として、いやそれ以前に人間として。


 そうだ、後でお小遣いでもあげよう。それならギブアンドテイク。もーまんたい。


 滅多にこの屋敷から出ることはないが、華からもしもの時のためにもらったお金が財布の中に──


「おねえちゃん……は、はやく……」


 そんなトチ狂った思考を一瞬で全て吹き飛ばすような、清涼なる一陣の風が凛月の耳から体内へ吹き荒れる。


 純真無垢であることがいかに凶器になり得るか。それを凛月は身をもって体感し、そして。


 プツンと、何かが切れる音がした。


「ふ、風ちゃああああああああああ」


 わきわきとうごめく凛月の両手が、眼前の幼い身体を抱きしめようとその触手を伸ばしかけた、その時。


「あらあら凛月様? 朝から随分と楽しそうですねえ?」

「あ……は、華……さん」


 人は笑った顔が1番怖いのだということを学んだ、5月下旬の朝であった。

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