第二幕 主とメイド
はじめての朝
「凛月様~」
優しい声が朝陽と共に障子をすり抜け、凛月の意識をゆっくりと揺らす。
「ん、んん……」
それに抵抗するように、凛月はもぞもぞと布団の中に身体を潜らせた。
「凛月様~、朝食のお時間ですよ~」
「……ん……」
朝に弱い凛月は、駄々っ子のようにかたくなに布団から出ようとしない。
華の用意した匂い袋のせいもあって、まるで布団の方が凛月を離すまいとがっちりその身体を掴んでいた。
そんな凛月に、華は必殺の呪文を放つ。
「あらあら。せっかくとっておきの美味し~いたくあんをご用意しましたのに」
「……………………」
ぴくん、と凛月の全身が反応したのを自慢の耳で察知する華。
もう一押し。そう判断した。
「これでは、他の方たちに全て食べられてしまうかもしれませんねぇ。わたくしの漬けるたくあんは絶品らしく、すぐなくなってしまうもので……」
「……………………。起きます」
「はい♪」
何故かは皆目見当もつかないが、もしかしたらこの人は自分のことを自分以上に知っているのではないだろうか。
そんなちょっぴり複雑な気持ちで迎える、凛月の久遠屋敷における初めての朝であった。
空は清々しく気持ちの良い快晴。時刻は朝食には少し遅い10時過ぎ。
ガラス戸が開け放たれ朝陽に照らされた久遠屋敷の廊下は、歩くたびにキシキシと音をたてその歴史の古さを感じさせる。けれど、手入れが行き届いているのか裸足で歩く凛月の足裏が汚れるようなことはなかった。
ガラス戸から見える中庭も、昨夜謎の妖怪たちが半狂乱で踊り狂っていたのがまるで嘘だったかのように静まり返り、その奥にそびえる緑の山々からは小鳥のさえずりすら聞こえてきそうだ。
そんな景色を眺めながら、改めて昨日の出来事を思い出す。
あんな非日常を体験し、今も自分の目の前を獣の耳としっぽを生やした女性が歩いている。
だというのに。
凛月は、自分でも気づかないうちにこのとんでもない状況を受け入れつつあった。
「昨夜はゆっくり眠れましたか?」
凛月に背を向けたまま、前を歩く華が突然口を開いた。
「え、あ、ああうん。ぐっすり眠れたよ。布団はふかふかだったし」
「そうですか、それはなにより」
安心したように、華は頷く。
それと同時に袴の下でしっぽもゆらゆら揺れていて、なんだかかわいらしい。
「あとそれに、なんだかいい匂いがした」
「あら、お気づきになられましたか」
「うん。あれ、華さん……華が、用意してくれたんだよね?」
さん付けは許さないぞ。
そんな言葉を背中から無言で投げつけられ、凛月は慌てて訂正する。
「はい。わたくしが」
「そっか。ありがとうね」
「いえいえ。凛月様専属のメイドとして、当然のことですから」
表情は見えないが、凛月の言葉を聞くたびにしっぽがわさわさとせわしくなく揺れている。
案外、身体に気持ちが出やすいタイプの人なのかもしれない。そう思うと、自然と口元が緩んだ。
他人と関わるのはあまり得意ではない凛月だが、この華という人物はそんな凛月の心にするっと滑りこんでくる。そんな感覚を覚えた。
「ところでその……あなたのこととか、他のことも。色々と教えてもらえると嬉しいんだけど」
すぐ前を歩く華の様子を探りつつ、凛月は尋ねた。
自分の置かれた奇妙な状況を受け入れつつあるとはいえ、そのままそれを無視できるほど凛月も何から何まで納得しているわけではない。
「もちろん、そのつもりです。ただし」
華の踊るような歩調に誘われながら廊下の突き当りを曲がると、正面には様々な大きさの靴が並べられた土間。そして、その右側には──
「い、囲炉裏……?」
板張りの広間の真ん中に、ちょうど膝から下がすっぽり入りそうな深さに掘られた正方形の掘り。そしてその内側には木炭がくべられた囲炉裏部分と、それを囲うように造られたテーブル代わりの檜の板。
時代劇でしか見たことがないようなその光景に、凛月はタイムスリップでもしてしまったかのような錯覚を覚える。
「ちゃ-んと、朝ごはんを食べてから。ですよ♪」
そのテーブルには、なんとも食欲をそそる湯気をたゆたわせたホカホカの白米とみそ汁、ほうれん草のお浸し。そしてなにより、凛月にとって最も大事なたくあんが黄金色に輝いていた。
「た、たくあん……!!」
「凛月様の好みに合わせて、少し濃いめに味付けをしました。白米にもよく合うかと」
「ほわぁ……!!」
大きな瞳をさらにまんまるに広げ、キラキラと輝かせる凛月。
そんな凛月を見て、華はしっぽを膨らませながらもその背中を軽く押した。
「ささっ。まっすぐ行ったところに洗面台がありますから、たくあんを召し上がる前にお顔を洗ってきてください」
「う、うん! わかった!」
「タオルは適当に新しいものを使って構いませんから」
「了解! それじゃあ行ってきます!」
「はーい」
母性溢れる笑顔に見送られながら、凛月は慌てて洗面所へ向かった。
それから、数分後。
「ここ、どこ……」
まっすぐ、と言われたので廊下をまっすぐ進んでいたのだが、あまりにも左右に部屋が多すぎてどこが目的地である洗面所なのかが全く分からない。
普段はあまり感情が表に出ないタイプの凛月も、大好物のたくあんのこととなるとどうしても子供の様にはしゃいでしまう。ロクに確認もしないで駆けだしたことを猛烈に後悔していた。
「しょうがない、戻ろう……」
土間に置いてあった靴の数から、恐らくここに住んでいるのは華と生吹だけではない。
適当に扉を開けて、入ってはいけない場所に入ってしまっても困る。
そう思い、一度広間に戻ろうと回れ右をすると。
「ぷわぁ!」
「ぶわぁ!」
凛月の腰に、なにやら柔らかい感触が2つ、ぶつかってきた。
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