第48話 生き物と共に
まだ梅雨入りはしてないけれど、ここ
ゲッゲッゲッと庭で鳴いているのはアマガエルだし、もうすぐ雨が降るのかも知れない。
夜ともなれば、ガラス窓に沢山の虫達が集まってきて、ちょっと油断すれば、そやつらは家の中まで入ってくる。
春と夏の間の、賑やかな夜。
「あ、ヤモリ」
窓にペッタリと張り付いたそれは、
サバっちもヤモリに興味を持ったのか、窓を見上げてにゃあと鳴く。
ヤモリは漢字で家守と書くくらいで、害虫などを食べてくれるありがたい存在だ。
見慣れれば可愛いし、触れば意外とサラサラしていて手触りがいい。
「隠している部分が丸見えですよ~」
窓の向こう側にいるから、お腹や足の裏が
その白いお腹は、ちゃんと呼吸のリズムで動き、その足の裏は、吸盤ではないことを教えてくれる。
「ふふふ、ファンデルワールス力なのです」
ツルツルの窓ガラスに張り付けるのは、足の裏に数十万本もの微細な毛があって、更にその先端は無数に分岐しているかららしい。
それが分子レベルで作用してくっつくもので、吸盤のように吸着しているわけではないのだ。
……よく解りませんが。
ただ、そういった仕組みを応用し、粘着剤を使わないテープが開発されてたりする。
ヤモリテープなどとも呼ばれ、粘着剤ではないので何度でもくっつくし何度でも
剥がした跡もベタベタしたりしない。
可愛い顔をして、ヤモリさんはなかなかに偉大な存在であらせられるのだ。
それにしても、生物の構造は本当に不思議なことで満ち
それらを解明し、応用することで、人間の生活に役立つことが山ほどある。
私達の日々は、生命の神秘と人類の叡知に彩られ──
「あ、ゲジゲジ」
生物観察が好きとはいえ、さすがに室内にいるゲジゲジを放置するわけにはいかない。
「ふ、侵入者には優しく出来んな」
私は立ち上がり、五枚重ねたティッシュでそやつを
最初は気持ち悪くて見るのも嫌だったが、ゲジゲジも害虫を食べるらしいし、ムカデみたいに無闇に
見た目はグロくて動きは速いから、一回目の捕獲こそハードルは高かったが、慣れてしまえばどうということはない。
私は窓を小さく開け、そいつを外へ放った。
あ……入れ代わるように小さな
「美月ー、冷蔵庫の──何やってんだ?」
「あ、孝介さん。いえ、ゲジゲジを外に逃がしたら、代わりにこやつが入ってきたので」
蛾の場合、ティッシュだと潰してしまう可能性があるので、屋内用に常備してある小さな捕虫網を振り回す。
ゲジゲジを捕まえたり逃がしたりすると、みゃーは少し困ったように顔を
「蛾くらいべつにいいけど、それよりマグロの刺身を知らないか?」
「え? マグロの、お刺身?」
「ああ。晩飯の残りを冷蔵庫に入れておいた
「……マグロのお刺身なら、ここに」
私はサバっちのお腹を指差した。
「なっ!? サバっちにやったのか!?」
孝介さんは手に缶ビールを持っている。
恐らく、最初からツマミにするつもりでマグロを残しておいたのだろう。
「私を女体盛りに使ってくださっても構いませんが」
「盛るものが無かったら、ただの女体じゃねーか!」
「おかずを奪ってしまった私を、オカズにしてもらってもいいのですが」
「器にもオカズにもなるのかよ!」
「何なら、今度アレをいたすときにマグロになってあげますが」
「お前にマグロが務まるか!」
「あらあら、私がピチピチした若鮎だと言いたいのですね」
「言ってねー!」
まったく、ああ言えばこう言う。
「サバっちが、マグロのお刺身が欲しいよー、と言ったので」
「言うか!」
確かに口に出して言いはしませんでしたが。
「じっと冷蔵庫の扉を見ていたので、恐らくこれだろうと」
普段、サバっちがあまり見せない行動だったから、私は冷蔵庫を開けた。
サバっちが私を見る目は、いつもみたいに素っ気ないものじゃなくて、割とひたむきなものに感じられた。
「……そっか」
何故か孝介さんは、懐かしそうに目を細めてサバっちを見た。
「
「にゃー」
「まったく、全部食いやがって」
伸ばした手で、サバっちの頭を小突く。
「にゃー」
サバっちはみゃーに一番懐いているけれど、それとはまた別に、孝介さんとは何か特別な繋がりがあるように見える。
「お前達がここに来る前、まだサバっちと二人きりだったときに、何度か刺身をやったことがあったんだ」
一人でご飯を作り、一人でご飯を食べていた孝介さん。
でも、
つい、自分のおかずをサバっちに分けたりしたのだろう。
「それはそうと美月」
あれ? 優しくなっていた孝介さんの目が、何だかお
マグロの件は解決した筈ですが……。
「お前、今日も学校サボっただろ」
孝介さんが缶ビールを飲みながら、ちょっと厳しい目を私に向ける。
「サボタージュではありませぬ。ボイコットです」
「
「詭弁ではありません! 確かにサボってばかりいるのは事実ですが、単位は落とさないようにちゃんと考えて行動しています」
「もしかして……大学が、楽しくないのか?」
今度は心配そうな顔になった。
「めっちゃ楽しいですが?」
「だったらどうして、ボイコットなんか……」
……まったく、私がサボることなんて珍しくもないのに、今日に限って理由を聞いてくるとは。
「サボるのは私が
「解剖……実習?」
「はい」
「美矢は何も言ってなかったが?」
「みゃーとは選択科目が違うので」
「……そっか」
孝介さんの目が穏やかになる。
「別に私は、動物保護を
「いや、それくらいのことは、エゴとは言わんだろ」
「犠牲による恩恵だけは
「それでいいよ」
「え?」
「お前はそれでいい」
「でも」
「ゲジゲジすら逃がしてやるお前は、それでいいんだ」
さっきみたいに、どこか嬉しそうに孝介さんは頷く。
部屋に入り込んでいた蛾が、私の腕にとまった。
コヨツメアオシャク。
小さく、淡いエメラルドグリーンを
「お前は、それでいいよ」
孝介さんが、同じ言葉を繰り返した。
私は何故か、少しだけ泣いてしまった。
サバっちも、にゃあと鳴いた。
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