第46話 オタマジャクシ

新緑が眩しい季節になってきた。

私は寝ぼけまなこを擦り、居間から庭を眺めながら、まったりと砂糖多めのココアを飲む。

静かだ。

そろそろ田植えが始まるので、ここのところ孝介さんは忙しそうだし、みゃーは私を置いて大学へ行ってしまった。

時刻は十時。

家を出る予定時間はとっくに過ぎているけど、どこかから聞こえてくる耕運機の音は、慌ただしさよりも長閑のどけさを感じさせた。

急がば回れ、果報は寝て待て、短気は損気、寝る子は育つ、いてはことを仕損じる。

昔の人はいいこと言った。

私はそれらの言葉たちの体現者である。

「城塚さーん」

ん?

「宅急便でーす」

私は自分を見た。

寝間着代わりの高校時代の体操服だ。

うむ、問題あるまい。

「はいはーい、ただ今」

私はトコトコと玄関に向かう。

実家にいた頃の私なら、当たり前のように居留守を使っていたけれど、今の私は主婦のようなものだから、当然、荷物は受け取るのです。

……それにしても、宅急便って何だろう?

基本的に、私達はネット通販は使わないし、使ったとしても三人でパソコン画面を見ながら、これにしよう、あれにしようと相談し合ってから購入する。

近所の人が何かくれるとしても、無造作に玄関先に置いていくことが多いし、宅急便で何か届くことなんて、私の両親がたまにつまらないものを送ってくるくらいだ。

玄関を開けると、若いニイチャンが大事そうに段ボール箱を抱えて立っていた。

「あ、どーもー」

元気のいい挨拶の後、何故か私の胸元を凝視する。

さては体操服に欲情する変態か、それとも貧乳フェチなのか。

まあ私が魅力的であるのは否定しませんが。

「えっと……城塚さんですよね?」

「そうですが?」

住所と表札を見て届けにきたであろうに、何を言っておるのか。

「この家の人ですか?」

家から出てきたのだからこの家の人に決まっているのに、こやつは何を言っておるのか。

しかも視線は胸元に向けたままではないか。

この変態め、そんなに私の胸が──あ。

私は視線を落とした。

胸元には、多摩の文字が縫い付けられている。

「……すみませんでした」

「は?」

「あ、いえ、旧姓です」

「あ、あー、随分とお若い奥さんで」

ふふ、ふふふ。

奥さんと呼ばれて頬が緩む。

私は意気揚々と『城塚』とサインし、

「お疲れ様です」

ねぎらいの言葉をかけるのだった。


段ボール箱を居間に運び、宛名を確認すると『城塚美月』になっていた。

ふふふ、タマちゃんタマちゃん言われてますが、私は城塚美月なのです。

ネットで注文した商品のようで、伝票には精密機器と書かれている。

送り主は孝介さんだ。

通販サイトで、何か私が欲しがるものでも見つけたのだろうか。

私は荷物の前で正座し、丁寧に梱包を解いた。

「……わあ」

中から出てきたのは、顕微鏡だった。

私は一度だって顕微鏡が欲しいなどと言ったことは無いけど……さてはあの人、ストーカー並に私を観察してますね。

まったく、無駄遣いはダメってみゃーに言われてるのに、困った人なのです。

私はニヤニヤしながら顕微鏡を持ち上げる。

宝石でもないのに太陽にかざし、キラリと反射する金属部に見入る。

「カッコ良きかな!」

私は白衣が欲しくなった。

マッドサイエンティスト美月爆誕!

私は何か顕微鏡で見るものは無いかと家の中を探し回る。

だが、ふと思い立って日溜まりの縁側へ行き、顕微鏡を隣に置いて寝転んだ。

楽しみは、後に取っておくことにしよう。


サバっちもやってきて、しばし一緒にうつらうつらとする。

浅いけれど心地よい微睡まどろみは、深い悦びと豊かな夢を私に見せてくれた。

肉眼で見えない世界が見えるということは、世界が広くなることと同じ意味を持つ。

手の届く範囲に、私の知らない世界が広がっているんだ。

……おっと、微睡んでばかりいられない。

働かざる者、食うべからず。

まだお昼になったばかりだけど、折角だから晩御飯の用意でもしておくのです。

私はエプロンをまとった。

活動的な衣装の体操服と、料理人の防御服であるエプロンの組み合わせは、躍動感溢れる調理を可能にする。

しかし、裸エプロンならぬ体操服エプロンという新たな性癖を、孝介さんに目覚めさせてしまうかも知れない危険な装いでもある。


……私はちまちまと調理した。

だいたい、私はみゃーほど手際が良くないし、そもそも調理に躍動感は必要ないのである。

ひと手間ひと手間、食べる人の笑顔を思い浮かべて作っていくのが一番だ。

「にゃー」

サバっちが足元で鳴く。

はりきってるなぁ、と言いたげだ。

トントン、グツグツ、ジャー。

台所に、音が弾んで賑わう。

「にゃー」

美味しそうだねと言いたげに、サバっちは鼻を鳴らした。

「にゃー」

「にゃー」

調理の合間に、サバっちとたわむれて遊ぶ。


「ただいまー」

孝介さんが先に帰ってきた。

料理はほぼ出来上がっている。

私はオタマを持ったまま玄関へ向かい、それを尻尾しっぽみたいに振り回しながら「お帰りなさい」と言う。

「お、いい匂いがするなぁ」

食べるまでもなく、孝介さんは笑顔になる。

「孝介さん孝介さん!」

でもきっと、私はそれ以上に笑顔なのだ。

「どうした?」

「顕微鏡が届いて体操服エプロンですが!」

喜びを伝えようとして支離滅裂になる。

孝介さんが、私の頭をポンポンと叩いて目尻のしわを深くする。

「ちょうど安かったから、美矢と二人で選んだんだ。お前の探求心に役立つだろうって」

「探求心マックスであります!」

孝介さんの笑顔もマックスになった。

「で、もう何か見たのか?」

「最初に何を見るか直ぐに決まったので、ずっと我慢していたのです」

「へー、我慢せずに見ればいいじゃないか」

「孝介さんの協力が不可欠なので」

「ん? 俺が手伝えるなら、協力くらい何でもするが?」

「マジですか!?」

「いや、それくらい当たり前だろ」

「では、今すぐ孝介さんのオタマジャクシを盛大に放出──あいたーっ!」

私が手に持っていたオタマを奪い取り、孝介さんは私のアタマを叩く。

私の性的探求心は、叩きのめされてしまいました。

……でもまあ、採取の機会はいくらでもあるのです。

口と手と股間と、あるいは胸や髪さえも?

手段は幾らだってあるのです。

そうやって、元気に泳ぐ孝介さんのオタマジャクシを、私はみゃーと一緒に見るつもりです。

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