タマちゃん日記

杜社

第1話 カタツムリとミュータンス菌

もうすぐ梅雨だというのに、今日もいい天気だ。

本当は葉っぱに朝露が付く時間に起きたかったのだけど、いつも通り寝坊してしまった。

私は寝ぼけまなこを擦って庭に出る。

縁側で惰眠をむさぼるサバっちが、ふと顔を上げてこちらを見たものの、「なんだ、タマか」みたいな顔をして再び眠る。

サバっちの首輪に付いた鈴が、ちりんと鳴った。


庭の片隅にある蔵の横に、沢山のアジサイが咲いている。

梅雨の季節、アジサイとくれば、あとはカタツムリだ。

「でーんでーんむーしむーし……」

アジサイの葉っぱを裏返したりして目的のカタツムリを探す。

カタツムリなんて珍しくもないのに、いざ探してみるとなかなか見つからない。

「おーまえーの……んん、寝起きはあまり声が出ないのです。あー、んん、あーたまーはー」

何故かサバっちが縁側を去った。

私は歌うのをやめ、空をにらむ。

やはり天気が良すぎると、奴らは隠れてしまうのか……。

いないとなると、余計に見つけたくなる。

私はホースを引っ張ってきて、庭に水をくことにした。

「あーめあーめふーれふーれ」

放物線を描く水が、きらきら光って庭が賑やかになる。

アジサイの花と、ほら、アマガエルも鳴き出した。

「奴らが顔を出すのも時間の問題なのです」

くふふ、と私は笑みを漏らした。


ありふれた存在のカタツムリは、実はとても奇異な生態であることを最近知った。

それを知った以上、私は奴らを見逃すわけにはいかない。

無邪気な子供たちに「でんでん虫」などと呼ばれ世をあざむいているが、なんとアイツらは雌雄しゆう同体だったのだ!

……いや、生物教師を目指してるくらいだから、私は知ってましたけどね。

ただまあ、そんな彼らの交尾は見ておかねばと思うわけです。

生物教師を目指す者として。

つまり、つらぬき貫かれるを同時に味わうアブノーマルな生態を、知的好奇心に基づいて観察しようというわけです。

後学のために。


さて、そろそろ奴らもい出てきた頃合いか。

私はアジサイの根元をのぞき込む。

「む」

ナメクジがいた。

こやつめもからが無いだけでカタツムリと大差無い。

「むむ」

ミミズが這っている。

そういえばコイツも雌雄同体らしい。

あれ? ……カタツムリ、ナメクジ、ミミズ、雌雄同体だらけ?

なんと我が家の庭は、日々アブノーマルなうたげの会場となっていたのか!

母屋おもやに住む我ら主人の方は、極めてノーマルなプレイをしているというのに!

……そうでもないかな?

まあ、三人だし、そのうち世界も広がるし?


ん?

あつらえ向きに、二匹のカタツムリを発見。

寄り添うような姿は微笑ましいが、そういったこちらの印象を嘲笑あざわらうかのように、お互いの凸をお互いの凹に挿入するという素晴ら──いや、恐ろしい芸当をやってのけるのだ。

しかもその凹は比較的頭部の近くにあって、更に凸は凹の中から出てくるという。

なんと面妖な!

もしかして、童謡の歌詞にある「つのだせやりだせあたまだせ」と言うのは、凸のことを指しているのではないか?

つまり本当の意味は、「お前の凸はどこにあるんだ、おら、凸出せよ」と言っているのではないか?

……恐ろしい。

子供が無邪気に歌う歌詞に秘められた、その生々しい真実に私は戦慄せんりつした。


「美月ー、おい美月ー」

孝介さんが私を呼んでいる。

私はカタツムリの観察などほっぽって、孝介さんの声のする母屋へ駆け込んだ。

まったくもう、うちのご主人は私がいないと寂しくて仕方ないのです。

心配させては可哀そうなので、急いで顔を見せてあげましょうぞ。

縁側から居間を横切り廊下に出る。

右から気配を感じる。

玄関だ。

「孝介さん孝介さん」

私はそう呼びながら、期待に胸をふくらまらませた。

きっとどこかへ出かけようというお誘いなのです。

外から軽トラのエンジンがかかる音がした。

孝介さんは玄関で私を待ち構えていた。

どうやら軽トラのエンジンをかけたのはみゃーのようだ。

あれ、軽トラって二人乗りですが?

「今から美矢と出かけてくるから、お留守番、頼むな」

「なっ!?」

私は絶句した。

恐らく今頃は、庭でお互いの凸凹を絡み合わせているであろうカタツムリ。

そして、みゃーと二人でお出かけの孝介さん。

「にゃあ」

そっか、お前がいたね。

私は足元に擦り寄ってきたサバっちに手を伸ばす。

「いや、ただ歯医者に行くだけなんだから、そんな顔するなよ。美月は虫歯ひとつ無いんだし」

なぁんだ、歯医者か。

「ふっふっふ、私はミュータンス菌に感染していないようなのです」

マウントを取るのは私の方だったようだ。

「ミュータンス菌? いわゆる虫歯菌のことだっけ?」

「そうです。幼少期に、親とキスしたり、口移しで食べ物をもらったり、コップやスプーンなどを共用したりすると感染するようです」

孝介さんが複雑な顔をした。

どうしたのだろう?

「美月」

「え? ちょ、突然ムラムラが押し寄せてきましたか──わぷっ」

キスされた。

いきなりの強引な行為に戸惑う。

だが意図は読めたのです。

「ざ、残念でした。ミュータンス菌は大人にはほぼ感染しないので──むぐっ」

再び口をふさがれる。

でも、舌は入ってこない。

唇と唇を合わせ、そして頬擦りして、頭をポンポンされて、ぎゅっと抱き締められる。

……ああ、そうか。

私が、親とキスしたり、口移しで食べ物をもらったり、一つのスプーンやお箸で一緒に食事をしたことが無いという事実が、孝介さんをき動かしているんだ。

その唇が、手が、その全てが私を包み込む。

触れる肌と体温に、私はとろけて満たされる。

だけど、私の中の天邪鬼が、いつものように頭をもたげてきた。

ああ、言ってしまう。

でも、それもまた──

「孝介さん孝介さん、庭に孝介さんより技巧派のカタツムリが──」

「そんなカタツムリはおらん!」

全てをゆだねて、安心しきって繰り返されるやり取り。

ほら、伸びてきた大きな手が、いつものように優しく私の頭を叩くのだ。

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