『昼と夜との間に現れた怪物』

森 桜惠

第1話

 江川卓はデーゲームに弱い、というのが、世間では定番の意見だった。


「デーゲームに弱い訳じゃ無えよ。ナイターに、江川はめっぽう強いだけなんだよ」


 午後2時から始まった試合は、テンポよく進んでいた。その日の先発、江川をテレビ中継で見ながら、私のじいさんはこう言った。


「あのな。ナイターの照明ってあるよな、それが、いちばん明るく照らしているのは、マウンド間、つまりスポットライトは、ピッチャーに当たっている訳じゃない。まあ、それはそうだ。ピッチャーが放った球が、ともかくバッターにも、観客にも見えなきゃ意味が無いからな」


 それがどうして江川に有利になるの? と聞くと、じいさんは口元だけで笑いながら、こう答えた。いい質問だな、と前置きの後、


「江川のピッチングフォームは、もともと球の出どころが見にくい。それがナイターになってみろ。ピッチャーの後ろ、後楽園球場は、明るくないどころか、暗闇だぜ」


 暗闇かなあ、と言うと、じいさんは、こう言う。マウンド間がいちばん明るい以上、ピッチャーの場所は相対的に暗い、センター方向を含め、外野はもっと暗い、という説明をしたあと、


「バッターから見たら、江川の後ろは闇だ。その闇から、とんでもない球筋のボールが、すっ飛んでくるんだ。打てるわけねえよ、そんなもの」


 球場全体が明るい、デーゲームでは、その球筋が見やすい分、いくらか打者に、有利になる、という理屈だった。


「とは言っても、怪物は怪物だ。昼になったって、ボコボコ打奴の球を、打てる訳じゃない。それに今日の江川は、そこそこ調子がいいじゃねえか」


 ワインドアップから、踵で体を持ち上げたあと、ふわっとした感じで江川は投げる。打ち返すバッターは、みな湿った音を残したあと、ファールフライか、やっと内野フライで前に飛ばすのが、精一杯、という感じだった。じいさんの言う通り、今日の江川は確かに調子が良いようだった。


「嫌なやつだよな。いま江川は、6割くらいの力で投げてるんじゃないか。それでも打てないんだ。プロのバッターが、だぜ! ちょっと、どうかしてるよな」。


 パチン! とやはり湿った音がして、レフト方向に上がった球を、原と松本が小走りに追い掛ける。ファールゾーンで原が捕球し、スリーアウト。江川は表情を変えることもなく、ベンチに帰っていく。


 打たれるなんて、まるで考えてもいない、そんな雰囲気に見えた。試合はハイペースで進み、既に8回を投げ終えている。秋になって、日が傾くのが早いはずなのに、江川が得意な暗闇を、彼自身が待つまでもない、というふうにも見えた。

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