書庫整理

「神様を、信じたくなったんです」

 そう言って女は俯いた。小さく丸まった背中は、希望に満ち溢れた大学生とはとても思えなかった。


 本部からの呼び出しが入ったのは、昼食のうどんに手をつけようとした時だった。露骨に嫌そうな顔をしながらも親子丼を口に詰めるのをやめない後輩の 色嶋しきしまを見ながら電話に出る。

「はい、弓川ゆみかわです。事件ですか? それとも個人的な呼び出し?」

 まだ一口も食べていないというのに恐らく多くを残すことになるうどんを前に、少し嫌味な口調になる。

「お前の成績が優秀でなければ勝手に異動届を出すところなんだがな。事件だ、戻ってこい」

 上司の紀之崎も口はよく回る方だ。当然のように嫌味混じりの軽口がかえってきて、少し反骨心が湧いた。

「取り敢えず現場の場所、教えてください。近ければここから直行しますよ。ちょうど色嶋もいますし」

 そういって電話の向こうの相手にも聞こえるように、少し音を立ててうどんを啜る。向かい合って座っていた色嶋は笑いを堪えるように震える手で味噌汁を飲んだ。

「……昼食中失礼。現場は一ツ埜木ひとつのぎ女子大学の研究室。既に機捜が急行しているが、人が死んでいると通報があったので捜一からの人手が欲しいそうだ」

「了解。ここから近いので、に向かいます」

 明らかに苦虫を噛み潰したような紀之崎の声色を聞かなかったことにし、いつも通りの返事で通話を終了する。ぬるくなったうどんを殆ど飲むように食べながら、色嶋に金を渡して先にレジへ向かわせた。しかし長年染み付いた早食い癖は未だ衰えていないらしい。色嶋がレシートの上に乗せられた小銭にもたついている間に食べ終わり、並んで車に乗り込むこととなった。


 見渡す限り女性、女性、女性。なかなか見ない光景に圧倒されてしまう。色嶋に全て任せて帰りたいな、というのが一歩足を踏み入れた瞬間の弓川の率直な感想だった。

 勿論、私立一ツ埜木女子大学はその名の通り女子大学なので当然なのだが、捜一は基本的に男ばかりで女性は少なく、中高と共学に通っていたものだからここまで女性ばかりいうのは経験が少ない。腰が引けるのも仕方ない事であった。とはいえ職務は全うしなければならない。四方八方から飛んでくる興味と警戒の滲んだ視線にも臆することなく、真っ直ぐ歩いていく色嶋の後ろへ半ば隠れるように現場となった研究室へと向かった。

 件の研究室は構内を三百メートルほど歩いた所にある少し奥まった建物の地下に存在していた。人通りも少なく、普段は閑静な場所なのだろうと容易に推測できるが、今はその面影はない。証拠は一つでも見落とすものかと、機捜と鑑識がせせこましく動き回っている。 

 KEEP OUTのテープを潜り、一番近くにいた捜査員に声をかけた。

「お疲れ様です。警視庁捜査一課の弓川です。こちらは同じく、色嶋。状況は?」

「お疲れ様です。機捜の志摩です。現場の状況ですが、被害者はここの教授である あずま宗紀むねのり、五十六歳。この研究室の持ち主でもあるようです。」

 話を聞きながら色嶋に目配せをし、鑑識から情報を拾って来いと指示を飛ばす。

「後頭部を何か硬いもので一撃、凶器の特定はまだです。一応、隣室には事件直後に研究室周りにいた方々に集まって頂いてます。事情聴取はまだですが、どうされますか」

「ありがとうございます、容疑者の名前だけでもメモした紙をくれると助かります。聴取も、少し現場を見た後にこちらがします。機捜は大変ですから少しでも休んでください」

 心から思っての言葉だったが、男相手では弓川の優男風の顔も効かないらしい。紙を受け取ってそちらに目を移した隙に舌を出されてしまった。

 色嶋にでも見つかれば面倒臭い事になりそうだったが、当の本人は志摩のバディだろう男に話を聞いていた。何やら意気投合しているようで、喜びをにじませた顔を浮かべていることに心の中で胸を撫で下ろした弓川は、志摩に軽く会釈をして改めて現場を見回した。

 研究室というと、どうも理科の実験室のような部屋を思い浮かべてしまうが、教授は文系の専門らしい。壁一面の本棚に加えて、図書館のように並んだスチール棚も全て埋め尽くすように分厚い本や変色した本が詰まっていた。

 だが本棚を管理しているのは教授本人ではないだろう。巻数から作者名、果ては出版社による高さの違いまでキッチリ揃えられた、どこか神経質さも感じられる本棚とはまるで別人のような机を見て、弓川は確信した。

 教授の卓上はレポートと思わしき紙の束が適当に積み上げられ、まだ冷え切ってはいない珈琲の周りにはマグカップの跡が幾つか残っていた。そっと持ち上げると、底にヒビでもあるのかコップの下にも同じような染みがある。じっくり見ようとしたが、持ち上げた拍子に滴がポタリと落ち、慌てて元の場所へと慎重に置いた。

 弓川は引き出しの中や周りも調べてみたが、これといって怪しいものは見当たらず、事情聴取に移るかと色嶋を呼び寄せた。

「被害者との関係、分かりましたよ。全員被害者の研究室のメンバーだそうです」

 研究室を出て、待機してもらっている部屋までの短い廊下で情報交換をする。色嶋が鑑識や志摩の相棒(伊吹というらしい)から集めた情報は以下の通りだった。

 硬直具合や死斑からみて死後六時間ほどは経っているため、死亡推定時刻は今朝の八時頃。体内からは多量のアルコールを検出。酔っぱらって転倒した可能性も捨てきれないが、時間帯が時間帯のため怪しさが残る。また、被害者が抵抗した跡は見られなかったため外部犯の可能性も除外。監視カメラの映像から、事件当時にこの建物を出入りもしくは近辺にいた人は四人いることが分かっている。

 それがこの部屋に集められた人達だ。だがこの部屋で聴取を行う訳ではない。別室をわざわざ用意してもらったのには一応理由がある。一人ずつ事情聴取を行うのは、それぞれの話を正しく聞くためだ。得てして、女性というのは人の話に口をはさみたがる。弓川は、メモの上から順に一人ずつ連れてくるよう色嶋に頼んだ。


塩見しおみゆづる、二年生です」と聞き取れるぎりぎりの音量で名乗った一人目は、いかにも女子大生といった風貌の大人しげな女性だった。緩くまかれた長い茶髪が大学生らしさを醸していて、伏し目がちな彼女に明るい印象を持たせている。怯えさせないように表情に気を付けながらこちらも名乗る。

「捜査一課の弓川です。どうぞおかけになってください」

 彼女は一度色嶋を見た後、置かれた椅子に座った。あまり警戒されるとなんだか悪いことをしている気持ちになる。普段より柔らかい雰囲気を心がけて質問をした。

「えー、では塩見さん、今朝はなぜこちらに?」

「えっと、忘れ物を取りにです。今日の二限で使うもので、でも、地下には行ってません。忘れ物したのは二階の教室ですから」

「そうですか。では……教授のお人柄を教えていただけますか」

「はぁ、まあ女子大で勤務できてるんですから、まともな人だと思います。すみません、あんまり他人に興味が無くて」

 慣れて来たのか、声は小さくとも思ったよりしっかり女性のようだと思った。もう少し踏み込んだ質問をしても大丈夫かと、教授周りの人間関係についても聞いてみたが、人に興味が無いというのは本当のようで特に気になる回答では無かった。

「ありがとうございました。また何か気がついた点があれば私か色嶋に」

 軽く頭を下げて退室しようとした彼女に、「お酒は強いですか」と忘れていた質問を投げかける。ドアノブに手をかけた状態の彼女は怪訝そうに答えた。

「いえ、私は下戸です」


 二人目はかなり派手な見た目の女性だった。全体的に黒っぽい服装に、いたる所に十字架がついている。髪型も今どきらしく根元が黒い金髪のショートカットで、女性というよりは少女という印象が強かった。

「 笹倉ささくらかのえ、ゆづと幼馴染の二年生でーす」

 語尾が締まらない独特の話し方をする彼女だったが、話す内容はしっかりとしていて文学関連の研究室にいるだけはあると思った。だが、意外だと思ったのが顔に出ていたのか色嶋に睨まれたため、慌てて先程と同じ質問をする。

「今朝はー、あのー、あれ、ゆづが忘れ物したっていうからついてったの」

 確かに監視カメラには二人が一緒に映っていた。嘘では無いだろう。そういえば、この大学の監視カメラは研究室の鍵を借りられる午前七時から二十二時半までしか作動していない。守衛が常駐しているということもあるだろうが、女子大にしてはセキュリティが甘い。やはり経費の問題だろうか、などと考えながら教授の人柄や人間関係などを尋ねた。

「教授はねぇ、うん。優しいおっさんって感じ。いつもニコニコしてるし単位めっちゃくれるー」

 単位をよくくれるということは厳しいという訳でもないだろう。逆恨みの線は消えたように思う。最後に彼女にも同じ質問をした。

「お酒は強いですか?」

「任せてー。かの、ストロング余裕だから」

 何を任せるのか、グッとガッツポーズを決めた後にそのまま出ていった彼女に少々面食らってしまった。次を呼ぶ前に色嶋に聞いた所、ストロングとは若い世代の間では有名な強いお酒らしい。体には気を付けてほしいと思った。

 そのまま次の池中芹にも話を聞こうとしたが、男性が怖いようで色嶋に任せることになった。一度廊下に出て彼女の聴取が終わるまで待つことになり、暇を潰すためと新たな情報を得る為に研究室へ再び足を運んだが、特にめぼしい情報も無かった。色嶋とやたら気の合っていた機捜の男性の姿も見当たらず、何を話し込んでいたのかを聞くことはできなそうだった。本棚の空きや食器棚を見たりしているうちに終わったらしく、呼びに来た色嶋からその場で池中芹の聴取内容を聞く。

 池中芹いけなかせり、二年生。小柄で可愛らしい雰囲気の女性だが、人見知りのため色嶋相手でも目を合わせてくれなかったらしい。これといった特徴は無かったが、薄く香水の香りがしたという。どこの香水かは聞けなかったが柑橘系のいい香りがした、などと色嶋の報告はいつも余計なことが多い。話を本筋に戻させる。 

 池中芹は遅れたレポートを提出しようと現場付近にいたようだ。教授に対しては、慣れない男性なのであまり近寄っていなかったが、頼まれごとはよくされていたらしい。因みにお酒は飲んだことが無い、とはっきり言っていたとのことだ。直接顔を見て話せなかったのは痛いが、さして問題でもない。一人で聴取する羽目になった色嶋に労いの言葉をかけ、次を呼ぶように指示した。


「し、失礼します、山中です」

 そう言って入ってきた四人目は、随分と男性的な服装の女性だった。ラフなパーカーにジーンズ。眼鏡もアンダーリムのスクエアで、センター分けの髪型と相まって知的な男性のようにも見える。だが、学生ということは女性だろう。念のための確認もかねて、フルネームで問いかけた。

山中凛やまなかりんさん、ですね。今朝は何故?」

「かか、借りていた本を返しに、です。い、一限が終われば暇になるので、続きを借りようと」

 緊張しているようには見えないが語頭が重なっていることに気がつく。

「緊張されてますか? よろしければ色嶋に変わりますが」

 色嶋に軽く目配せをしたが、彼女は首を横に振って答えた。

「いい、いえ。き、吃音なんです。すみません。聞き取りにくいですか」

「失礼しました。問題無いですよ」

 デリケートな問題に踏み込んでしまったことを申し訳なく感じたが、彼女は気にすることなく教授について話してくれた。

「き、教授はなんていうか少し冷たい人というか、人によって態度を変える人でしたね」

 先程の笹倉叶が話していた教授像とはとはまるで別人の評価が飛び出してきたことに驚く。人によって態度を変える教授。恨まれそうな要素が再び浮上してきたことに、内心で頭を抱えるが、聴取はまだ終わっていない。話を聞いているうちにふと思い出した事をそのまま尋ねた。

「普段、研究室の本棚を整理されているのは誰が?」

 彼女はすぐに明るい声で「芹ちゃんですよ」と返し、そのまま続けた。

「せ、芹ちゃん、ちょっと神経質な所があって、で、でも彼女人見知りだし男性が怖いって言ってたんで、ぼ、僕が教授に頼んで整頓の許可もらったんです」

 確か池中芹は附属中学からずっと内部進学だと色嶋が言っていた。男性に免疫が無いのも頷ける。

「どうもありがとうございました。ところで、山中さんはお酒は?」

「め、明確に酔ったことは無いです。いい遺伝的に強い方だと」

 もう一度簡潔に礼を言って、彼女に退室してもらう。これで全員の聴取は終わりだが、人間関係がよく見えなかった。こればかりは一度に訊いたほうが早い。空腹なのか、慰めるように腹をさすっている色嶋を連れて、待機室へ向かった。


 部屋に一歩足を踏み入れると、すぐに笹倉叶が声をかけて来た。

「刑事さん、こん中に犯人なんかいなかったでしょー?」

「まだ何とも。皆さんの潔白を証明するために我々も尽力していますので」

 ありきたりな返答を返し、それぞれの関係を改めて聞く。口火を切ったのは意外にも池中芹だった。

「私は、笹倉さんとは一年の時にゼミが同じで、塩見さんとも、本の趣味が合って……同じ内部生というのもあって、すぐ仲良くなりました。山中さんは二年になってから知り合ったんですけど、優しくしてくれて、それで……」

 先に話してしまえば楽になると思ったのか少し早口で話し始めた池中だったが、緊張がピークに達したのか言葉尻は殆ど聞き取ることはできなかった。メモを取っている間に次に話し始めたのは山中凛だった。

「ゆゆづるとは一年のゼミが同じで、叶とは好きな音楽が一緒ってことで意気投合しました。せ、芹ちゃんとは、さっきも話した本棚の整理がきっかけで友人になりました」

 特に矛盾点も見当たらず、次の人を促す。

「叶とは幼稚園からの幼馴染です。後は大体皆さんが話した通りだと思います。」

「そーなの、あたしとゆづは幼馴染でー、芹ちも内部生だから実質同じ的なー? 凛は外部生なんだけど、めちゃ趣味合うしみんな仲良しだよー」

 隣の部屋が事件現場だというのにまったく気にした様子が無いのは、この世代全体なのか彼女たちが特別なのか判別がつかなかった。 

 彼女たちが話す内容の中から情報を拾いながらメモをしていると、突然笹倉叶が声をあげた。

「あっ、ゆづ、ゆづ! 刑事さんになんか聞いとかなくていいの?」

 何か疑問点でもあったのだろうか。男の自分では気がつかないようなことに女性は気がつくことがある。ポンコツな色嶋を横目に優しく声をかけた。

「何か、気になることでもありましたか? なんでも大丈夫ですよ」

「なんでも、ですか」

 塩見ゆづるは少し逡巡した後に、ゆっくりと尋ねた。

「やっぱり密室だったんですか。それとも地下なのに溺死とか、不可解な死だったりしましたか」

 話がいきなり思いもよらぬ方向に飛んでいき、思わず幼馴染である笹倉叶を見た。

「ゆづはー、推理小説っていうか、ミステリーっていうか、そういう小説大好きなんだよねー。折角本物の刑事さんにあったんだし一個くらい質問しとけーって」

「そうだったんですね。特に遺体の状況に不審な点はありませんでしたよ」

 捜査状況は簡単に教えることが出来ないため、若干のフェイクも交えながら改めて現場や状況の説明をする。だが彼女たちの中で新たに気がついた点は無かったようで、一度帰宅してもらうことになった。

 すっかり夕方になってしまった構内を隣に立つ色嶋と見つめる。彼女たちが帰宅した後、監視カメラを確認していた機捜から報告があった。人によって態度を変える教授の最悪な一面。全く、嫌な事件でしかない。苦い顔を見られたのか、色嶋が話しかけてくる。

「ため息なんかついてどうしたんですか。まさか、事件の犯人が分からないとか」

「ポンコツ。犯人が分かったからため息ついてるんだよ。やるせない」

 本当に分からなかったのか驚いたような表情をする色嶋に、今度は呆れのため息が出る。「行こう、全員下宿だったはずだ」


 インターホンの音がドア越しに響く。暫くして、小柄な姿が見えた。

「池中芹さん、少しお話よろしいですか」

 慌てて締めようとする彼女には申し訳ないが、色嶋にドアを押さえさせる。

「自首の方が罪が軽くなるので、出来るだけ自供してもらいたいんですが……この様子だと無理なようですね」

「か、帰ってください。話すことなんて何も」

「マグカップも同じところに置かなければ気が済まないんですね。お酒も同じマグで飲ませたんですか?」

 池中の肩がびくりと大きく揺れる。信じたくはなかったがこの反応は黒だろう。この手の人間は追いつめられると素直に吐いてくれることが多い。小柄な彼女と出来る限り目を合わせるようにして話を続けた。

「教授の遺体に不審な点はないと言いましたね。ですが、死因とは別に多量のアルコールが検出されたんです。それも二種類の。そういえば最近読んだ話題のミステリ小説にもそんなトリックがありましたよ。二種類の強いお酒を混ぜて、そこに柑橘類を絞る。するとアルコール臭さが消えて、気がつかずに何倍ものアルコールを摂取してしまうことになるんですね」

「あ、柑橘系の香水」

 思わずといった風に声をあげた色嶋を見る。

「そう、朝一番に計画を決行したため匂いを落とせなかったんでしょう。色嶋からの報告でピンときました。ですが、あのトリックは凍死させる為の物です。何故、わざわざマグで殴打したのかが分からない」

「……知りません」

「酔った教授に何か、耐えがたいことを言われたのではないですか? 例えば……山中さんの事とか」

「違うって言ってるじゃないですか!」

「まあ落ち着いてください、ね?」

 声を荒げ始めた彼女に、立てた人差し指を自分の口に当てて静かにというジェスチャーをする。ドアを押さえていた色嶋が信じられないものを見る目でこちらを見てきたが無視した。

「ここからは物的証拠を基に、私の推測交じりに話すので、気になったらいつでも指摘してくださいね」

 池中の視線と言動に注意しながら話を続ける。

「事件前夜、監視カメラが切れた後に貴女は研究室に戻って来たのでしょう。勿論、教授も呼び出して。用件はセクハラに関することでしょうかね。まんまと教授は引っ掛かり、研究室にやってきた。緊張を和らげるためなんて言いくるめてお酒を教授のマグにたっぷり注いだあなたは、後は教授が凍死するまで待つことにした。」

「なんでそのまま立ち去らなかったんですか?」

「そこだよ色嶋。彼女はそのまま立ち去っても良かった。だが出来なかった。恐らく本棚の本がぐちゃぐちゃになっていたからだ。これは完全に憶測ですが、教授は以前から貴女を少しでも長く引き留める為に本棚の本をわざと入れ替えていたのではないですか?」

 池中は震える声で答えた。

「き、教授の事なんで知って」

「あっていましたか。あの量とはいえ本棚の整理などそう長くはかからないと思ったものですから、そうではないかと。話を続けますね。本を整理している中、気持ちよく酔っ払った教授は余計なことまで話し始めました。自分が気に入らない山中さんと仲良くしているのが面白くなかったんでしょうね。貴女は自分に優しくしてくれた山中さんが悪く言われているどころか、不当に扱われていることを知った。今までのセクハラなどで溜まっていた怒りが爆発したのでしょう。咄嗟にマグで殴打した。殴打したマグは一度洗った後に新たに珈琲を淹れて、不自然にならないように机の上に置いたんでしょう」

 池中は完全に俯いて黙っていたが、少しの間視線をさまよわせた後、意を決したように口を開いた。

「そこまで見抜かれていたなら、隠し通せないじゃないですか」

 あくまでも私ではなく、色嶋の方を見ながら彼女は続けた。

「大体はこちらの刑事さんが言っていた内容と同じです。でも、違う所もある。教授を殴ってしまったのは私が山中さんを好きだということを脅しに使おうとして来たからです。嫌いだったんです。アルコールで凍死の話を読んで、これだと思いました。現実に名探偵はいない事は知っていましたから、賭けたんです。ですが現実は厳しいものですね」

 話しながらもどんどん俯き、壁を伝ってしゃがんでいった池中はついに玄関にへたり込んで言った。

「神様を、信じたくなったんです」

 人ではなく神を信じるに至った彼女の気持ちは、到底推し量ることなどできない。何も言うことなどできなかった。立ち尽くす二人の刑事と加害者になることを選択した被害者が座り込んだ玄関は静けさだけが漂う。そこには大学生の明るさや希望に満ち溢れた空気は無く、誰にも助けを求められなかった被害者の重く辛い感情のみがあった。

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