ある日の依頼
落ち着いたクラシック音楽がマスターと私しかいない空間を満たす。
壁一面に並んだ本棚に、新しく入った本は無いかと視線を巡らすが特にめぼしいものは無い。目の前に置かれたティーカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「ダージリン、かな。淹れ方変えた?」
他にお客さんもいないので、そう話しかけるとマスターは少し照れたように笑いながら答えた。
「あぁ、うん。やっぱりめぐむちゃんには敵わないな。」
正解のサービスも兼ねて、とシフォンケーキが目の前に置かれる。皿を置く振動でふるりと揺れるケーキに思わず前のめりになりそうになり、自制する。甘いものは好きだが、そう何度もサービスと称して無料でケーキを提供されると、少しムッとしてしまう。
マスターは私のことをやけに子ども扱いする節がある。いくら小学生の頃から知っている長い付き合いだとしても、こうもサービスしていれば売り上げにも響くだろう。しかし、何度払うと言っても試作品だから、と受け取らない。マスターは言いくるめがとても上手だから、にこにこ笑いながら言われると何故かお金を払う方が失礼な気がしてきてしまう。
そういう訳で私はマスターに勝てずに、今日も紅茶代だけを支払うしかない。諦めてシフォンケーキにフォークをいれた。
しかし、遅い。もう待ち合わせの時間を五分も過ぎている。基本五分前行動の私にしてみればもう十分も待っている。マスターとの雑談の話題も、自然と待ち合わせ相手の話になっていく。
いつもふらふらしていて、自称フリープログラマー。一時は大手のIT企業に勤めていたとか、すごいシステム開発に関わったとか、電子的なことでは勝てる相手はいないだとか。
怪しいことこの上ないが、顔と運の良さだけで世を渡ってきたような典型的なダメ男だ。今更経歴が全て嘘でも驚かない。一応兄の幼馴染だから信用しているものの、全くの他人であれば絶対に関わりたくないような人種だ。
マスターも全く分からないという訳ではないようで、苦笑いを浮かべている。……考えれば考えるほど腹が立つ男だ。取り敢えず来たらここのお代は絶対にあいつに払わせる。そう心に決めた途端、ドアベルが鳴った。
やっとだ。待ち合わせの時間から三十分の遅刻。大雑把にドアを開けるくせに微塵も急いでいる素振りはない。反省の色も、見えない。明らかに寝起きの目をこすりながら、悠長に隣に座ってマスターにオレンジジュースを頼んでいる。
「で、今日はなんだ。依頼なら受けないぞ。自分で何とか断れ。」
遅刻したことを反省してない分、言葉に棘がある言い方になる。だが、この男、中山満はこのくらいではめげない。散々振り回されているのでそのくらいは知っている。
今もアラームが鳴らなかっただとか自転車の機嫌が悪かっただとか、どうでもいいことを言い訳としてべらべら話している。もはや完全に子供を見る目で、マスターは注文した飲み物を運んできた。
丁寧にコースターの上に置かれたオレンジジュースを一気に半分ほど飲んだ満は、カウンターの椅子を器用にくるりと回転させ、やけに真剣な顔でこちらを見て来る。その真剣な表情に、もしかして今日こそは依頼ではないのかと少し期待してしまう。
仕方がないから話を聞いてやるかと、椅子を満の方に向けて話を促した。
「で、用件は。また面倒ごとに巻き込まれるのは勘弁だぞ。」
話を聞いてくれると分かった途端嬉しそうに笑顔になるこの男は、本当に顔だけは良い。ただし、口を開けばろくでもない。いつも他力本願で面倒ごとの運び屋。こんな風に、だ。
「サイトの方の事務所に依頼が来ちゃっててぇ……なんでもお金持ちの人らしくて、飼ってるペットの猫ちゃんがいなくなったらしいんだよね。お願い! むぅちゃんなら一日かかんないと思うから!」
「絶対に嫌だ。猫探しなら一人でやれ。どうせ前金受け取ったか、もしくは使ったから断れないんだろ。」
そう言うと満は、図星だったのかギクリと固まった。それから少し俯いて声を震わせ、鼻を小さくすすりながらぼそぼそと話し始めた。
「……だって、欲しかった自転車特別価格で売ってくれるっていうから、もう買っちゃったし……お願い! ホント! 俺を助けると思って!」
勢いよく顔をあげて縋ってきた満の目には涙が滲んでいて、成人男性のくせによくもこんなに自分の欲望に忠実に生きられるなという感想がぼんやり浮かぶ。いやしかし顔がいい。この顔に泣かれるとどうも弱い。おそらくこの顔に絆されて来た人間は大勢いるのだろうなと思いながら、自分のその一人なので笑えない。
「泣くな、鬱陶しい。……いつなんだその依頼は。」
ため息とともに仕方なくそう返すと、満はさっきまでの涙などなかったようにケロっとした顔で言い放った。
「今日、これから。直接お宅に伺うことになってるんだ。じゃ、マスターご馳走様~。これお代ね。」
マスターに千円札を渡して、ペタペタとビーサンを鳴らしながら店を後にする満の後ろ姿を呆然と見る。頭の血管が破裂して死にそうだ。やっぱりこの男はろくでもない。マスターは苦笑しながら、私にお釣りを渡した。満は小銭が好きではないので、お駄賃代わりにとお釣りは私の財布に入れるのが暗黙の了解となっている。
財布を鞄に仕舞っていると、店のドアがもう一度開いて満が顔をのぞかせた。
「ねぇ、むぅちゃん早く~」
こちらの怒りなど知ったこっちゃないというように能天気に声をかけてくるその姿にさらに腹が立つ。マスターにご馳走様でしたとお礼を言って店を出た。
既に自転車に乗った満の元へ怒りを滲ませながらと歩いて行き、無言で肩を殴る。少しだけ胸がスッとした。取り敢えずこれでチャラにしてやろう。
肩が外れただの折れただの明らかな嘘をつくのに忙しそうなうるさい満を無視して、自転車の後ろに乗った。
「早くいくぞ、お前の尻拭いだ。三十分で終わらせる。ケーキ奢れ。」
満はへらりと笑いながら、合点承知の助~とペダルを漕ぎ出した。腹が立ったので頭を軽くはたいておいた。
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