習作図鑑

平山圭

耳の虫(『ある音楽』改稿版)

 私は途方に暮れていた。ある音楽が頭から離れないのだ。よくあることだが、今回はあまりにひどかった。通勤電車の中、見知らぬ男が私の耳元で口ずさんだその曲は今まで――まる三日間――私の中で流れ続けていたのだ。


 発症から一週間経って、私は休暇を申請した。仕事はおろか会話もままならなくなり、不眠も併発していた。運動しようと、テレビを見ようと、別の曲をイヤホンで聞こうと、その音楽から逃れることはできなかった。私は間もなく家に籠るようになった。そしてその間、私はその音楽を聴き続けたのである。


 二週間目以降、私は自分が壊れていくのを感じた。部屋全体が歌っているように見えた。廊下を歩く足の運びは無意識に踊り、心拍は聞き飽きたリズムを奏でた。カップ麺にお湯を注ぐとし、食べると。私と私の世界はあの音楽に満たされていた。


 三週間目、限界を迎えた私は家を飛び出し、夜の街を裸足で駆け抜けた。全力で走ったのは本当に久しぶりだった。耳をかすめる風が曲を囁くので、余計に私は加速した。走って、走って、走って――隣町の駅で私は力尽きた。息を切らし、足の裏から夥しい血を流しながら。間もなく、仕事帰りの人混みが私を取り囲んだ。私は笑った。そして歌った。もちろん、あの音楽を。


 それ以来、私の中であの音楽は鳴り止んだ。しかしそれはもはや問題ではなかった。


 いまではもう、世界中の人間がそれを口ずさんでいるのだから。

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