第8話 

「鮨と言うものを食べてみたいのです」

 春の海の気配は夜に渡る風にも柔らかく滲んで、羽代城が建つ岩礁に崩れる波の音も冬に比べて穏やかに響く。花の香りよりも若葉の芽吹きのかぐわしさ、そんな春の夜の風情を意にも介さず、弘紀は周りにたくさん置かれた書物を手当たり次第に開いては、修之輔に指し示す。


 明日が江戸参勤の出立予定だったが、一昨日昨日と雨が続いた。愛用の遠眼鏡を抱えて、天守跡地の観月楼と二の丸御殿の間をせわしなく往復していた弘紀は、今朝、出立の予定を一日遅らせる、と家中に伝えた。


 羽代の領地を出るとその日のうちに大きな川を渡ることになる。晴れていれば川を渡ってその向こう、何軒も旅籠が軒を連ねる大きな宿場が初日の宿泊する場となる。だが、自然の川の事、雨が降って水嵩が増した流れは容易に人馬を押し流すため、雨が降った後は水の量が減るまで、渡る手前の宿場で待機する時間が必要になる。


 参勤行列の者達全てを宿泊させる宿の手配や料金を考えると、ぎりぎりまで出立を遅らせた方が負担は少ない。実際、川に配置していた物見からは、夕方になってまだ川の水が引かないとの連絡が入った。その時間から出立の日程を変更するのは難しく、早めに出立の先延ばしを伝えた弘紀の判断には家中の皆が感服した。

 今回の参勤の仕切り役の加納は、ここ数日、自邸へ帰る事すらできないほど参勤の準備に追われていたが、出立が日延べになったことで、さすがにこればかりは出立前の貴重な休日と、疲れの滲む従者と共にいったん自邸へ戻った。


 さて、働きづめの家中上層部とは異なり、役無しの者達は、前日までには参勤の準備も家の者との送別も、親戚知人との挨拶も済ませてしまっている。ならば空いた時間を有効に使え、これが最後のひと騒ぎと、城下町に繰り出しす者が数多くいた。

 修之輔も城下に行かないかと外田に誘われたのだが、今夜は宿直の当番だからと断っていた。本来ならば、今夜は修之輔の当番ではない。けれど昼の内、寝起きしている長屋の部屋を片付けていると、手紙が一通届けられた。封書の体裁は取っていても中に入っていたのは短冊程度の紙一枚、青海波の透かし文様のそれには一言ひとこと、今夜此方に、とだけ書かれていた。


「秋生、いいのか?」

 今夜の宿直に当たっている者を捕まえて、当番を代わる、というと、相手は喜色満面でその申し入れを受け入れた。確か小林という虎道場に縁がある者で、修之輔が道場にいた時にも何度か顔を合わせている。

 今夜はその虎道場に通っている者達が集まって宴席を開いている筈で、外田が修之輔を誘ったのもその宴会だった。

「寅丸によろしく言っておいてほしい」

 修之輔がそう言伝を頼むと、もちろん、と小林は頷いた。

「江戸に着いたら茶の一杯でも奢る。綺麗な娘がいる茶屋を探しておくから楽しみにしていろ」

 儀礼や政治に忙しい上役たちとは異なり、護衛や下役で参勤に行く者達は江戸に行ったところで大した仕事もないため物見遊山を楽しみにしている。小林は、山崎に話をしておく、と、その言葉を終えぬうちにその場からいなくなった。あの勢いだと山崎に宿直の交代を伝えたその足で、城下の宴席、いつもの料理屋まで繰り出すのだろう。


 そして夜、宿直の前番が終わっていつも通り、修之輔は隠し通路を抜けて、昼間の手紙で自分を呼びだした弘紀の部屋に足を踏み入れた。


 江戸の地図や名所、名物が書かれた本を山ほど開いて、弘紀が書物から目を離さないまま、修之輔を傍へと手招きながら言った。

「鮨と言うものを食べてみたいのです」


「羽代でも食べることができるのではないのか。江戸の鮨は前の日に取れた魚を酢でしめて使っているらしい。羽代でその日に採れた魚の方が旨いと思うが」

 書物を数冊、脇に除けて、修之輔は弘紀の近くに腰を下ろした。


「修之輔様は江戸の鮨を知っているんですか。もしかして食べたこと、あるんですか」

 この頃は名字の秋生で呼ばれることも多いが、それでも二人で居る時に弘紀は未だに修之輔を名前で呼ぶ。その声が耳に甘く感じるのは、微かな甘えを隠さないその声音だけが理由ではない。

「食べたことは無いが、黒河にいた時、大膳から話を聞いた」

 それは思いがけない話だったようで、弘紀が軽く目を瞠った。

「大膳様は、江戸に行かれたことがあるのですか」

「ああ。黒河藩主の江戸参勤に随従していた父親を訪ねて、数日間だが江戸を訪れたと。確か土産も貰った。扇子だったか」

 今度江戸に行くときはお前も一緒に行こう、と言っていた大膳の顔を、話しながら思い出すと、弘紀が目に見えてむくれた。

「大膳様は貴方に土産を買ってくるだけでしたが、私は貴方を江戸に連れて行くのです。鮨も食べます。絶対」

 弘紀の語気がやや荒い。修之輔は弘紀が何を主張しているのか、よく分からないままに圧されて頷いた。

「鮨は屋台で売っている物のようだが、弘紀は江戸屋敷の外に気軽に出られるのか」

「出られないなら、鮨屋の屋台ごと屋敷に呼びます」

 冗談なのか本気なのか迷ったが、生真面目な顔を見るからに本気のようだ。屋台の商人も大名屋敷に呼ばれたところで困るだろうに、とは口に出さずに、けれど案外他にもそういう大名がいるのかもしれない。


 簡単には江戸屋敷の外に出られず、屋敷に商人を呼ぶこともできなかった場合、弘紀が次に考えるのは修之輔に買ってきて欲しい、と頼むことではないだろうか。

「江戸屋敷の台所に作らせたらどうだ」

 先手を制するつもりで提案すると、そういうことではないんです、と弘紀が云う。そうしてまた手元の冊子を繰り始めた。

「蕎麦も食べたい。天麩羅も食べてみたい、醤油も持って帰りたい。それから両国にも行ってみたい」

 あれも食べたい、これも見に行きたいと、書の頁を繰り、書物を替え、弘紀の話は際限なく続いていく。家中の会議の時にはそんな自分の希望を言い出せなくて、鬱憤が溜まっていたようだ。


「両国には何がある」

 言葉の端に聞こえた土地の名前について、何の気なしに聞いてみた。

「象の、」

 そこでさすがに息が切れたらしい弘紀の口が止まった。

 修之輔が傍らの汲み出しに温めの茶を淹れて差し出すと、弘紀はひと息に飲みほして、ふう、と息を吐き、少しは落ち着いた声音で答えた。

「象とか駱駝とか、異国の珍しい動物が見世物にかけられているらしいのです」

 異国の動物。黄金の獅子。どこかでそんな話を聞いた覚えがあったが、いつのことだっただろう。


 江戸のどこの町には何があって、こっちの町にはこんな店があって。

 弘紀の話題は尽きようとせず、修之輔は手元の書物を手に取って眺めながら、そんな弘紀の話に耳を傾けていると、これを見て下さい、と一冊の草紙を渡された。絵草紙の半分程度、小ぶりに見えても厚さは二寸、やけに分厚い草紙で、表紙は鮮やかな朱色である。『江戸買物獨案内』と書名が見える。中をめくると頁全てが店一つ一つのの広告だった。

「貴方も時間が空いている時に、出かけてみたらどうですか」

 そんな弘紀の言葉に、修之輔は黒河にいた時のように二人で出歩くことはできない今の現実を思い起こさせられた。返す言葉に詰まって、弘紀は、だが修之輔が何を思ったのか察したようだった。ちょっと困ったように微笑して、手元に散らばった書物をまとめて山にした。それは、この話題はここまで、そんな意味の所作だった。

 だから弘紀が口にした次の話題は、修之輔の江戸での任務の話だった。


「江戸での貴方の仕事の内容、もう聞きましたか」

「ああ、馬廻り組頭からも、加納様からも聞いている」

 組頭から伝えられた修之輔の任務は、参勤道中はもちろん、江戸藩邸に入った弘紀や家老が、藩邸から外出する際の警護に就くことだった。江戸藩邸で既にその任にある者と協力して働くことになる。

 そして加納から別に言い渡されたのが武術の修練だった。江戸には多くの武術家が集まりその技を研鑽している。自らの剣の腕に奢ることなく、この機会に外の者達と競い合って技を磨けと、修之輔の他、山崎や外田ら数名がその命を受けた。

「俺の方も忙しくなりそうだが、弘紀はもっと大変だろう」

 そうですね、と弘紀は軽く同意する。

「私のする仕事は、すでに段取りが手配されているものが大半です。もちろん、いくつか厄介なものはありますが」


 それよりも。

 弘紀が座ったまま、正座していた膝を崩して上体を修之輔の胸の内に預けてきた。

「江戸に着くまでは、貴方に触れられないから」

「江戸では」

「貴方とは逢えるように、ちゃんと手配してあります」

 胸の辺りから上目遣いでこちらを見上げる弘紀の瞳。ずっと密かに気に掛かっていたことを知らされて、修之輔は身の内に知らず凝っていた不安があからさま、直ちに解消されていくのを実感した。


 課された任務の内容も、せっかく馴染み始めた羽代の地をしばらく離れて知らない土地に行くことも、すべての不安は弘紀の傍にいることができる、その事実だけで春の雪のように溶けて無くなる。

 弘紀の体を引き寄せて腕の中、抱き締めると、弘紀の指が修之輔の腰の傷跡を単衣の上からなぞっていく。最初は軽く合わせる程度の口づけも、次第に舌を絡ませて深く相手を求めるものに変わっていく。互いの荒い息が、書物に囲まれた畳の上を流れて部屋の中に低く満ちていき、几帳の影に誂えてある寝床に場所を移る頃には、弘紀の黒曜の瞳はこの後、その身を穿つ快楽への期待に熱く潤んでいた。


 この正月で十九歳になった弘紀の体は小柄なままで、もうこれ以上背は伸びないと本人も諦めたようだったが、日頃、十分に動いているので体躯にも、すんなり伸びた手足にもひ弱さはない。

 柔らかな線も未成熟な繊細さが影を潜めたその代り、以前まで必要だった力の加減をしなくても抱くことができる。むしろ弘紀の方から加減をしないように求められるので、次第に二人が交わる時間は前より長く、より強い刺激を互いが求めるようになってきていた。


 今も襦袢の帯を解き、修之輔に言われるまま、うつぶせで腰だけ高く持ち上げた姿勢の弘紀は、肩越しに振り向いて、修之輔に視線を合わせることを求めている。潤んだ瞳が揺れる灯明の光を映して光り、修之輔の手に愛撫を促す。

 弘紀のその身を覆うだけ、薄絹の襦袢の裾を背まで一息に捲り上げると、下帯をつけていない弘紀の下肢が付け根まで露わになった。柔らかな双丘の皮膚を掌で撫で擦り、口づけて、舌ですぼまりの細かな凹凸をなぞりながら、そこを充分に濡らしていく。


 より快感を求めて自身の高まりを握ろうとする弘紀の手を抑え、自分の手指の感覚に集中するようにと言い聞かせても、快楽に浸り始めている弘紀は今度は自分の胸の突起を捏ねるようにいじってめない。

「あ、あ……ん」

 床に流れる解かれた帯。修之輔はそのうちの一本を引き寄せて弘紀の手首を左右まとめて軽く結わえた。

「修……之輔、様、これ……、なに」

 力を少し入れれば解ける縛め一つ、けれど体の動きが制限されるもどかしさに、弘紀の反応がさっきより敏感になるのが分かった。


 唾液で濡らした後孔に指を挿し入れて中をゆっくり掻き回す。温かな粘膜に指が包まれる感覚に陶然となる。二本目を入れると弘紀の腰が大きく揺れて、入り口がきつく絞められた。中に入れたまま指を閉じたり開いたりしてそこを拡げていくと、弘紀の体からは濡れた音が響き始める。

 寝床の脇にひっそりおかれた陶器の小瓶を手に取って、中の椿の油をそこに垂らすと、金色の油が灯明の火にとろりと光り、音を立てずに滴り落ちた。


 熱を帯びてひくつくすぼまり。濡れた音に粘度が加わった淫靡な音が、互いの吐息の間を埋めていく。


 焦れる弘紀の体は小刻みに震えていて、修之輔が試みに自分の先端をそこにあてがっただけで、弘紀のそれからは透明な雫が零れ落ちた。

「もう……、入れて」

 うわごとのような声であからさまにこちらを求める弘紀の声。声だけでなく、腰を揺らしながら修之輔の下腹部に押し付けてくる。

「なにを、どこに」

 弘紀の耳にそう囁くと、耳朶に唇が軽く触れ、それだけで弘紀は体を強張らせた。弘紀の前に手を伸ばし、ゆっくりとそこを握り込む。

「言わないのなら、こちらでいかせるが」

 後ろに入れたままの指で肉壁の向こうのしこりを押しながら、握り込んだ弘紀のそれを扱く。放出を強く誘う感覚に身を震わせながら、今、与えられている快楽の刺激と、羞恥と引き換えに得られるより強い快楽の狭間で弘紀が濡れた瞳を揺らせる。

 修之輔は、背から抱きかかえた弘紀の顔を間近に眺めながら首筋にくちづけ、答えを促した。

「貴方のそれを、私の……奥まで、入れて、下さい……」


 弘紀が求めるより強い刺激。自分の身にもたらされる強烈な快楽。二人して望みのものを得るために、修之輔は先端をゆっくりと弘紀の中に沈ませた。

「あ、あぁ――……、んっ、ん!」

 弘紀の長い吐息が途切れる前に数度、強く突き上げ、奥まで体を繋ぎ合わせて。

 その結合の深さを確かめるように、もっと、と訴える弘紀の嘆願の声に応えるように、互いの体を揺さぶり合い、やがて先に放出した弘紀の体内の肉の蠢きに絞られて、弘紀の体の奥へと修之輔も白濁した体液を放った。


 交合を終えた後の弘紀の体を水を切った手拭で拭き、自分の体もそのまま軽く拭く。先ほど弘紀の手首をまとめていた帯で自分の単衣を巻留めた後、いつもはそのままお仕着せの着物を着るところ、今夜は一度、弘紀の傍に戻って枕元に座った。眠そうな弘紀が、日頃とは違う修之輔の様子に、少し、不思議そうな目でこちらを見上げてきた。何も言わぬままにその頬を軽く撫でると、弘紀はくすぐったそうに目を細めた。


「……さっきの話ですが、修之輔様が大膳様に貰った扇子、どうしたんですか。こちらに持ってきているのですか」

 特に何か言うわけでもない修之輔の様子に、弘紀の方から修之輔に尋ねてきた。そういえば、どうしたのだろう。改めて思い出そうとして思い出せなかった。

「こっちに持ってこなかったのは確かだ。家のどこかにしまっていたと思うのだが」

 一度視線を外して記憶を探っても思い出せなかった。黒河にいた時、修之輔の住処に弘紀は何度も来ている。見覚えはなかったかと弘紀に尋ねて、すごく複雑な顔でこちらを見る弘紀と目が合った。

「どうした」

「いえ、さすがに同情したくなりました」

 誰に、と聞こうとして弘紀が先を続けた。

「扇子は私と貴方と揃いの物を、新しく江戸で買いましょう」

 どんなのがいいか、考えておいてくださいね、そう修之輔の手のひらに頬を寄せて華やかに微笑む弘紀の顔を見て、先日来、修之輔に胸につかえている疑問は吞み込んだ。


 寅丸は、いつから弘紀を、羽代藩を裏切っていたのか。

 寅丸は以前、本名を捨てたと言っていた。ならば、そもそも彼は何者なのか。


 江戸参勤の出立前夜。今はただ、弘紀の顔を少しでも曇らせるようなことは、したくなかった。

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