第3話

 羽代城はじろじょうは、海へと伸びた小さな半島に築かれた海城である。天守こそ今は失われているが、城郭は戦国の時代の面影を色濃く残す。


 城内二の丸には藩主公邸を兼ねた二の丸御殿があり、漆喰しっくい土壁つちかべを持たない木造ながら、堅牢な威容を誇っている。


 羽代の海は沖に強い潮流があり、知らずに近づいた船は舵を取られて思いもよらない場所へ流される。季節によっては岩礁へぶつかる潮目も現れるので、この海を知らない他所の船は迂闊に陸には近寄れず、天然の防御に恵まれた立地でもある。


 見知らぬ船が羽代の港に着くことはほとんど無くても、海辺からは東西に行き交う荷船が遠目に見えるし、稀に異国船の姿も見える。羽代の陸には上がってこないであろうという気安さで、その日の漁を終えた漁師や時間を持て余した者達が、煙を上げて水平線の近く往く黒船を浜から物珍しく眺めていたりもする。


 近頃ではその異国船と戦を構える国もあるらしい。黒船に乗る異人たちは船上に積まれた大砲で城や町を狙うという。異国船を排斥はいせきできない幕府の弱腰を糾弾し、こともあろうに自前で買った黒船で幕府軍と一戦交える大名までいるという。

 ただ、異人を追い払う攘夷じょういだとか、京の都におわす帝に政を移譲するための倒幕だとか、騒いでいるのは声の大きい一握りの者達だけで、多くの大名はそのような他人同士の争いに巻き込まれぬよう、自国の領土は自分たちで守る気構えが必要と、自らの軍備の増強に力を入れ始めていた。


 そんな時勢にあって羽代藩も例外ではなく、弘紀は当主に就いてすぐ、長年にわたる家中の抗争で疎かになっていた軍の整備に向けて動き始めていた。


 しかし弓矢どころか剣を持つ手もおぼつかないという羽代家中の有様に、個人の鍛錬だけでは間に合わない、藩としての一斉の軍事訓練が必要だということになって、長屋が撤去されて広場になった三の丸は軍事訓練を受けたことのない下級藩士、すなわち下士かしと呼ばれる者達の練兵れんぺいが行われるための場所となった。


「時間だぞ、集まれ!」 

 いつもは城内に時刻を告げる半鐘はんしょうが、間髪入れずに何度もごんごんと打ち鳴らされる。大きな腹を揺らしながら力任せに半鐘を叩いているのは、山崎という名の下士のまとめ役である。山崎はまとめ役というその仕事柄、多くの者に顔が効く。その顔の広さを買われて近頃、徒歩頭かちがしらの任に着き、軍事訓練では下士の指揮を執ることになっていた。


 先ほど慌てて長屋を出た面々の内、徒士組に配属されている外田と木村は山崎が半鐘を叩いている広場の中央に向かって走り、馬廻り組に配属されている修之輔は広場の隅、既に厩番うまやばんによって馬が数頭、牽き出されている一画に早足で向かった。


 途中、大きな椎の木が太い枝を横に広げたその木陰に、石垣を背にして朝永の家紋が染められた幔幕まんまくが張られ、日よけの傘と座床几ざしょうぎがいくつか用意されているのが修之輔の目に留まる。簡素ながら戦場の本陣を模したそのあつらえは、弘紀と家中の重臣が今日の訓練を観覧するためのものである。


 幔幕の中には要職についている上級藩士が既に姿を見せていて、家中筆頭の家老である田崎と加納は席には付かずに立ったまま、状況を調整しているようだった。

 今日吹く風は微かな東の風、会話が途切れがちに聞こえてきた。


「加納殿、儂はどの辺りにいればいい」

「西川殿はその右手の方にお座りください。けれど、席に着かれる前に、身に付けられているその脛当て、上下が逆の様にお見受けします」

「そうか、これは逆か。いや、失態失態。胴当ては大丈夫かのう、どうも腹回りがきつい」

 戦の仕様に慣れていないのは、修之輔たち藩の下士だけではなさそうだった。


 修之輔がそれとなく探した弘紀の姿は幔幕の中に未だなく、正面の席は空いたままだった。気にはなったがそのまま留まるのも不自然で、修之輔は本陣前を足早に通り過ぎた。予定の時間までまだ間がある。弘紀はぎりぎりまで二の丸御殿で執務をしているのだろうか。


「秋生、来たか」

 馬廻り組の者が集まる場所に近付くと、早速、組頭くみがしらから名を呼ばれた。

「遅れて申し訳ございません」

「いや、あの徒士組の奴らの脇をすり抜けてこっちまで来るのは大変だっただろう。まだ来ていない者もいる。まずは残雪をれ」

 修之輔の手には栗毛の馬、残雪ざんせつの手綱が渡された。


 残雪は、弘紀から修之輔が好きに使っていいと言われている馬だが、城で管理している馬なので修之輔の馬ではない。けれど内々の承知はあって、毎朝課されている馬追いや、急ぎでない伝令などの任務の時は、修之輔が優先して残雪に乗ることができる。


 大人しい性格の残雪は、修之輔にとりわけ懐いているというわけではなく、どのような人間が乗ろうと従順に従う。体毛の明るい栗色と、尾花よりは色が濃くても日の光に当たると明るく光を零すたてがみの色合いが、いかにも優美で見目が良いため、羽代に外から客を迎える時などは飾られた残雪を修之輔が牽いて行くことが多い。


 対照的なのが、弘紀の愛馬である松風である。


 今も一頭だけ、他の馬から離れたところに繋がれているその背には、朝永の家紋が入った黒漆に螺鈿らでんの馬具を置いていて、鹿毛の脚の逞しさは他の馬より明らかに優れているのが見て取れる。毛艶の滑らかさや艶やかに梳かれた鬣は松風に十分な世話が施されていることを示しているのだが、松風の気性は見た目以上に激しくて、気にくわなければ人間も馬も関係なく、蹴ったり噛みついたりする。


 空馬で走らせる馬追いの時も、松風は走りながら横の馬に体当たりしようとしたり、後ろの馬を足で蹴飛ばそうとしたり、無駄に絡みに行く。それを止めさせ、松風が他の馬に近付く前に進路を変えさせるのは残雪に乗る修之輔の役目になる。松風に馬群の先頭を走らせれば他の馬には見向きもしなくなるのだが、松風の俊足に付いていける馬はいないのでそれはそれで厄介である。


 世話をする厩番も、使役する馬廻り組も手を焼いているのが松風で、だが厩番いわく、修之輔は松風に気に入られているらしい。

 気に入られている、というのは厩番の勝手な言い分で、ただ噛みつかれたり蹴られたりしないだけなのだが、それだけで十分に気に入られているらしい。なので、松風の細かな手入れをする時には、修之輔が呼ばれて手伝うことがある。


 厄介な馬だが、それでも修之輔が解した藁束わらたばで松風の毛並みを整えてやると、時折目を細めたり、首筋を寄せてくるような仕草をみせる。どことなく主である弘紀を思わせるそんな様子を目にすれば、松風の世話もそう大変なものとは思えない。修之輔はこのところ、時間を持て余すたび、厩に顔を出すようになっていた。


 そうなると厩番とも顔見知りになって、馬の扱いについても色々と教えられることが多くなる。最近では修之輔が番方の馬廻り頭と厩番のあいだを取り持つような仕事も増えてきた。


 先日も参勤行列での馬の配置に関する馬廻り頭と厩番の相談に、修之輔の意見が求められた。馬同士の相性もあるから配置を考えなければと馬廻り頭は言うのだが、問題になるほど気性が難しい馬は弘紀の愛馬である松風だけである。

 藩主の馬なので身分の低い者が乗るわけにいかない。人馬いずれか、松風を牽く引き役が要るのだが、人のみならず馬も松風を敬遠しており、なかなか決まらないらしい。


「秋生、残雪は松風の近くにいても大丈夫か」

「はい、馬房で隣り合っても松風とは特に問題はないようです」

「ならば口取りの徒士を用意するのではなく、松風は残雪に繋いで牽くか。秋生、道中の大半をこの馬二頭を牽いて貰うことになるが頼んだぞ」

「はい」

「参勤までに松風を引き紐に馴らさないとならんな」

 当然、その仕事は修之輔の仕事になった。


 そんな相談が先日あっての今日の訓練なので、残雪の手綱の後、松風の手綱も修之輔の手に寄越された。松風の手綱を残雪の鞍に繋いで二頭が並列で歩けるか、今日の訓練は初めてそれを試してみることになっている。


 参勤行列には騎乗のための馬だけでなく、荷を運ぶ荷役の馬も城下から徴収されて行列に入る。修之輔が残雪と松風を同時に歩かせている傍らで、他の馬廻り組衆が馬同士の相性を見ながら配置を決めているうち、広場の真ん中、徒士兵かちへいの集団がやけに騒がしくなってきた。

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