第3話

 彼女は僕を連行し、僕が彼女に道中ずっと目的地を尋ねてみても、彼女は「いいからいいから」の一点張りで、僕がこれから拉致されるのではないかと本気で心配し始めた頃、彼女は自己紹介を始めた。

「私は風野咲。君は諏形紡くんだよね」

「……どうして僕の名前を」

「私たち同じ学年じゃん」

「……風野さんは記憶力がいいんだね」

「うーん。というより、人に興味があるからかな。私、出会った人に花のイメージを浮かべるから、それでその人の名前も顔も覚えちゃうんだ」

「…………」

 やっぱり、先ほど昇降口で目撃した花を授与する奇妙な儀式は、誰にでも行われるものらしい。僕の直感はやっぱり当たっていた。この人は、ヤバイ人だ。

「そんなに怯えなくても大丈夫だよ。取って食べたりしないから」

 彼女は僕の感情を読み取ったのか、タイミングよくそんな言葉を述べた。てっきり、変な人だから人の心なんて度外視するだろうと思っていたけど、違った。一瞬安心したけれど、これは逆により厄介なんじゃないか。いや、もしかすると、僕の方が意外に顔に出ていたのかもしれない。だからヤバイ彼女でさえ、僕の感情を予測できたのではないか。そんなくだらないことを考えながら、僕は不安を取り除こうと必死だった。

 僕は楽しそうに前を歩く彼女の背中を追っている間中、極力下を向いたままでいた。時折彼女から話しかけられて一言、二言返す。そんなことを繰り返している間に、彼女は「到着!」と元気よく言った。

「……ここって、公園?」

 彼女が意気揚々と足を踏み入れていく場所は、まばらに子どもたちが遊んでいる公園だった。こんなところに公園があるなんて知らなかった。そして、彼女が何故僕をここに連れて来たのかも、分からない。

「はぁー、懐かしいよね、公園って」

「……うん、そうだね」

 言い返すと何かまずいことをされるのではないかと思った僕は、彼女の言葉に同意するに留めておいた。まずいこととは具体的に何かは分からないけれど、一つあるとすれば、例えば花を渡してくるとか。

「この公園は結構大きいからね、たくさん遊具があるよ! 滑り台にジャングルジム、雲梯にブランコ! さぁ、何から遊ぶ?」

「…………は?」

 彼女はまるで、今から僕とこの公園で遊ぶような口ぶりで手を広げた。

「ちょっと待って、どういうこと?」

「話はあと。とにかく、せっかく公園に来たんだし、今は遊ぶよ。あっという間に暗くなっちゃうから」

 もしかすると彼女は、暗くなるまで僕と遊んで、かくれんぼか何かをしている間に神隠しと銘打って誘拐を実行してくるんじゃないだろうか。

「じゃあ、手始めに滑り台で遊ぼう!」

そう言うが早いか、彼女は僕の手首を掴んで滑り台の頂上まで連れ去り、滑り台のレールが下に伸びているのが見える位置で座るよう強要した。そして彼女は、僕の後ろに座って、僕の腰に腕を回した。

「うふふ、ドキドキするね」

「……このまま二人で滑れ、と?」

 彼女は僕の問いに答えようとしたのか、小さく息が吐き出されるのが聞こえた。けれど、それはどうやらただの心の準備だったようで。

「えいっ!」

「うわ、ちょっ」

 僕と彼女はそのまま、それなりに長い滑り台を急降下した。久しぶりの滑り台は思っていたよりもスピードが速く、それが昔滑り台で遊んだときの記憶が薄れたことによる認識の齟齬なのか、あるいは単純に人間二人の重量が速度を助長しているからそう錯覚しているのか、僕には判断できなかった。とにかく、速い。三半規管が貧弱な僕には酷だった。

「ひゃー、あはは」

「うっ……」

 景色の流れが速すぎて、水中で裸眼を通して見ているような曖昧な視界が目の前に広がっている。摩擦の音がずっと聞こえてくる。おそらくズボンと滑り台が擦れる音だろう。擦り切れて破れてしまわないだろうかと心配になった。

 時間にしてみればほんの僅かな体験だったけれど、滑り終わったときには足に力を入れるのが少し難しいほど体力を消耗していた。対して彼女は高笑いをして、「はぁー、面白い! おかわり! もう一回行くよ! はやくはやく!」とグロッキーな僕の手を引いてまたもや滑り台の頂上に向かった。

 結局、計五回ほど滑り台を滑り終えて彼女は満足し、次の遊具へと興味を移した。正直、僕は既に疲労困憊だった。こんなことを何度もできる子どもたちと彼女の気力と体力に舌を巻くしかなかった。

「じゃあ、次は雲梯で遊ぶぞー」

「……勘弁してよ」

 足は先ほどの滑り台でふらついている。今度は手と腕がやられて、僕の四肢が機能しなくなる頃合いに、彼女は僕を攫っていくのだろう。動機も目的も不明であるけれど、きっとそうだ。

 なぜ僕はこんなことをしているのだろうと、彼女に聞こえない程度のため息を漏らして、背丈よりいくらか高い雲梯に向かって軽くジャンプして鉄棒を両手で握った。一気に自分の体重分の負担を感じて、僕は思わず歯を食いしばった。

「さて、どこまで行けるかな」

 彼女はずっと笑顔を浮かべたまま、そこそこに長い雲梯を移動し始めた。ここまで来ると、少しばかり彼女に対して対抗心が出てきた。彼女より少しでも長く雲梯を進んでやろう、と思った。

 結局、彼女の方が僕よりも雲梯に食らいついて落下を回避していた。僅差ではあったけれど、僕の方が彼女よりも早く地面に足をつけてしまった。彼女は笑顔なのか苦痛によって歪んでいるのか分からない表情で雲梯を掴んでいた。その顔が滑稽で、僕は思わず笑ってしまった。そのおかげで、僕は彼女に負けたことによる悔しさを低減することができた。

 自分の手を見ると赤くなっていて、雲梯の乾いて剥げたペンキが手汗でへばりついていた。僕も彼女も蓄積した疲労と痛みを分散させようと両手を振りながら息を切らしていた。

「ちょっと、休憩がてらブランコに座ろっか」

 彼女の言葉に頷き、僕と彼女は二席あるブランコに隣り合って座った。彼女はさすがに疲れたのか、立ちこぎをして勢いよくするために位置エネルギーを増加させるようなことはせず、ゆっくりと座りながら漕いだ。

 二人でブランコを静かに漕いでいると、小さな女の子が一人やって来た。不思議そうに僕と彼女を見つめてくるその子は、その様子を体現するかのように「カップル?」と首を傾げた。思いもよらないその言葉に、僕がどう答えたものかと思案していると、彼女は優しい笑顔を女の子に向けて言った。

「このお兄さんに笑顔になってもらうために一緒にいるんだよ」

 僕と彼女がカップルであることを否定することもない、要領を得ない答えに女の子はさらにきょとんとした表情を浮かべた。僕は今の彼女の言葉を聞いて、思わず視線を彼女に向けた。

 彼女は女の子に、「一緒に遊ぼっか」と提案し、僕と彼女と女の子の三人で砂場を占拠して遊んだ。女の子の名前は「花」というらしく、僕も彼女も自己紹介した。途中で女の子は水道水と砂を掛け合わせて作成した泥団子を善意で僕に差し出してきた。僕は珍しく微笑みながら食べるふりをしたけれど、女の子はあろうことか涙を浮かべながら、

「食べてくれないの? 美味しくない?」

 と、本当に悲しんでいる様子だった。僕は仕方なく、女の子に背を背けて食べたふりをし、泥団子から一部を千切って食べたあとを人為的に作った。そしてそれを女の子に見せると、女の子は体積の小さくなった泥団子を見て納得したのか、笑顔になった。子どもにとってはフィクションも現実の一部なのかもしれないという教訓を得たけれど、大人気なくも僕は、女の子がもし自分が泥団子を食べるように言われたら果たして食べるのだろうか、と疑問に思った。     それから女の子は泥団子を完食するよう僕に要求してきて思わず笑顔が引き攣ったけれど、なんとかその場を凌ぐことができた。けれど、現実とフィクションを区別できる年齢であるはずの彼女も僕に特大の泥団子を食すよう強要してきた。そして食べるふりをすると、彼女は、「私の作ったものは食べれない?」とわざとらしく小首をかしげ、女の子も味方につけた。久しぶりにイラっとした。大小二人の少女から泥団子を食べろというコールを受けて、僕は極力訝しがられないように背を向けながらも泥団子に顔を近づけながら細工を施した。

砂場に腰を下ろしたときに嗅覚に訴えかけてきた土の匂いに、正直なところ僕は若干の嫌悪感を向けていた。主張の激しい、生理的に受け付けない匂いに感じられたからだ。けれど、長らく砂と戯れていると、無駄に洗練されて不潔に敏感になった感覚が薄れてきて、この匂いにむしろ親近感が湧くようになった。砂遊びをする前は、手や服が汚れてしまうことを億劫に感じていたけれど、遊んでいるうちにそんなことはどうでもよくなった。案外、これは僕のような高校生や、それ以上の大人たちにとっても、大切な感覚なのかもしれない。先に面倒に感じられる要因を引っ張ってきて、それを言い訳に行動することを拒絶する。子どもの頃はきっと、そんな言い訳なんて誰も気にしていなかったはずだ。

「もしもーし」

 彼女の呼びかけに、自分がいつの間にか手元の団子を分解しきっていたことに気がついた。

「どうやら全部食べてくれたようですねー」

 彼女はニヤニヤとしながら僕の顔を覗き込んできた。極めてうざったい。

「花ちゃーん、帰るよー」

 公園のベンチに座っている女の人がこちらに向かって声をかけてきた。あの人は女の子の母親らしいけど、一体いつからそこにいたのだろうか。

「え、ずっといたよ」

 僕の問いかけに彼女は驚いたように反応した。

 女の子の母親は僕たちに近づき、「花と遊んでくれてありがとうございました」と丁寧に頭を下げてきた。今まで声をかけてこなかったのは、女の子が僕たちと遊ぶのを邪魔しないようにするための配慮だったのだろうな、と思った。

 いえいえ、と首を振る僕たちにもう一度軽く頭を下げた母親に手を引かれながら、女の子は僕たちに「バイバイ」と手を振った。

 二人の姿が見えなくなってから、彼女は「うーん」と言いながら伸びをした。

「可愛かったなぁ、花ちゃん」

「そうだね」

「あ、子ども好きなんだ」

「いや、特に好きってわけでもなかったけど、今日でその認識は少し変わったかも」

 彼女は少し満足そうに笑った。

「でも、花ちゃんのお母さんにはお団子を食べたふりしているの、バレただろうね」

「泥団子ね。その言い方だと、僕が悪いみたいになるね。あの人くらいの世代の人からそのことで怒られるなら、社会に出たとき僕は上司の人たちとやっていけないよ」

 僕の言葉に、彼女はくすくすと笑った。

 夕焼けと暗闇が空でせめぎ合う頃、僕と彼女は公園のジャングルジムの頂上で空を見上げていた。最初は足がすくんでいたけれど、しばらく留まっていると次第に慣れていった。

「綺麗だね、空」

 彼女は尚も笑顔のまま空を見上げていた。今日一日中笑顔だった気がする。さすがに疲れないのだろうか。

 彼女は僕の視線に気づいて、「なに?」と首を傾げた。

「それで、僕になんの用なの」

 僕が訊くと、彼女はとぼけるように、今度はさっきとは反対方向に首を傾げた。

「だから、どうして僕をここに連れて来たの」

「一緒に遊ぶためだよ」

「…………その目的の先にも目的はあるでしょ? 根本の理由を訊いているんだよ」

 僕が言うと、彼女は難しそうな顔をしてから答えた。

「一緒に遊ぶっていうのも、実はその先の目的を果たすために大切なことだから、実はあながちちゃんとした目的なんだけれどね。強いていうなら、諏形くんに花を渡してあげたかったんだ」

「…………」

 学校の昇降口で、彼女は女子生徒に花を渡していた。それから、彼女は標的を僕に変えた。確か、そのときに彼女が言った言葉は、「君の花はねぇ……あれ、思い浮かばない」だったか。

「私はいつも、その人を見れば、その人の花がイメージとして沸き上がってくるの。それははっきりしていることもあるし、うっすらとしていることもある。ほとんどの人はうっすらとしていることが多いんだけど、君からは、全く浮かんでこなかった」

 彼女は深刻そうに、申し訳なさそうに言った。

「だから、君を今日誘ったの」

「…………」

「別に花がないから悪いってことじゃないと思うんだけど、こんなこと初めてだったから、ちょっと心配になっちゃって」

「……花のイメージが感じられないっていうのは、それはつまり、どういうことを意味するの?」

 僕は自然と口の中が乾くのを感じながら、彼女に訊いた。

「……えっとね、花っていうのは、その人の個性というか、自分に対して抱いているイメージなの。だから、花がないっていうのは、その、自分の意思・意志を全て、他の人に委ねてしまっているってこと」

 僕は、思わず苦笑した。全く、彼女の言う通りだった。きっと、僕以外にも自分の「いし」の所在を他人に与えている人は少なくないはずだ。けれど、彼女の言葉には、僕の場合その度合いが人よりも大きいというニュアンスが含まれているように思う。

 僕は彼女の言葉に納得しつつも、まだ納得できていないことについて訊いてみた。

「君の言い分は分かったよ。けれど、もう一つ訊きたいことがある」

 彼女は僕の言葉に小さく頷いた。

「どうして今日、君は僕と遊ぶことにしたの? 君の目的は分かったけれど、そのことと、今日遊んだことに因果関係を見出せないんだ」

 僕が訊くと、彼女は言葉を選ぶように、訥々と話した。

「花がない、つまり、他の人に『自分』を委ねてしまっている人は、自分から何かを楽しめなくて、自分のしたいことが分からない状態にいると思うの。だから、もう少し自分の人生にわがままになってもらうために、遊んでもらうことにしたの」

 彼女は僕に微笑んでから、「だから、今日のことを生かして、自分が少しでも心が躍ることに時間を割いてみてね」と付け加えた。

 要は、自分の「いし」を他人に置いて生きることに慣れきってしまった僕が主体性を持って生きるためのリハビリの一端を、彼女が今日手伝ってくれたわけだ。

 そこまでを理解してみて、僕は彼女に対してある疑問が浮かんできた。

「どうして、君はそうやって他人に関わろうとするの?」

 慈善活動が好きなのか、誰かのためにはたらきかけるボランティア精神が豊富なのか。それは、僕にとっては無縁な感情や考えだった。

「……私も昔、君と同じで自分に花がなかったから」

 彼女はここにきて初めて、笑顔に切なさを落とした。

「そのときの私も、自分の『いし』で生きることを諦めて、そのうちに本当に自分が好きなものが何なのか、分からなくなってたの。自分の好きを感じ取るセンサーが鈍って、何をするにも憂鬱だった。だから、私は、自分の心が少しでも踊ることを、選んでみることにした」

 彼女はそこまで言って、僕に笑いかけた。

「今の私は、すごく幸せ。別に周りの何かが変わったわけじゃないけど、自分が変わったことで、ちょっとしたことでも嬉しくなるようになった」

「…………そっか。なんとなく、分かったよ」

「だから君も、自分に正直になってね」

 彼女はそう言って、僕の背中を叩いた。

「うわ、ちょっと、危ないよ」

 危うくバランスを崩してジャングルジムから落っこちてしまいそうになった。僕が彼女を睨みつけると、彼女は楽しそうに高笑いをした。

 しばらくして、僕と彼女はお別れの挨拶をした。

「じゃあね」

「うん」

 僕が彼女に背を向けて帰宅しようとすると、後ろから彼女が僕を呼び止めた。

「ねえ、諏形くん!」

 振り返ると、彼女はにこにこと擬音が聞こえてきそうなほどの笑顔で、僕に言った。

「明日も一緒に帰ろうね!」

「明日は土曜日だよ」

「……あ、そっか。じゃあ、月曜日にまた誘うね!」

「……うん、分かったよ」

 このときの僕は、どうせ来週からは元通りになって、僕と彼女が交わることはないだろうと高を括っていた。だから僕は、つい肯定を示してしまった。

 そして帰り際、僕は先ほどの彼女の言葉を思い出していた。彼女が自身の過去を語ったあの言葉。具体的に何があったのかはもちろん分からないけれど、きっと、彼女のあの言葉は全て、本心なのだろうな、と僕は思った。

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