グッドラック 

永瀬鞠

人が浮いてる


 人が、浮いてる。

 帰宅ラッシュの雑踏の中で足がぴたりと止まった。後ろを歩いていたらしい人と肩がかすめた。咄嗟にすみません、と振り向いてから前に向き直る。

 が、20代前半―――同じ年くらいに見える黒いパーカーを着た男は相変わらず、気怠く行き交う人々の頭の上をふわりと浮いていた。

 あれはなに? 目の前の光景の現実感のなさに、思う。

 ここは夢の中だろうか。私、夢を見てるんだっけ? いつから見てた? どこからが夢?

 疑問と不安と1日分の疲れとが入り混じって、頭がうまく働かない。

 一人あっけにとられる私にかまうことなく周りでは相変わらず人が流れていて、私も彼から目を離せないまま、再び重たい足を踏み出した。

 疲れた体が証明しているから、これはやっぱり夢じゃないらしい。

 だけど、一歩一歩近づいていくたび、浮いていること以外彼におかしなところが見当たらないからますます混乱する。上から吊り上げられているわけでも、ない。

 あと少しで男の下方を通る―――というところで、目と目が、合った。

 男はのんきな顔で私を見下ろしていて、私はたぶん訝しげな顔で彼を見上げていた。色素の薄い茶髪が、真っ黒な服に映えている。

 夜空の暗さと街の明るさを半分ずつに背負った男がゆっくりと口を開いた。

「俺が見えんの?」

「……はい?」

 かすれた声で返事をした。これが、この男との始まりだった。

 なんてことない、秋の始まりの、ある月曜日の夜のことだった。


 このあと電車に乗り込むまでの道のりも、駅からアパートまでの道のりも、男は歩く私の上や後ろをふわふわとついてきた。

 往来の誰も、空飛ぶ男に驚かない。どうしてなのかさっぱりわからないけれど、私にしか見えないらしかった。

 いったいなんなんだと、声をかけようにも周りに人がいるうちは話しかけるわけにもいかない。変人になるのはごめんだ。

 それでもアパートの部屋の前にまで当然のようについてきた男に、耐えきれず振り返って小声で叫んだ。

「なんでついてくるの? ていうかあんたなんなの?」

 彼はぱちりと瞬きをしてから、

「なんでかっていうと、おまえが俺のこと見えてるから。なにって言われたら、幽霊か天使か悪魔か……そんなようなもん」

 さらりと答えた。

 一気に質問したのは私だけど、一気に返ってくる答えを頭の中で整理しきれない。頭が痛くなってくる。

 だから男の「とりあえず中に入ろうぜ」という言葉に言い返すこともせず、いつもと同じ動作で鍵を開けてドアを開けた。

 男は半身をドアに透けさせて部屋に入る。ああ、本当にこの世のものではないらしい。

「疲れた……」

「はいはいお疲れー」

「……あんたに言われたくない」

「なんでだよ」

 だってこの疲れの半分はあんたのせいだぞ、という気持ちを込めて軽く睨んでみた。

「……それで、なんだっけ? なんで私にだけ見えてるんだっけ?」

「それはおまえに運があるから」

「運……え、運の問題?」

「幸運か悪運かは知らねーけどな」

「悪運ならいらないんだけど」

「そんなことよりおまえ夕飯食べた?」

「まだだけど」

「じゃあとりあえず食べろ、もう8時過ぎてるぞ。話はそれからな」

「はあ、」

 冷凍してあった1食分のご飯を温め、そこに鶏そぼろのふりかけをかける。ふりかけを冷蔵庫に戻すと同時に野菜ジュースを取り出して、コップに注いだ。

 男はわたしが食べ終えたのを確認すると今度は、

「じゃあ、次は風呂な。行ってこい」

 と促してくるから思わず、

「おかんか」

 ともらすと、

「おまえのおかんに似てる?」

 とちらりと視線を寄こした。

「全然」

 この世のものに触れないらしい男は、彼のリクエストに従って私がつけたテレビのバラエティ番組をのんきな顔で見ている。知らないうちに口から出てきそうになるため息をおさえつつ、わたしは男に背を向けて風呂場に向かった。

 お風呂から戻ると、テレビを向いていた顔が緩慢にこちらに向けられる。

「名前、香名っての?」

「なんで知ってるの?」

「あそこの宛名見た」

「ああ……」

 男は机の上に放ってあった郵便物を指差した。

「あんたの名前は?」

 パーカーを羽織りながら、ソファーに腰かける。

「朝比」

 幻とは思えない澄んだ茶色の瞳とまっすぐに目が合う。あさひ、とその名前を心の中で繰り返したとき、彼がゆっくりと口を開いた。

「おまえに俺が見えたのは、おまえが死にたがりだからだよ」

『なんで私にだけ見えてるの?』

『おまえに運があるから』

 ああ。もしかしたらさっきは、込み入った話になるからわざと核心を避けたのか。

 自分で気づくよりも先に笑みが漏れていた。瞬きをすると同時に、床に視線が落ちる。

「そんな、大層なものでもないんだけどなあ」

 『死にたい』。それは自分でも口に出したことのない感情だった。悲しくなるから、直視しないようにしていた感情だった。人に言い当てられたのは、初めてだ。

「香名はさ、なんで死にたいの?」

 それでも朝比の声は依然、世間話でもするように穏やかで、私の心も不思議と落ち着いていた。向けられる視線をなんとなく感じながら、答えになる言葉を頭の中から探す。

「なんていうか……生きることに疲れちゃったんだよね」

 ため息にならないように、この場の空気が震えないように、努めてゆっくりと息を吐き出す。

「将来のことを考えると憂鬱でしかたなくて」

 夢とか希望とか、昔は笑っていたけど今は笑えない。そういうものがないと、前に進む力がないと、人は生きていけないんだとこの歳になって知った。

「……生きていくためにお金が必要だから、そのために仕事を続けてるけど、その『生きていく』意味が、ないなあって、思うんだよね。生きていく意味が実感できなくて、困ってる」

 テレビからは、私と朝比の間に流れる空気とはまるで正反対の明るい笑い声が聞こえてくる。そのアンバランスさが妙に心地よかった。

「人生80年って長すぎるなって、30年とかでいいなって、早く終わらないかなあって、そういう『死にたい』」

 例えば、人の人生がうらやましくなったとき。孤独を感じたとき。人の言葉に傷ついたとき。人を傷つけたとき。仕事で失敗をしたとき。明日が来ることが嫌でしょうがないとき。

 それは突如はっきりとした輪郭をもって、胸の中に浮かび上がる。『ああ、死にたいなあ』。

「だから、いますぐ死ぬ方法を考えてるとか、そういうのじゃないんだけど」

「うん」

「こういうのも死にたがりっていうのかな」

「さあ」

「適当」

「だって俺たちは医者じゃねーから。診断も線引きもないよ」

「ふうん。……じゃあなんで訊いたの」

「知っといたほうがいいと思ったんだよ。これからしばらく一緒にいるんだからさ」

「はい? そうなの?」

「そうなの。よろしくね」

 疑うような視線を向ける私に朝比はへらりと笑ってみせる。

「……なんで?」

「それが俺の仕事だから」

「……死にたがりな人と一緒にいることが?」

「正確には、死にたがりな人に俺が見えることが」

 罰でもあるよ、と朝比は涼しい顔で付け足した。

 彼の言葉を頭の中で反芻する。意味を理解しきれていない私にかまうことなく、朝比は私と目を合わせたまま続ける。

「俺、自殺したんだ」

 さっきまでと変わらない声音で発せられたその言葉が、テレビから流れる音からも、窓の外から届く小さな物音からも、ぽつりと浮いて聞こえた。

 短い沈黙のあと、そうなんだ、と小さくこぼした私に、うん、とうなずいた朝比の表情には相変わらず影は見えなくて、彼の中ではそれはもうただの事実として存在しているだけなのかもしれない、とぼんやりと思った。

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