(3)三回目のプロポーズ

 本当はもっと色々見て回りたかった。買い物だって一緒に行って欲しかった。夜景を見ながらディナーを食べたかった。

 でも、今日は諦める。


 『とっておきの場所』を目指して、並木道を歩く。

 家とは反対方向、未来とは真逆の方を目指して。

 夕暮れ時が近い。急がないと。


 小高い丘の上に、風車のある展望台が見えた。

 私の意図に気付いただろう、彼は黙って隣を歩いている。

 目指すはあそこ。私と彼にとっての、特別な場所。


 丘の頂上へと続く階段は、夕日に明るく照らされていた。

 私達の前途を祝福してくれている気がした。

 一段一段を、彼と並んで上っていく。

 一歩一歩、過去へと遡っていく。


 展望台に辿り着いた頃には、私の心は『あの時』に戻っていた。

 初めて彼の愛を受け入れた、あの時に。


「僕と結婚して下さい」


 風車が回り始めた。


「懐かしいな」


 彼は呟く。

 ここからは町並みが一望できる。

 あの時と何ら変わらない景色が広がっている。


 けど、私達の中では色々なことがあった。

 彼は将棋を指すようになり、心が私から離れた。

 彼の愛を取り戻したくて、私も将棋を始めた。

 そうして、現在に至る。


 今は何とか、将棋で繋ぎ留めている関係だ。

 将棋が無くなったらどうなるのか、不安を抱くことはある。

 果たして私に、女としての魅力があるのか。彼に愛してもらえる資格があるのか。

 それを確かめたくて、ここに来た。

 ここなら、将棋を指し始める以前の私達に戻れると思ったから。


 もう一度だけ。

 もう一度だけ、あの言葉を聞きたかった。


「修司さん。この指輪はお返しします」


 結婚指輪を外し、彼の前に差し出す。

 彼は少し驚いたようだったが、逡巡した末に、結局は受け取ってくれた。


「私は何の取り柄も無い、容姿に自信も無い女です。こんな私と今までお付き合いいただき、ありがとうございました」


 そう言って、頭を下げる。

 少し、声が震えていた。


「できればこれからも、一緒に居たいと思っています。でも、貴方に無理強いをするつもりはありません。もし私のことが嫌になったのなら、その指輪を捨てて下さい」


 本当はこんなこと、口にしたくは無い。

 けど、一歩前に進むためには必要だと思った。


「将棋は友達同士でも指せます。私で良ければ、いつでもお相手します。正直、貴方には私よりお似合いの方が居ると思います。だからもし、ほんの少しでも私のことを疎ましく思っているのなら」

「──それ以上、言わなくていい」


 私の言葉を遮り、彼は真っ直ぐこちらを見つめて来た。

 鋭くも、優しい眼差しを向けられる。


「香織さん。俺は貴女でなければ嫌だ。

 貴女が傍に居てくれるから、俺は俺で居られる。

 貴女が信じてくれるから、俺は前に進むことができるんだ。

 辛い時も苦しい時も、貴女と一緒なら乗り越えられる。

 俺には貴女が必要だ。貴女無しの人生は考えられない。

 どうかこれからも、俺と共に生きて欲しい」


『僕と結婚して下さい』


 彼の声が重なった。

 現在の彼と、過去の彼。

 その気持ちは、微塵も揺らいでいない。


 やっと、確かめることができた。

 たとえ将棋に巡り合えていなかったとしても、彼は私を愛してくれると。

 そう、心から信じることができた。


 彼の告白に、心が震えた。

 ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。


「この指輪は、もう二度と離さないでくれ」

「……料理中も? お風呂に入る時も?」

「む。その程度なら許可する」


 左手の薬指に、銀色に輝く指輪が通される。

 彼がそこまでしてくれるなんて、思わなかった。

 あの時と同じではない。

 今まで一緒に暮らして来た時間の重みを実感する。


「ん。わかった」


 涙を拭い。

 精一杯の微笑みを浮かべて、私は応えた。


「大好き。しゅーくん」


 自然と、身体が動く。

 彼に抱き着き、胸に顔を埋めた。

 今なら、できるかもと思えた。

 もっと、彼と愛を語り合いたい。

 もっと、彼の愛を感じたい。


「ホテル、行こっか」

「……ああ」


 やがて、日が沈む。

 聖夜が訪れる。

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