(4)また逢おう

 ピシッ!


 白の世界に、黒い亀裂が走った。亀裂は枝分かれしながら、その数を増していき。やがて耐え切れなくなった世界は、硝子(ガラス)のように音を立てて割れた。

 闇の中を、二人で揺蕩(たゆた)う。抱き締め合ったまま、永久に彷徨(さまよ)い続けるのか。

 それも悪くないかもな。そう思った、次の瞬間。

 眼前に、竜が現れた。


 全身を銀色の鱗で覆われた巨竜が、俺達を見つめている。蒼き双眸は、まるで大海のように広く深く、俺達の心を映し出している。

 何てことだ。まさかこんな所で出遭うとは。

 昔話に伝わる、大地に封印されし伏竜。香織の深層意識の中で、それは確かに形を成していた。

 不思議と、恐怖は感じない。

 理屈ではなく、直感が告げている。この竜は、俺達の味方だ。いや──正確には、香織のか。何故かはわからないが、伏竜は彼女を気に入っているようだ。だからこそ竜は、彼女の無意識の内に棲(す)み着いている。

 もしかしたら、彼女の将棋を観たことがあるのかもしれない。慈しむ心に触れ、愛を感じたのかもしれない。


 悪いな、竜よ。

 香織は、お前には渡さない。


 彼女を抱き締める手に力を込める、と。

 竜は、大きな赤い口を開いた。俺達を一飲みにせんと、襲い掛かって来る。

 まずい、怒らせたか? 反射的に身を捻るも、到底逃げ切れない──。


 ……大丈夫。

 その時、耳元で香織が囁いた。俺を安心させるように。


 二人一緒に、飲み込まれる。視界と共に、意識が暗転した。

 瞼を閉じる直前、竜の体内に男の姿を見た。透き通るような羽衣を身に纏った、銀髪の青年。竜と同じ蒼い瞳が、俺達を静かに見守っていた。

 伏竜よ。またいつか、将棋を指そう。


「……ん……?」


 目を覚ます。香織の看病をしている内、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 傍らには、彼女が横たわっている。


 不思議な夢だった。幻想的でいて、妙に現実感を伴っていた。

 彼女の髪を撫でる。依然として起きる様子は無い、が。確かな、命の鼓動を感じた。

 棋力が、回復し始めている。徐々にではあるが、彼女の中で『棋』が育っている。奇跡だ……!


 その時、気付いた。

 一振りの扇子が、俺の右手に握られていることに。

 何を書かれているのかは、開かなくてもわかった。

 夢じゃなかったんだ。


 立ち上がる。俺が今為すべきことは、ここで香織が起き上がるのを、じっと待っていることじゃない。彼女はそんなことを望んでいない。

 もうすぐ準決勝中堅戦が決着する。勝者は燐に決まっている。そして俺は、大将戦の舞台に上がる。香織の望みを、叶えるために。


「……修司さん」


 背後から声を掛けられる。振り返らずともわかっていた。

 いや、厳密には声を掛けられる前にわかっていた。

 鬼籠野あゆむ。巫女の姿をした少年が、部屋の入り口に立っている。


「姉さん、勝ちましたよ」


 その口調には覇気が無い。

 知っていると答えて、俺は彼に視線を向けた。


「燐の試合、観てくれたんだな。ありがとう」

「姉さんは──更に強くなっていました」


 俯いて、彼は呟きを漏らす。


「四十禍津日の力を得て、やっと対等になったと思っていたのに。あっさりと超えて来る。鬼って何ですか? 反則ですよ、あんなの」

「それでも、指し続けるしかない。歩みを止めれば、更に差が開くぞ」


 俺の返答に、少年は何かを言いかけて。その言葉を飲み込み、力なく笑った。


「そう、ですね」

「あいつだって、努力しているんだ。昼飯も食べず、道場で特訓していたと聞く。何もせずに強くなった訳じゃない」


 あゆむに対してと言うよりは、自分自身に向けて告げる。

 俺の努力は足りていなかった。認めよう。


 無意識の内に、己の限界を線引きしてしまっていた。そして、限界を超えることは不可能だと、思い込んでしまっていたんだ。

 それが間違いであると今日、強敵達との闘いを通じて気付いた。

 敵わないのは、単なる努力不足だ。上限に達した訳でもないのに、それを言い訳にするな。俺達は、もっと強くなれる。


「修司さんは、凄いです」


 ぽつりと、あゆむは呟きを漏らした。


「正直、貴方達がここまで勝ち残るなんて思ってもいませんでした。私に勝てない貴方が、有段者に敵う訳がないと思い込んでいた。でも、貴方は勝った。

 それに今だって。香織さんの命を、見事救ってみせましたよね。私は睡狐様の御力を借りなければ無理だと、諦めていたのに」


 だんだんと、口調が熱気を帯びて来る。

 憧れてしまいますと告げて、彼は顔を上げた。上気した顔と、潤んだ瞳。

 本当に熱でもあるのだろうかと、少し心配になったが。


「俺一人の力じゃない。ここまで勝ち残れたのは香織の応援があったからだし、香織を救えたのだって、彼女自身の心に働きかけた結果に過ぎない」


 そうだ。俺は何の取り柄もない、ただの凡人。香織という伴侶を得て、初めて一人前の男なんだ。凄いのは俺ではなく、いつも文句を言わずに支えてくれる香織なのだ。

 俺がそう答えると、あゆむはくすりと笑みを零した。


「貴方は本当に香織さんを愛しているんですね。

 あっ……先程は失礼なことを言って、すみませんでした」

「失礼? 何が」

「貴方が愛しているのは香織さんではなく、将棋だけなのだと。つい、カッとなって言ってしまいました。本当に申し訳なく思います」


 そう言って頭を下げるあゆむ。

 ああそういえば、そんなことを言われたような気がする。


「構わないさ。香織のことを大事に思ってくれての発言なんだろう?」


 薄々気づいてはいた。あゆむが香織のことを、異性として好いているということは。夫としては複雑な心境だが、ここは年長者として、寛大な心を持って接したい所だ。

 俺の言葉に、彼は悪戯っぽく微笑んで、


「あら? 私はお二人共大好きですよ?」


 などと、よくわからない返事を返して来た。

 人心を惑わすのが狐の性分なのか、睡狐の巫女となったあゆむも時折、俺をからかって来る。恋敵のことを、好きだと? 理解不能だ。

 憮然とする俺の顔を見つめて、彼は鈴のような声で笑った。


「むう。大人をからかうもんじゃない」

「あは、すみません。でも、憧れているのは本当ですよ? 姉さんと、同じくらいに」


 それから、ふと真顔になる。小首を傾げて。


「ああでも、困りました。決勝戦のお相手、姉さんにしようと思っていたんですけど。修司さんとも指したくなってしまいましたよ」

「望む所だ。道場のリベンジ、今こそ果たしてやる」

「ふふ。是非決勝まで上がって来て下さい」


 あゆむは少女のように微笑む。

 内心どきりとする。俺としたことが、一瞬とはいえ、香織以外の人間に心動かされるとは。さては、妖術でも使われたか?

 恋愛感情抜きに、彼と戦いたい気持ちはあった。そのためには、あの男に勝たねばならない。

 ミスター穴熊。サロン棋縁の席主にして、最強の穴熊使いとご近所で評判な、孤高の将棋指し。

 正直、勝てる見込みは全く無い。あの男の穴熊は完全無欠で、一分の隙も無さそうに見える。

 だが。右手の扇子へと視線を落とす。俺には、香織がついている。負ける要素も、全く無い。


「ではまた。決勝戦で」

「なあ」


 会釈し、踵を返そうとしたあゆむを呼び止める。

 一つ、訊き忘れていたことがあった。


「燐に、差し入れはしたのか?」


 俺の言葉に、彼は「ああ」と頷きを返した。

 心なしか、口元が緩んでいるように見える。


「香織さんに化けて、大森さんにおにぎりを渡しておきました。ただの塩むすびなのに、姉さんったら美味しそうに食べて。姉があんなに嬉しそうに笑うの、初めて見ましたよ」


 おい、何で香織に化けた? いや、そもそも化けられるものなのか? 狐の巫女だから?

 いくつかの疑問が頭に浮かんだが、燐の空腹が満たされたのならば良しとする。

 何だかんだ言って、姉のことを気にかけてやっているんだな。


「ありがとな。助かったよ」


 燐の代わりに礼を言うと、彼は照れ臭そうに笑った。

 決勝戦で、また逢おう。


 あゆむと別れ、いよいよ対局場へと向かう時が来た。香織は眠り続けているが、放っていくしかない。狐除けの宝石があるから、大丈夫だとは思うが。

 後は、彼女の回復力を信じるのみだ。

 ゆっくりで構わない。無理して決勝戦に出場しなくても良い。俺達に任せて、休んでいてくれ。


 いってきます。


 いつも出勤する時と同じように、見送る香織の頬に口づけて。後ろ髪を引かれながらも、休憩所を後にした。

 彼女への愛の詰まった扇子を右手に、対局場へと向かう。一人だが、独りじゃない。

 待ってろよ。燐、大森さん。そして、ミスター穴熊。

 大将戦は、俺達が制してみせる。俺と──香織が。


 ……そうして、現在へと至る。

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