(6)真鬼顕現

 攻めるのに夢中で、受けの手が疎かになっていた。

 攻防のバランスが大事だって、さっき教えてもらったばかりなのに──って、彼の言葉をそんなに意識する必要は、全くもって無いんだけど……!

 とにかく、これはまずい。85の飛車を通して、その背後の桂馬を直撃している。

 香車の特性を、最大限に活かした一手だ。


 今、飛車を渡す訳にはいかない。

 けど、桂馬を取られて成香を作られるのも十分痛い。次に銀が取られるから、逃げないといけないし。逃げても、香車を取られるし。

 ああ本当、腹が立つくらいに会心の一手だ。いや、こちらにとっては痛恨の一手か。どうでもいいや、くそ。どうして見抜けなかった。


 胸中で吐き捨て、75に飛車を逃がす。

 さあ、桂馬を取るがいい。覚悟を決める私に対し、ショウは酷く落ち着いた手つきで香車を掴──まなかった。


 その代わりに、彼は17に角を打った。

 26の飛車、ひいてはその先にある53の歩を狙うと同時に、28の地点を守る駒でもある。

 正に攻防一体の最善手だ。


 なるほど。打たれてみればキツいな、これ。


 しばらく考えてみたけど、やはり今、飛車を渡す訳にはいかない。飛車を退き、24の歩を取る。

 そのタイミングで、ついに81の桂馬が取られ、香車が成り込んで来た。ああ、これは対応に忙しいなあ。

 銀を逃がしつつ、53の地点を守る。62銀。瞬間的に金銀が壁駒になってしまったけど、この際仕方ない。


 ショウは、成香で端の香車を回収した。


 手番が回ってきた。仕掛けるか、守るか。判断ミスが命取りになる。

 香車を取られたから、さっきみたいな痛打をまた食らうリスクがあるな。同じ轍は踏みたくない。

 例えば、2筋は飛車先が通っている。けどそれって、香車にとっても好条件だ。27に打ち込んでしまったから、歩を打って受けることもできない。


 うん。ここは攻めと守りを同時に行おう。2筋に銀を進出させ、あわよくば17の角頭を狙う。香車を打ち込まれても、同銀で問題なし。角の逃げ場も無い。

 炎は出ないけど、これ以上の手は思いつかない。大丈夫なはず、多分。

 さあどうだ。受けられるものなら、受けてみるがいい。


「強くなったな、燐」


 睨み付ける私に対し、ショウは穏やかな微笑を向けて来た。

 今初めて、名前を呼ばれた。何で急に、このタイミングで?

 呼ばれた瞬間、心臓が跳ね上がった。

 何だ、湧き起こるこの感情は? 恋? ううん、多分違う。もっと別の、何か強烈な想いだ。心が、大きく揺さぶられる。


「本当に強くなった。これなら俺も、本気でやれる」

「その言い方だと、今までは本気じゃなかったことになるけど。良いの、そんなこと言って? これで負けたら、相当格好悪いよ?」

「くく。いよいよ負けられなくなった訳だな」


 笑った、次の瞬間。

 喉元に、牙が突き刺さった。


「──っ……!?」


 食い破られる。

 駄目だ、回避が間に合わない。


 死ぬ!


 実際には、目の前の鬼は何もしていない。ただ少しだけ目を細めて、馬を右に一マス動かしただけ。

 たったそれだけで、殺されたと思った。脳が『あ、死んだ』と誤認してしまった。

 静かなる殺気が、彼の全身から放たれている。凄まじい重圧を感じる。身体の震えが止まらない。


 これが……本当の、鬼。


 馬を動かした意味は簡単。

 次に56歩を突けば24の飛車を取る手になり、更に突き出した歩が55の銀にも当たる。飛車を逃せば銀を取られ、駒損は避けられない。

 そう。その手自体の意味は単純明快なんだけど。


 金色の瞳に射竦められる。

 怖い。そうだ私は、今確かに恐怖を感じている。

 所詮は、紛い物ってことか。


 私は今まで、他者とは異なる自分が、他者より優れていると思い込んでいた。

 その認識が誤りであると、二回戦での敗北を機に理解した。井の中の蛙だったことを思い知らされ、恥を忍んで大森さんに教えを乞うた。

 鬼の血に頼るのではなく、戦法という武器を得、真っ当な将棋指しとして強くなることを願った。


 結果は、このザマだ。

 鬼殺し向かい飛車は、人が人と指すために開発された戦法。人外には通用せず、圧倒的な剛力で屈服させられようとしている。

 所詮紛い物に過ぎない私は、人としても鬼としても中途半端。このまま無様に敗北するのがお似合いなんだろうか。偽物は、本物には敵わないのか。


「どうした、燐? 俺が怖いか?」


 鬼は静かに問い掛けて来る。溢れ出る殺気とは裏腹に、その口調は穏やかだった。

 この男は、私を殺そうとしていると同時に、対話を続けたいとも思っているのか。何という二律背反。何とも度し難い。

 こんな茶番、いつまで続けていたって仕方ないのに。


「怖い」


 この期に及んで、見栄を張っても意味が無い。素直に認める。

 己の死を意識した時点で、戦意は喪失していた。もうこれ以上、対局を続けても勝ち目は無い。

 投了、しよう。

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