(15)不完全な穴熊
「やれやれ。何とか無事に対局が始まったな」
ため息混じりにしゅーくんが呟く。
将棋盤くんの上には、とっくの昔に駒が並べられていた。
そうだ、検討しないと。
お互いが角道を開けて、それから。
「この時点では居飛車か振り飛車かわからないんだよね」
「ああ。だが、穴熊さんは穴熊に組む」
まあ、ミスター穴熊なんて自称?してるくらいだもんね。
相手がどんな戦法で来ようと穴熊に組む。余程の自信が無いとできないよね、そんなの。
「とはいえ、まずは飛車先の歩を突いて様子を見るはず。そこでトンシがどう動くかだな」
なるほど。最終的に穴熊にはするけど、組むまでの過程は相手次第ってことか。
「場合によっては穴熊に組みづらいこともあるしな。例えばいきなり角交換された場合は、まず角の打ち込みを警戒する必要がある。
穴熊は強固な囲いだが、駒が玉側に偏る欠点があるからな」
ふむふむ。手薄になった箇所に角を打ち込まれ易いということだね。
「それでも穴熊に組むなら、二枚穴熊か」
二枚穴熊、つまり金銀二枚で玉を囲う形。将棋盤くんの上に並べてみたけど、ちょっと頼りない感じがする。まあ、片美濃よりはマシだけど。
「角交換して来なかった場合は三枚以上に組める訳だが、そこでも警戒すべき戦法が存在する」
代表的なのは、藤井システム。
それから、トマホーク等も危険らしい。
どちらも、名前だけは聞いたことがある。
「藤井システムは、『居玉のまま』四間飛車美濃の形に組み、角の睨みと右桂により『穴熊が完成する前に』攻め潰す超攻撃的戦法だ。
これをまともに食らえば、相手は穴熊に組もうとしたことを後悔しながら投了するだろう」
丁寧な解説ありがと、しゅーくん。
「一方のトマホークは、ある限定条件があるものの、やはり居飛車穴熊が完成する前に仕掛ける、攻めっ気の強い戦法だ。
今度は三間飛車美濃の形に構え、左銀を早々に繰り出し、角頭を攻める。
特徴的なのが端に桂馬を跳ねて使う点。端歩を突かない、対穴熊ならではの戦い方だな」
格好良い名前だね。
でも、どちらも振り飛車の戦法。
トンシさんが居飛車の場合は、どんな風に指すんだろ?
「居飛車に対しては、流石の穴熊さんも居飛車穴熊にはしないだろう。振り飛車穴熊に組むと思う」
ははあ。左端に囲うのが居飛車穴熊。
その反対側に囲うのが振り飛車穴熊だね。
「トンシは居飛穴に組んで十分」
え、それだけ?
「振り穴と居飛穴では、居飛穴が勝るとされる。居飛穴は敵陣を角で狙える。
すると攻め駒を減らすことができ、右銀も囲いに加える余地ができる」
うわ、金銀四枚の穴熊ってこと?
ただでさえ固いのに、それは厄介だなあ。
「一方の振り穴では、同じことはできない。攻め駒が足りなくなるからだ」
なるほど、そうなんだ。
じゃあ例えば、私が穴熊さんに振り穴で対抗しようとしても、固さで負けるってことか。
大人しく美濃囲いにしときます。
「だが、今言ったのはメジャーな対策だ。当然穴熊さんも知っているだろうし、十中八九通用しない。下手すれば、対策を逆手に取られる恐れすらある」
ふむー。
その辺の駆け引きは、高度過ぎてついて行けそうにないなあ。
「そら。そろそろトンシが動くぞ」
しゅーくんの言葉に、慌てて対局席に目を遣ると。
トンシさんは歩を手に取り、突き出して来た。
「角道を閉じて来た。つまり、これは」
四間飛車。
穴熊さんの居飛穴に、真っ向から挑む手だ。
「吾輩は最新定跡に精通している。先程そう言ったのを覚えているか?」
「うむ」
「あれは、嘘だ」
穴熊さんはすぐには穴熊に組まず、まず右銀の活用を図る。
トンシさんはやはり飛車を四間に振って来た。
その後しばらく、通常の急戦で見られた駒組が続く。
藤井システムでも、その他の対策でもない。
「どうせ対策した所で、貴様はその全てに対応する術を知っているのだろう? ならば、吾輩はあえて対策せぬ。
そもそも、何で貴様に合わせた手を指さねばならんのだ? 吾輩は、吾輩の将棋を指すのみ」
そう言い切って、トンシさんは普通の美濃囲いに組む。
穴熊さんも、この時点ではまだ舟囲いだ。
いっそ清々しいまでの宣言に、穴熊さんは目を丸くする。
普通に組み合えば不利だとわかっていながら、それでもトンシさんは勝つ気で居るのだ。
「トンシよ。運命は我に味方しているのだぞ?」
「だからどうした。吾輩は一人で十分。味方など要らぬわ」
「ふ、ふふ……そうか。貴殿は、強いな」
穴熊さんの口元に笑みが浮かぶ。
楽しんでいる。あの、人生の全てを憂いているように見えた人が。
トンシさんは囲いを発展させ、高美濃を目指す。
対する穴熊さんは、ここで角道を閉じた。
「いよいよだ。居飛穴に組み換えるぞ」
固唾を呑んで見守る私達をよそに、両者は更に駒組を進めて行く。
あれ? あの穴熊、銀の横に金が並んでいる。
さっき並べた二枚穴熊だと、金は銀の右斜め後ろに控えていたのに。
もしかして。ただの穴熊と、違う?
角の横にも、金がある。
一方のトンシさんは、高美濃の桂馬を跳ね、左銀を繰り出し、攻める態勢を整える。
穴熊さんは右銀を、左斜め後ろに退いた。
「貴殿の闘志に敬意を表し、特別に見せて差し上げよう。我の本気、その片鱗を」
そうして完成した囲いから、黒い炎が噴き上がる。
これは、尋常じゃない。私には囲いの凄さはよくわからないけど、ただ事じゃないのはわかる。
「『松尾流居飛車穴熊』。あれが穴熊さんの本気か──!」
しゅーくんが、呻いた。
松尾流。初耳だけど、彼が驚くくらいだから厄介な囲いなんだろうな。
「松尾流はミスターの得意形だな。これでほぼ勝ちは確定したか。
もっとも、あの松尾流は不完全だがな」
そこに、ショウさんが口を挟んでくる。
不完全? あの完成されたように見える囲いが?
「右銀の位置が中途半端なんだよ」
「ああ、確かに。右銀があの位置では角が引けず、使いづらいか」
しゅーくんが相槌を打つ。
頷き、ショウさんは更に続ける。
「それにあの状態では、飛車の横利きが銀で遮られ、左金が完全に浮き駒になってる。本来ならもう一手、右銀を下段に落とす必要があるんだ」
つまり、この瞬間こそが。
絶好の好機、ということか。
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