(3)純文学

 ある日、親父は俺と将棋が指したいと言って来た。

 何度も断り続けたのに、それでも指したいと。


「頼む、修司」

「……俺とじゃ、満足できないと思うけど」

「俺は、最後にお前と指したいんだ」


 真剣な表情だった。最後に、と言った。

 この時、親父は己の死期を悟っていたのかもしれない。


 何故最後に俺との対局を望んだのか。

 今ならわかる。俺の記憶に、刻んでおきたいと思ったんだ。自らの生きた証を、自らの将棋を。


 しかし当時は、親父の意図がわからなかった。

 それでも、あまりにも辛そうな顔で、息を切らしながら、必死に頼んで来るものだから。


「わかった」


 遂に、俺は折れた。


 折り畳み式の将棋盤を、ベッドの上に開く。

 駒を並べている内に、懐かしい気持ちで一杯になって来た。

 最後に親父と対局してから、一体何年経っただろう。


 肺癌の症状の一つ、太鼓の『ばち』のように変形してしまった指では、駒を並べるのも辛いだろう。

 それでも親父は一つ一つの駒を、丁寧に並べていった。


 駒落ちではなく平手。それが親父の希望だった。

 振り駒の結果、俺が先手番になった。


「宜しくお願いします」


 角道を開ける。

 飛車先を突かれる。

 左の銀を斜め右に上げる。

 角道を開けて来た。

 角道を閉じる。


 全て、親父が教えてくれた手順だ。

 俺はこれしか知らない。


 お互いが、矢倉に組んだ。


「24手組。覚えていたか」


 親父の顔に薄っすらと笑みが浮かぶ。


「そりゃ、あんだけしごかれたらな。嫌でも覚えてるさ」


 指し始めた頃のことを思い出す。

 矢倉は定跡研究が最も進んだ囲いであり、24手まではほぼ確定であること。しかしそれを成すには、対局者双方の合意が必要であること。

 全て、親父から学んだ。


 二人で共に創造し、完成した囲いの美しさは、『純文学』と形容される。

 全ての駒が隙なく配置され、各駒の連結も強い。所謂余り駒が存在しない。


 矢倉とは、将棋における一つの極致なのだと、親父が教えてくれた。


 ここから俺は仕掛けていく。

 右銀を繰り上げ、右の桂馬を跳ねる。


 いくぞ、親父。



 定跡とは手順書のようなもので、それをなぞっている限りは形勢を損ねることは無い。


 けれど、25手目以降に関しては、俺は深く知らなかった。

 親父もアレンジを加えて来る。

 先手を活かして攻めていきたいが、そう簡単には突破させてくれない。


 見慣れたはずの矢倉が、難攻不落の要塞に見えた。


 なんてことだ。

 前よりも強くなっている。


 子供の頃指した時よりも、親父の指し手は練度を増していた。

 俺が将棋から離れている間もずっと、親父はたゆまぬ努力を続けて来たのだ。

 その成果が、今。歴然とした棋力の差として、俺の前に立ち塞がっている。


 ならば。

 戦力を一点に集中させる。

 端からぶち抜いてやる。


 飛車、銀、桂馬、香車に加えて、下段に引いた遠見の角も利用する。それら全てを、端攻めに投入した。

 戦力としては申し分無し。いかに親父と言えども、防ぎ切ることは容易ではあるまい。


 ──なのに親父は、笑っていた。


「やり過ぎだよ、修司。端を破るのに、一体何手費やすつもりだ?」


 はっとする。


 駒を使えば使う程、攻めは強力になる反面、重たくなる。

 まさか親父は最初から、俺が端攻めを狙って来ることを想定して駒組みを?

 あるいは、わざと端攻めさせる隙を作っていた……?


 だからか。矢倉に玉を納めず、手前に留めておいたのは。

 何とか突破できたとしても、親父の玉を捕まえるのは難しい。


 受けてくれれば、攻めの重たさは解消できる。

 だがもし手抜かれれば、自分の攻め駒が邪魔で、飛車を成り込むことができない。

 自分自身の首を絞めることになる。


 冷たい汗が、首筋を流れ落ちた。


 悠長に攻めている間に、反撃が来る。

 跳ねた桂馬が、矢倉の要、左銀を狙って来る。

 開いた角道が、自玉を直射する。


 軽く、鋭く、それでいて無駄の無い効率的な攻めだった。

 これが、親父の将棋か。

 老いてなお、病に倒れてなお、その攻めにはいささかの衰えも感じない。

 むしろ、全盛期以上に燃えたぎっていた。

 命の炎を燃やして、親父は更に踏み込んで来る。

 連結を解かれた守備駒達が、瞬く間に薙ぎ払われていく。


 とてもじゃないが、端攻めは間に合わない。

 自玉の危機を察知し、逃げる。

 囲いは、もはや安全地帯ではない。右辺へ逃げる。惨めな醜態を晒しながらも、それでも、少しでも敵駒から離れなければ。


 負けたく、ない。


 自分でも不思議な感情が湧き上がっていた。

 そうだ俺は、負けたくないと思っている。


 相手が病人だとか、死にかけているとか。

 そんなものは、今この場においてはどうでも良い。

 大事なのは、勝つか負けるかなんだ。相手の状態は関係無い。気を遣っていたら、勝つチャンスを逃してしまう。

 気持ちを切り替える。


 端攻めに投入し掛けていた駒を転回する。

 中央が手薄だ。端と中央から、同時に攻めるんだ。


 玉は包み込むように寄せよ、という格言がある。

 端攻めだけなら、玉は飛車側へと逃げてしまう。

 だが、中央に拠点を作りさえすれば、逃げられることは無い。確実に追い詰めることができる。


 俺の方針転換に、それまでほとんどノータイムで指していた、親父の指し手が止まった。


 長考の間が、恐ろしい。


「良い判断だ」


 だが、と親父は続ける。


「手を戻したせいで、一手遅くなったな」


 玉と飛車の間に、金を打ち込まれた。

 退路を断たれた上に、中飛車にする余地が無くなった。

 これでは中央突破など、できるはずも無い。


 恐らく、今の金打ちが決め手だろう。

 後はじわじわと寄せられるのみ。

 俺は、負ける。


「なあ、修司。将棋、楽しいか?」


 ふと、親父はそんなことを訊いて来た。

 俺は盤面から視線を逸らさず、応える。


「ああ。楽しいけど、悔しい」


 打開の一手は無いかと、血眼になって盤上を探す。

 くそ、駄目だ。親父の言う通り、もはや手遅れだ。一手遅かった。


「そうか。なら、良かった」


 何一つ、打つ手が無い。


 負けました、と言うのは簡単だ。

 それで全てが終わる。

 親父の人生最後の一局が、終わってしまう。

 それは何だか、親父の命が尽きることを意味しているようで。

 俺はどうしても、敗北を認めることができなかった。


 詰まされるのはわかっていても、悪あがきの一手を放つ。

 棋譜を、穢してしまった。


 次は親父の番。


 容赦の無い追撃が来るのだろうと、俺は目を閉じる。

 今度こそ、もう終わりだ。時間稼ぎはできない。王手に次ぐ王手の末に、俺の玉は仕留められる。

 俺は、覚悟を決めた。


 ──それなのに。

 いつまで待っても、駒音が響くことは無かった。


 目を開く。


 血塗れの将棋盤が、そこには在った。

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