PASSION
风-フェン-
第1話
そろそろ休憩をしよう。そう思って美しい花が咲く丘の上で馬の手綱を近くの木に結びつけて色とりどりの花を眺めていた時だ。クゥ、と鳴く声に視線を向けた。
その声を出したのは手のり程の小さな白い狐だった。その狐は人馴れしているのか小さくクゥクゥと鳴きながら私の元まで来ると私を見ながら尻尾を振る。
「おまえ、どっから来たの?おいで」
私を警戒する素振りも見せない狐は人懐っこいのだろう。野生ではなさそうな愛らしい狐の前に手を広げると狐はすぐに手の上に乗った。
「綺麗な毛並みだね」
「クゥ、クゥ」
私は人差し指の腹で頭を優しく撫でて話しかけると狐は嬉しそうに鳴いて尻尾を振る。随分可愛いやつに好かれたものだ。この子は飼い主とはぐれてしまったのだろうか?この丘を降りれば街に着くがここら辺には家はない。しかも、この子をよく見ても体には何も付いていなかった。
「おまえ家はどこなの?飼い主は?」
私が話しかけたところで白く美しい毛並みの狐は可愛らしくクゥと鳴くだけだった。狐にしては珍しく真っ白な毛並みは艶やかで手入れがされているのだろう。私は返事はないと分かりつつ少し話しかけて可愛がりながら辺りを見渡した。だが、飼い主らしい人影等見当たらない。
どうしたものか、狐を撫でるのを止めると狐は私の腕を登って肩まで来る。するとじゃれるように私の顔に頬擦りをしてきた。こんなに懐かれても私は動物なんて飼った事がないし、飼う気もない。これから丘を降りて依頼人に会いに行こうと思っていたがこの子がいてはそんな訳にもいかない。この子は可愛らしいが困ってしまう。
私はまた指の腹で頭を撫でてやると狐はクゥクゥ鳴いて喜んでいた。どうにかしてやらないと、可愛い狐を見て思っていたらふと人の気配がしたと同時に穏やかな口調で話しかけられた。
「レト。ここにいたの?ごめんなさい、その子は私の子なの」
私の方に向かってやってきたのは一人の女性だった。ブロンドの長く癖のない美しい髪を後ろの低い位置で結んでいる彼女は白に近いクリーム色のとても上品なローブを羽織っていた。端正な顔立ちからは気品が充ちており聡明そうにも見える。幼さを感じさせない彼女は小柄だけれど女性としてとても美しく綺麗だった。彼女はきっと私等とは違う高貴な身分なのではないのだろうか。私は立ち上がって向き直った。
「あぁ、えっと…あなたの子だったんですね。じゃれてくるからはぐれたのか心配していました」
「本当にごめんなさい。外に出たいって暴れるから出してあげたら喜んで走り回って行っちゃって。脚が速いから置いてかれてしまったの」
「いや、いいんですよ」
何か失礼ではないか緊張する。穏やかな表情で話す彼女は白い狐、いやレトに手を差し出した。
「おいでレト。もう帰るわよ」
「クゥ……」
私よりも遥かに低い位置から手を伸ばす彼女にレトは一鳴きすると私の頭の上に素早く移動した。頭一つ以上差がある背丈にこの女性の小柄さを実感する。
「レト。早く降りなさい」
レトは彼女に優しく促されているのに一向に降りようとしない。私はこのレトに思っているよりも懐かれてしまったようだ。
「……あなたが随分気に入ったみたいね。この子はこんなに人に懐かないのに、困らせてごめんなさい」
「あぁ、いや、いいんですよ。元々ここで少し休もうと思っていたので…」
謝られるとこちらが困ってしまう。予定はあったが急いではいない。すると彼女は小さく笑った。
「ありがとう。ごめんなさいね、この子の我が儘に付き合わせてしまって。よかったら少し話さない?こうなると長いのよこの子」
「えぇ、それは構いません」
「じゃあ、隣に失礼するわね」
彼女は上品な仕草で私の隣に座った。私の顔には火傷の痕があるのに顔色すら変わらない彼女は私に対して何も思っていないようだった。皆驚いたような顔をしたり汚いものでも見るような顔をするのに、人がいいのだろうか。
私は戸惑いながら彼女の隣に静かに座った。
「そういえば自己紹介がまだだったわね。私はジゼル=メルグレイス。ジゼルでいいわ。あと喋り方も普通にして?よろしくね」
「…分かった。こちらこそよろしく。私はローレン」
「ローレンね。ローレンはなぜここに?あなたは旅人か何か?」
首を傾げるジゼルに私は軽く説明してあげた。
「私は依頼があったから来たんだ。丘を降りた街に依頼を出した人がいて大切な荷物を届けてほしいみたいでね。普段は傭兵みたいな仕事をしているんだよ」
私は裕福な家柄でも何でもない。昔は軍人をしていたが今は辞めてしまって転々としながら傭兵業をしている。なのでやる事は大体決まっている。どこの街も村も皆が集まる広場や酒場に掲示板があるのだが、そこには様々な仕事の依頼書が張ってあるからそこの依頼書を見てここまで来たと言う訳だ。そこには何でも依頼が出ているから仕事を選ばなければ金には困らない。
「そう。それはどこまで行くの?」
「南のラハイナだよ」
「ラハイナ?あそこは最近ラナディスの残党が現れて闘いをしていたわ。終息はしたみたいだけれどあそこだけじゃなくて各地でまだ内乱が起きてる。行くのは危険よ?何があるか分からない」
ジゼルは若干顔を歪めた。私達の住んでいるこの国は東部に位置する大陸バトゥーレを支配するダビリア帝国なのだが、一年前に隣国であったラナディス王国との戦争に勝利して間もない。戦争が終息して国土は広がったものの反帝国派が動いては国の中で同じ人間が殺し合いをしている。勝ったからと言って全てが良くなる訳ではないのだ。
「まぁ、だからだよ。あの依頼だけずっと残っていたし、闘いに行く訳じゃないから何とかなるだろう。それよりジゼルは変わった動物を連れているんだね。初めて見たよ白い狐を」
私はまだ何か言いたそうにしていたジゼルの話を流そうとした。彼女は見るからに闘いなんてしなさそうな女性だから心配なのだろう。私はそれ程強くはないが心配は無用だ。
「ええ、レトは希少な種類の狐なの。毛色もそうだけどレトは頭が良くてとても長生きするのよ。でも、あまり懐かないわ人には」
「そうなんだ。私にはすぐに寄って来てじゃれてきたのに懐かないなんて意外だね」
まだ頭の上にいるレトは動く気配がない。この子は少し変わり者なのか。私が心で思っていたらジゼルは私を見つめて控え目に笑う。
「本当に意外ね。私にも最初は懐かなくて大変だったのにあなたには出会ってすぐに懐いてしまうなんて。困った狐だわ」
「ふふふ。そうだね。降りてくるつもりもないみたいだし」
「あまり外に出してあげられなかったから帰りたくないのよ。私も久々にこうして外に出ているから気分転換になって良いんだけどね」
「いつもは部屋にいるの?」
彼女の口振りから病気等の類いではなさそうだが、何か忙しい身分なのか、ジゼルは笑って頷いた。
「ええ。いつも読書をしたりしているわ。私以外には噛むから私がお世話をしているんだけど……、やっと降りてきたわね」
「本当だ」
こんな人懐っこいレトが噛むとは信じがたいがレトは私の腕を伝って掌に来ると丸まって私の指に頭を押し付けてくる。降りては来たがどうやら目的は違うらしい。
「レトは甘えたがりなのよ。私が部屋にいる時は私から離れないの。ごめんなさいローレン」
「いや、いいよ。私も動物の類いはあまり触ったりしないから新鮮だし。それにこの子は可愛いね」
私はレトの頭を指で撫でてやるとレトは気持ち良さそうに小さく鳴いて綺麗な尻尾を忙しなく振っていた。この子はとても愛らしくて、見ていて笑顔になってしまう。
「確かに可愛いけれど、レトは手がかるわよ?」
隣にいるジゼルは穏やかな口調でちょっと大袈裟っぽく言った。最初に思ったよりも話しやすい人でほっとする。
「可愛いから尚更にって事だね」
「ふふふ。そうかも」
「お?もう満足したの?」
二人で笑っていたらレトは私の掌からまたひょいひょいと移動して肩に来たと思ったら私の顔に頬擦りしてからジゼルの肩に飛び移った。
「やっとみたいね。付き合ってくれてありがとう、ローレン」
「いや、いいよ。楽しい時間をありがとう」
ちょっぴり名残惜しいが私はレトの頭を軽く撫でると立ち上がった。休息は取ったからもうそろそろ行こう。久々に穏やかで楽しい時間を過ごした。馬の方に向かおうとするとジゼルも立ち上がって私を止めてきた。
「待って、ローレン」
「ん?」
「ラハイナに行くのでしょう?…これを。持っていても困らないわ」
彼女はローブの中から何か袋に包まれた物を渡してきた。
「これは?」
「怪我をした時の包帯と傷薬よ。炎症と痛みを軽減させる効果があるから、何かあった時に使うと良いわ」
「…わざわざありがとう。助かるよ」
今日会ったばかりだと言うのに彼女の心遣いには驚いた。傭兵では生傷が絶えないので感謝しかない。ありがたく受け取るとジゼルは小さく首を振って心配そうに言った。
「いいえ。あなたを大切に思う人がいるでしょう?だから、死なないように気をつけて」
「あぁ、……」
その言葉に一瞬戸惑ってしまった。大切に思う人なんて、彼女にはいると思うが私にはないものだ。私はあまり心配させないように良くしてくれるジゼルに笑って言っておいた。今日初めて会ったけれど、彼女からは悪意や同情等という感情は感じられないから。
「私を思ってくれる人はいないよ。私は戦争孤児なんだ。家族も何も、大切なものはない。だからいつ死のうが誰も困らない。まぁ、私は痛いから嫌だけどね」
私はジゼルがくれた薬と包帯を腰にかけていたポーチにしまうとそれじゃあ、ありがとう。とお礼を言って今度こそ立ち去ろうとした。だけど、また彼女に止められた。穏やかな表情を崩さなかった彼女が私の手を掴んで真摯な眼差しを向けてくる。物腰の柔らかい優しい印象を受けた私にはいきなりの態度の変わりように驚いて何か失礼な事をしてしまったのかと思った。でも、それは違った。
「なら、私があなたを大切に思うわ。命は常に慈しまなくてはならないの。それは誰の命であっても変わらない。あなたに大切なものが無くても、私はあなたを大切に思うから死なないように気をつけて」
ジゼルは哀れみを込めて言っているようには見えなかった。私をしっかりと見据えて本心で言ってくれている。彼女は相当人がいいのだろう。こんな流れ者の傭兵に慈愛の心を向けるなんて、初めての経験で言葉が見つからなかった。彼女は聖職者か何かなのかもしれない。
「……分かったよ」
ただの肯定しか返せなかった。だけどジゼルは安心したように笑うとまた穏やかな表情に戻った。
「じゃあ、依頼が終わったらまたここに来てくれない?私は丘を降った街にいるのだけどこの丘にはレトを連れてよく来るの。ちょうど今位の時間に。レトはあなたに懐いているから来てくれたら喜ぶわ」
「分かった。生きてまたここに戻ってくるよ」
「ええ。約束よ」
「うん。約束する」
柔らかくて暖かい手を離す彼女は約束までくれた。こうやって約束をするのは初めてで嬉しかった。私は見送ってくれるジゼルを背に馬に乗って丘を降った。
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