第18話 ヒーローは何人いてもいい
電話越しの訴えに、ウィルは短めに返事をした。
リックは「僕は無事だ」と言った。それはすなわち、『僕』以外の人間が無事ではないということ。逃げ遅れた人や店員が残っていると、泣きついてきたリサから聞いていた。
『ついでに酒も用意してもらおうか』
「酒も……? 車しか聞いていなかったから時間はかかるぞ」
『十分で用意しろ』
「十分は難しい。行き来だけでも一時間はかかる」
『なら三十分以内だ』
「善処する」
一度切り、相棒のシン・オーズリーと目配せをした。
「モリス以外は死んでいる可能性が高い。ギリギリでもう一度電話をかける」
アルコール類だけではなく、ジュースや食べ物、お菓子など、要求されてもいいように実はすでに用意されていた。
背後にいるリサの頬には、涙の跡がある。
「嬢ちゃんは大丈夫だ。怪我一つしていない」
「ふふ……あなたにとっては可愛いお嬢さん扱いなのね」
ウィルは罰が悪そうに顔を背ける。
「綺麗な女性は笑顔が似合う」
「ありがとう」
「本当はリックに言われたいだろうがな」
「そんなことはないわ。あなたに言われても嬉しいのよ。ねえ、私にできることはある?」
「祈っていてくれ。美人の祈りは神に届くって聞いたことはないか?」
「そんなことあるの?」
「学校の授業でそう習ったんだがな」
軽口を叩きつつ、ウィルは腕時計を見やる。残りはあと二五分。
「リサ、男の人数は五人で間違いないんだな?」
「ええ。そうよ。確かに五人だったわ」
「黒いマスクをしたアジア人風の男たちが、ワゴン車で逃走する瞬間を見ている人がいた。襲われたのは、時計店と宝石店」
オーズリーはメモを確認し、横で相づちを打つ。
「宝石店では二人の男が強盗。おそらく、狭い店内なのを知っていて大所帯は避けたんだろうな。時計店は五人。ワゴン車に乗る男は五人だった。まだ中には、少なくとも二人の強盗犯がいる。仲間割れがあったのか……とにかく気が立っているのは間違いない。人も迷いなく発砲している。慎重に行こう」
「明暗ですがギルバート刑事、あなたの行動を見ていると慎重とはほど遠いように思いますが。何度時計を見れば気が済みますか? 頭に上った血をなんとかして下さい。酸素は足りていますか?」
「俺とお前の回りの空気は同じだ」
「充分ですね。では本題に戻ります」
初めて会ったときは、あまり自己主張しないタイプかと思っていた。確かにアメリカ人のわりには主張は強くはない。が、いかんせん言葉がきつい。涼しい顔して言ってのける。
「私が代わりに交渉人を引き受けましょう。あなたは救出に向かって下さい」
「何か考えがあるんだな」
「現場での経験はあなたの方が慣れている。あなたが指揮を取るべきです。顔見知りがいる現場に、あまり行かせたくはありませんがね。冷静な交渉術なら、成績はそこそこでした」
「そこそこの交渉術は、点数をつけるとしたら何点くらいだ?」
「……七十点くらいかと」
「お前に任せる。俺より高い」
本当はもっと高いだろうが、彼の性格を考えるとあえて低めに言ったのだろう。七十点でもウィルの自己成績よりかは高い。得意分野は彼に任せ、ウィルは制服の上から拳銃にそっと触れた。
「そろそろ三十分だな」
強盗犯の独り言の後、タイミングよく電話がかかってきた。
スピーカーにし、男は電話を取る。
「用意できたか?」
『ええ、できましたよ。アルコールはビールとワインを』
この声はシン・オーズリーだ。彼も刑事だからいてもおかしくないが、ウィルは外されたのだろうか。
『お酒は車の後部座席に積んであります』
「分かった。人質は一緒に車に乗ってもらう。解放はしてやるが、それはお前たちがついて来ないと判断出来次第だ。どこかで車を駐めて、外に出す」
『分かりました。信じています。最後に、人質の無事を確認させて下さい』
「いいぜ」
やけにあっさりとしている。どうせ殺す人間だから、どうでもいいとさえ聞こえた。
「今のところ怪我はしていない。こちらは大丈夫だ」
『ご無事で何よりです。ご友人の方も心配されてますよ。必ず助けますので。くれぐれもおとなしくしているように、とのことです』
「…………分かった」
おそらくウィルだ。「くれぐれも」なんて、いかにもウィルらしい言い回しだ。
「車はどこに駐めてある?」
『出入り口に一番近いところです。黒いワゴン車で、キーはすでに車の中にあります。ご不満でしたら、場所を変えましょうか?』
「…………いや、いい」
上手い言い方だ。冷静な声と相手に寄り添う言葉を選べる判断力に、彼は交渉術に長けている。喘息の薬を服用したわけでもないのに、息が段々落ち着いてきた。
まだ今日の分の薬を飲んでいない。死ぬか生きるかの瀬戸際なのに、意外と私生活のことが気になるものだ。鍋に残っているミルクスープはどうなるのか。早く食べないと腐ってしまう。
「ほら、立て。お前が先にワゴン車に乗り込むんだ。逃げようとしたら撃つからな」
リックはゆっくりと椅子から立ち上がると、男たちの歩幅に合わせて歩き始めた。
警察の企みが分からない以上、彼らに従うしかない。先ほどの短い電話にも、隠れたメッセージらしいものはおとなしくしていろくらいだ。
エレベーターを降りると、微かに硝煙の臭いがする。リックは顔をしかめた。
自動ドアが開く直前、男はリックの背中に銃口を突きつけた。その位置で引き金を引かれたら、命はない。
駐車場には人がいる気配はなかった。静まり返っていて、強盗殺人が起きたなんて考えられないほどだ。閉店後のショッピングモールだった。
オーズリーが言っていた通り、目の前に黒のワゴン車がある。何の変哲もない、よくある車だ。気配を押し殺しているが、タイヤの陰には黒い靴が見えたがリックは知らないふりをした。
「乗れ」
リックは頷き、ワゴン車のドアに手をかけた。
後部座席には紙袋が置いてある。中にはビール瓶とワインボトルが入っていた。アルコールを犯人に渡すなどあっていいのかと疑問視する。
リックは乗る直前、あることが頭をよぎる。チャンスは一度きりしかない。何か合図さえあれば。
車に両足を乗せたとき、乾いた音が二発鳴った。背後ではくぐもった声が聞こえ、リックはとっさにワゴン車へ身体を押し込んだ。
背後を振り返ると、男が足を押さえて中国語で何か叫んでいる。
「ぐっ…………!」
拳銃を所持している男はリックの腕を掴むと、車内から無理やり引きずり下ろす。
リックは頭を天井にぶつけたが、掴まれる腕の痛みが勝っていた。
「くそったれ! どこだ!」
首が締まり、リックは小さなうめき声を上げる。
「動くな」
小言の申し子であるウィルは、怒りのこもった声で拳銃を向けた。
男はリックの頭に銃を突きつけ、大声で叫んだ。
「お前か! さっきの電話の男だな!」
ウィルは質問に答えず、銃を下げもしない。
男はリックを盾に、後ずさった。
「許されないものがある。お前は触れてはならないものに触れてしまった。忠告だ。そいつを離せ」
死ぬか生きるかの直前。ふたつの扉を目の前にした瞬間。
リックは過去の記憶が鮮明に蘇ってくる。
──いいか、リック。腕に蛇と天使、蝶のある奴らには……近寄る……な……。
腕の中で息絶えていく父と、鼻につく硝煙と血の臭い。
──パズルは整った。犯人も分かった。そして必ず君のパパも元気になってくれるさ。
真っ先に側へやってきた警察官は、父に似ているとずっと思っていたが、どちらかというとウィルに似ている。人間は声から忘れていくというが、低めの声もまだ耳に木霊している。
残念ながら元気になることはなかったが、力強い言葉に一種の憧れを抱いた。
あのとき、父は確かに蛇、天使、蝶と三つのワードを言っていた。十五歳から怪しげな集団に導かれていたのかもしれない。探偵になったのも、便利屋になったのも、すべては見えない何かに誘われていた。
「もう一度言う。離せ」
ウィルは一歩も引かない。鍛え上げられた腕と自信は、拳銃をまっすぐに犯人へ向けている。
リック自身も危ない状況なのに、ウィルには全信頼をおいていた。
「こいつがいて、お前に撃てるのか?」
震えた声で、男は強気な発言をする。
先に動いたのは、リックの頭に銃口を押し当てている犯人でもウィルでもない。
発砲音と共に犯人は声にならない声を上げて、前のめりに倒れる。
リックは隙をついて横に転がる。
間を塞ぐように、ウィルがリックの前に踊り出た。
もう一発、発砲音が聞こえた。
「がっ…………!」
犯人の声ではない。最悪な事態が起こってしまった。
「ウィル!」
リックは渾身の力で叫ぶ。
犯人の撃った弾は、ウィルの肩を貫いた。
真っ赤な血が雨のようにリックの身体に降り注ぐ。
大きな身体が地面に伏した後、後押しの弾は犯人の心臓付近を濡らした。
人の気配はなかったはずなのに、次々と警察官がやってきて、倒れた二人の犯人に群がった。車の隙間からウィルに足を撃たれた男は、抵抗する気はすでにない。
「ウィル…………」
「怪我はないか?」
リックは小さく頷くと、吐息混じりの声でお礼を口にする。
「死ぬなよ」
「お前もそんな顔をするんだな」
「このまま死なれちゃ、後味が悪すぎる」
「撃たれたのは肩だ。死にはしない」
自信満々に断言するも、血の海は現実を見せてくる。
「おい……リック…………?」
リックは大きく息をする。喉からひゅう、と嫌な音を出して地面に横たわった。
覚えのある苦しさに、どうすることもできない。重傷者なのに助けを求め、ウィルの腕にすがりつく。
ウィルは怪我をしていない手でリックの背中に手を回した。
繊細な手つきに、リックは安堵して瞼を閉じた。
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