第28話 ここから、

 文彩先輩が部室外に設けた箱を開けると、押し込められた紙たちが一気に吹き出した。

「わわわ、こんなにいっぱい」

 姫乃樹は溢れた紙を再び箱に戻す。小ぎれいな便箋や裸のままのルーズリーフ。持ち主の性格が表れたそれらは様々なかたちで投函されていた。

「……予想以上だね」

 さすがの美竹も引きつった顔をしていた。

 箱を持って部室の机に広げる。乾いた音を立てて崩れていく。

 依頼のなかには上級生によるものもあった。紙には連絡先が書いてある。そこから選んだものに連絡するという段取りになっていた。

 神楽が一枚を光に翳す。

「これ全部やるんだよね」

「ああ。受けたからにはやるしかない」

「大変だけど、それだけ期待されてるってことだよね……うん。やりがいは充分。どんな出会いがあるか、うずうずしてくるわ!」

 神楽がワイシャツの袖をまくって奮い立つ。

 スピーチが終わって一週間。一日目にはわずか数枚だった依頼が、七日目には部室の外の足音が十分ごとに聞こえるようになった。直接、文芸部を訪れる人も増えた。どうやら急ぎの要件は直に持ち込んだ方が通りやすいと思ったみたいだ。しかし、公平を期すためにそういう依頼でも投函してもらうようにお願いした。その度に対応に追われ、俺はスピーチを終えた達成感の余韻を感じる暇もなかった。

 それにしても、と思う。俺は依頼の束を見つめた。全てを処理するのにどれくらいの時間がかかるのだろうか。

 タイツ同好会が通ったのは俺たちの力によるものだ。それは紛れのない事実である。けれど一匙のビギナーズラックだってあったと思う。運命の神だか女神だか定かじゃないがその両者が微笑んだのだ。しかし、これから取り組むものは部活の申請書じゃない。勝手も分からない。どれも未体験のゾーンだ。楽な道のりではないだろう。

 でも、嬉しかった。これほど反響があるなんて思わなかった。せいぜい冷やかしか、物珍しい取り組みに感化された数人の生徒くらいしか覚悟していなかった。それがどうだろう。

 言葉の意味を誤ったせいで恥をかいた。口頭では話せるのにラインの会話だとぎこちなくなって人間関係が悪化した。彼らは真剣に悩んでいた。改めてスピーチをしてよかったと思う。多くの生徒がスピーチをちゃんと聞いていてくれた。聞いた上で見ず知らずの俺たちに託してくれたのだ。

「ま、あれだけのスピーチをすれば当然の結果だよな。――白紙だったんだろ、あの紙」

 鏡は広げられた依頼を流し読みしながら、軽口を叩く。

「タク、それホント?」

「ちげーよ。紙にはしっかり内容を書いておいた。でも話す先は目の前にいるだろう。だから紙を見るのは誠実じゃない気がしたんだ」

 鏡は顎に触れながら、

「さてな。噂によるとマイクトラブルもわざとだと聞いた。計算なんだろ」

「んなわけあるか」

 俺が鏡を軽く押すと、鏡は両手で降参のポーズをしておどける。

 マイクの電源が途中から切れていたことは終わってから気づいた。隣に座っていた七組の生徒が「いいスピーチだった」という言葉とともに、教えてくれたのだ。音量が小さくなったのは自分が萎縮したせいだと思った。それで声量を大きくした。すると魂のこもったスピーチなどと評価されて、はしなくも奏功したのだった。

 美竹、姫乃樹、神楽の三人娘は机に広げた依頼を隈なく読んでいる。

「あーもう、どれも絞れないくらい、いいわね。あっ! お姉ちゃんへの手紙なんて感動的じゃない? 感謝の気持ちを伝えたいんだって。泣ける、泣けるわ……。ウチの生意気な弟にも見習って欲しいくらいの殊勝さね」

「わたしはこっちの高校生流行語辞典がいいかもです! 辞書で口語体も読んだことないですし、最前線の言葉を集めるのは興味ありありです」

「これもなかなかユニークだよ。新しい宗教の作り方に、ウケる創作すべらない話。どこまで本気か分からないけど変わってて好みかな。それから月璃、見て」

「ん? なになに……。げっ」

「月璃はそういうの好きかなって」

「ちょっと星來からかわないでよ」

 神楽が美竹をつつく。そうやって桃色と黄色の混じったような明るいうるささの空間を遠目に、俺は鏡と共に部室の隅に退いていく。どうやら依頼を選ぶのは女子たちになりそうだ。盛り上がりは膨らみ続けていつまでも収束しそうにない。

「にしても、高階」

「なんだよ」

「あのスピーチはまるでラブレターだ」

「はっ、どこがだよ」

「どこがって、ほとんどだ。喋ってて分かんなかったのか。文彩先輩への想いが溢れすぎて、僕の方が恥ずかしかった」

 気づかなかった。そんな意識はない。俺はただ正直に話しただけだ。しかしよく考えれば、鏡のいうとおりだった。先輩の言葉を引用したり、先輩と連呼したり、先輩の関わるエピソードをあんなにも明け透けに誇らしく話していたのだ。俺は恥ずかしくなって、体温が上がるのをわずかに感じた。鏡を事前練習の練習台にしなかったのは、もしや深層心理に恥じらいがあったからかもしれなかった。

 先輩へは今でも複雑な気持ちを持っていた。好意と恐れ。恐れというのはトラウマの元凶だったからだ。二つの感情が背反しながらも心の底に流れていた。

 文章に対する恐怖心を取り除いてくれたのは感謝している。けれど、その恐怖心の核は先輩が形成したんだ。俺はいつかそのことを話さなければならないだろう。

 いつ先輩に伝えるべきか。いや、そもそも伝えるべきなのか。それをいうことでせっかく保たれている平和が壊されてしまわないだろうか。

「何してるの」

 凍てつく響きが聞こえる。

「わっ」

 俺と鏡の声はほぼ同時だった。先輩がいつの間にか鏡の隣に来ていた。

「幽霊みたいな驚き方をしないでくれる」

「すみません、先輩」

「あなたたちも部員なのだから選ばなくていいのかしら。この調子だと決まってしまいそうよ」

 三人はすっかり依頼選定に熱中している。机の上に並んでいるそれはさっきよりだいぶ数が減っている。残りは箱のなかに戻されていた。

「ご安心を。僕は既に選んでますよ」

 鏡は急に変なことをいった。

 依頼を選ぶのに参加していたわけじゃないのにどうしたものか。乗り気だったら壁に寄りかかって大儀そうな顔なんてしていないだろうに。いい加減な返答で騙せるほど文彩先輩は甘くないぜ。

「そうなの。てっきり女性陣に任せきりにするつもりかと思っていたわ。なら教えてくれる? 鏡くんと高階くんが選んだ依頼を」

「いやいや先輩、俺は選んでな」

 と、鏡はそこで俺を遮断し、

「はい。高階がラブレターを書くのがすこぶる得意って話です。なんでも中学時代は一日おきに溢れる恋心を認めていたようですよ。ですからラブレターの代筆依頼なんてどうでしょう」

「はっ、おま――」

 鏡はふざけたことを言い出した。

「なんてことをいってくれるんだ!」

 鏡の肩を揺さぶる。

 ラブレターなんて書いたことがない。それどころか手紙だって。このご時世に手紙を書くのは時代錯誤感を感じる。いや逆にそういうレトロな配慮が女子の心を擽るのだろうか。それはそうと、俺が悶々とした感情を抱えて悩んでいるのに鏡ときたら、よくもちょっかいかけられるな。

 すると神楽の地獄耳。

「タク、ラブレターが得意って」

「違うんだ。待ってくれ」

 神楽の六割引の笑顔。もしや怒ってる?

「怒ってない。アタシが怒るなんてお門違いだし、怒ってないけど……詳しく聞かせてほしいわ。なぜかって? そうね。新入部員の特性を知っておきたいだけよ」

「わたしも高階さんの恋バナ聞きたいです!」

 姫乃樹の星屑いっぱいの目。

「いや、得意なんてないんだ。そもそも書いたこともないし。だって文章苦手なんだぜ? 得意だったら文芸部に来ていない」

「ふーん。それも同情を買うための演技じゃないっていう保証はないわ」

 神楽はじっとりとした目で睨む。

「だから……。ああ、どういったら分かってくれるんだ。姫乃樹さんも、恋バナなんてもっとないです。なにせ入学して四ヶ月ですよ。いくら十六だからって、そんな盛ってませんって」

「ダウトです!  高階さんは早熟ですから」

「嘘じゃないですって。おい、鏡、お前も何かいってくれ」

 しかし、鏡は素知らぬ顔で依頼を選び始める。

「この絵本作成なんてよさそうだなー。僕は保育士さんになるのが夢なんだ」

 棒読みで心にもないことをいっている。くそ。アイツにはあとでたっぷり仕返しをしてやろう。

「ねえ、どうなの。ひょっとして裏でそういうことしてんの。いやらしい。こんな無害そうな顔して片っ端から女子をギラついた目で見てるのね」

 神楽がにじり寄る。姫乃樹も同様に。

 マズい。このままじゃ何もしていないのに、不名誉にもやらしい奴という称号を与えられてしまう。ただ、神楽は言葉を重ねても納得してくれないだろう。そういうわけで頭に血が上った神楽への対処法は一つ。逃げることのみ。

「あ、こらぁタク、待てぇ!」

 待てと言われて待つ奴に会った試しがない。走り出した俺は逃げ場を探す。二階だから窓からは逃げられない。出口は……鏡が急にポジションを部室の戸に移す。あいつめ。逃さないつもりか。部室内に隠れる場所はなく、俺はほうほうの体で部室唯一の常識人の後ろに隠れる。

「はぁはぁ……星來、そこ、どいて。タクを渡すの」

「美竹、どかなくていい。どいたら命はないぞ。俺の命だが」

 神楽と俺の狭間で、美竹は思案して、

「大女人主義」

「えっ」

「尻に敷かれる男ってこと。高階は女性で苦労しそうだね」

「そんな悠長なこといってないで助けてくれよ」

「本当は嬉しいくせに。私の出る幕はないでしょ」

 美竹は身を反らして、「お好きにどうぞ」と俺を差し出す。

 マジかよ。小説の一行目を話しているときは唯一の味方だったじゃないか。助け舟を出してくれると思ったのに。

「さぁ星來はこっちの味方よ。残念だったわね。分かったら大人しく――あ、こら」

 皆まで聞かず、俺は再び逃げ回る。と、目線の先に先輩。先輩は俺と神楽のやり取りを見ても焦る素振りなど全く見せない。俺は先輩の背後に回り込み、ピタリと止まる。

「先輩、助け」

「そういえば――ふと、思い出したのだけれど、高階くん前に私に言いかけてたことがあったわよね。とても切迫した顔で。とても重大なことを」

 このタイミングで文彩先輩はとんでもないことをいった。今いったら、そんな意図なくてもラブレターと関連付けられちゃうじゃないか。何いってんだこの先輩は天然なのか。たぶん先輩にそういう悪意はないだろう。純粋に俺が二人きりのとき言いかけていた言葉を気にかけているのだ。

 しかしそんなこととは露知らず。神楽の目つきが、瞬間、さらに鋭くなった。瞳孔が猫みたいに細くなっている。

 俺は文彩先輩と神楽に挟まれて絶体絶命だった。今度ばかりは神楽は飛びかかろうとしなかった。さすがに文彩先輩の前では分をわきまえている。でも神楽の犬歯は獲物を仕留める瞬間の輝きを放っていた。

「高階くんは私に聞きたいことがあったのかしら」

「いや、ないです。ホントに」

「高階くんの口からホントって出るときは、何かを隠しているときよ。気づかなかった? あなた、嘘をつくとき饒舌になるの」

「うっ……。そうですか? 偶然だとおもいますけど」

 俺はしらばっくれる。が、背中は汗でびちゃびちゃ。

「あったとしても、たぶん文章のことです。そのときの俺はすごく悩んでいましたから。今は平気です。もうすっきりです」

「そう。ならよかった。じゃ、どうぞ。心ゆくまでイソップ物語を続けて」

 先輩は穏やかにいって、そして美竹がそうしたように俺を差し出す。

 まさか。そんな。俺は神楽と向き合う。ゴングが鳴るまであと五秒。

「助けて」

「助けは来ないわ。覚悟しなさい」

 神楽が両手指をうねうねさせる。すんでのところで俺は躱す。

「ほらぁ! ああ、もう。往生際が悪いわね」

 さながらトムとジェリーばりのいざこざだった。

 鏡がガヤを入れてくる。

 そのままこのじゃれ合いが続けば、俺は特に気にすることはなかった。神楽や姫乃樹に対して弁解を続けて、鏡が煽って、美竹が仲裁するいつもの流れに着地するのだろう。

 しかし、俺は異変を察知した。先輩の表情の陰影が濃くなっていく。先輩の話にはまだ続きがあるようだった。

「先輩、どうかしましたか」

「高階くんから話はないといった。でも私からは伝えたいことがあるの」

 妙な言い方だった。その真意を測ろうとする前にノックの音がした。俺と神楽は大人しく一時停止。さすがに部外者に醜態は見せられない。

 姫乃樹が戸を開ける。男子がいた。見覚えがあるようで、ない。

「どちら、さまですか……」

「野沢です。タイツ同好会でお世話になった」

「野沢って……あの野沢か!」

 俺はつま先から頭のてっぺんまでを検分する。確かに声は野沢そのものだった。しかし髪型も、話し方も以前の野沢とは違っていた。

 その野沢が口を真一文字に結んでいる。

「……今日は謝りに来ました」

「謝るって、どうした。それをいうなら感謝だろ。運よく申請が通ったわけだから」

 野沢は関節が外れたくらいの勢いで頭を下げる。

「高階くん、神楽さん、部員のみなさん、すみません。騙してしまって」

 騙す? まるで意味が分からなかった。騙された覚えはない。

 それにどうしてこいつがここにいる。今日は大切な依頼を選ぶ日だ。そんな日に誰かが部員以外の奴を呼ぶはずはない。だとしたら、一体。

 可能性を挙げる間もなく、文彩先輩が隣に並んだ。顔を見合わせる。どちらが先に話すか示し合わせているようにも見える。一瞬、婚約発表かと思ったけれどそんな雰囲気ではなく、二人は気まずそうにしていた。

「高階くん、いいえ――みんな、落ち着いて聞いて。私はみんなに謝らなきゃいけない。ここにいる野沢くんは演劇部なの。つまり申請書は無効で、タイツ同好会は……解散したの」

 先輩は衝撃的なことを告げた。 

 用は済んだと言わんばかりに、野沢がそそくさと退散していく。

「えっ…………ええっ! どういうことですか」

「分かりません、先輩。全然、ついていけません。冗談ですよね」

 姫乃樹、そして鏡が声を出した。

「冗談じゃないわ。残念だけど」

 文彩先輩の言葉を直球で受け止められなかった。全員が同じ気持ちだった。あんなに苦労して作った申請書が無駄だった。だったら、あの苦労はなんだったんだ。学校内でも外でも連日考えていたんだ。嘘だろう。しかし先輩の言葉は嘘を語っているようには思えなかった。

 文彩先輩は苦々しい表情でいった。

「そう反応されるのは無理ないわね。実はタイツ同好会設立申請書を書くことは高階くんのリハビリのために考えた苦肉の策だったの」

「なぜそんなことを。そこまでやる必要あったんですか」

「それは……」

 文彩先輩は目を伏せる。

「私が高階くんのトラウマを生み出した張本人だから」

 誰かがゆっくり大きく呼吸した。部室が再び静まり返った。

 声が出なかった。

 先輩は分かっていたって……。信じられなかった。

「気づいたのは高階くんと二人になってからよ。どこかで見覚えがあった気がしたの。最初は分からなかったわ。でも毎日顔を合わせるうちに間違いでないと気づいた。交友関係は広くないから、会ったと思われる場所は限られていた。記憶を掘り返すと、小学校で止まった。そこで高階くんの面接を思い出したの。読書感想文で悪い思い出があるっていったこと。運命なんて軽々しく言いたくはないけれど、運命に思えた。高階くんに深い傷を負わせたのは私だったのだから、責任を持つべきだった。私は高階くんに酷いことをいった」

「それで嘘の申請書を出せる役者を探したっていうんですか。全部、俺のために。計算してたっていうんですか」

「そうよ。でもスピーチを破られたときは驚いたわ。完全に想定外だったから。スピーチを捨てて依頼を取ったのかと思った」

 先輩は神楽に向かっていく。

「神楽さんにも申し訳ないことをしたわ。神楽さん、ごめんなさい。謝ります。あなたの作品への評価も、あなたへ依頼した野沢くんも、対立も全部本心じゃなかった。謝って済む問題じゃないことは分かっている。高階くんのスピーチを成功させるために、嘘であってもあなたを傷つけたんだもの。下手したらあなたのトラウマをもっと悪化させていた。でも信じて欲しいの。問題を自分の力で解決して自信をつけさせる――荒療治だけど、こうでもしなきゃ高階くんへの贖罪はできなかった。時間がないなかで私にできるのはこれしかなかった」

 そこで文彩先輩はもう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。

 静寂が訪れる。物いう部員は一人もいない。

 謝罪された神楽は無反応だった。じっと文彩先輩の頭を見つめている。言葉を探しているようだった。神楽が口を開く。

「文彩先輩……いいです」

 先輩の背中がピクリと震える。

「頭を下げられても困ります」

 しかし、先輩は頭を下げたまま。

「頭を上げてください。そういってもらえただけでアタシの心は済みました。結果的にタクはトラウマを克服できたんだし私でも同じ立場なら同じこと、したと思います」

「神楽さん……」

 先輩はゆっくりと頭を上げた。

「でも」

 神楽は強くいった。

「でも約束してください。今度はそんなことしないって。みんなで協力するって」

「ええ――約束する。もう隠し事はしないわ」

 先輩は真剣な表情だった。神楽の表情がふっと緩む。

「演技でよかったです。また仲良くできるんですね」

「ええ。今までのように戻りましょう」

「先輩、聞いてもいいですか」

「なんでも」

「どうして黒タイツを選んだんですか。申請するなら手芸部でもボランティア部でもよかったはずです。あえて奇をてらわなくても私たちには難題でしたよ」

「それはね……。実のところなんでもよかった。でもただの問題だと簡単に解決されてしまう恐れがある。だから突飛な問題じゃないといけなかった。強いていうなら――」

「いうなら?」

「私がいつも履いているからかしら」

 張り詰めた緊張が途切れる。

 神楽が笑みを浮かべた。先輩がそれに返す。小さな笑いが起きた。

 修辞、論理、語彙、自体、校閲。これらの要素は部に不可欠な存在だ。でも集まっただけじゃ五十パーセントの力しか出せないだろう。重要なのは団結や信頼なのだ。二人が和解してくれたおかげで、部員同士の凝りがほぐされて、ようやく本来の力が出し切れる。

「先輩、月璃、決めちゃいませんか」

 見ると美竹が紙をまとめている。会話に入るタイミングを見計らっていたのだろう。こういう状況でも冷静さを保てるのは、ひょっとしたら文彩先輩以上の傑物なのかもしれない。

「三つまで絞りました。あとは先輩が選んでください」

「そうね。じゃあこれにしましょうか」

 そういって長い指で指さしたのは、ラブレターの代筆依頼。

「高階くんを責任者に任命します」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「待たないわ。もう充分待ったでしょ。待つのはくたびれるわ。高階くんの治療にはだいぶ時間がかかった。だから今度はあなたが率先する番。みんなを引っ張って主導してちょうだい。それにラブレターは得意と聞いたわ」

「いや違うんですって。それは鏡が勝手に」

 しかし俺の抵抗は無駄だった。美竹は仕事道具を取り出す。姫乃樹は連絡先を確認している。鏡にいたってはもうホワイトボードを並べている。

「どう? これでもやらない? 挑戦することは素晴らしいわよ」

 先輩はくすりと笑う。俺のスピーチを引用して。

 まったく――。

 せっかく一息つけたかと思ったら、また忙しない日々が帰ってくるのか。

 俺は観念して椅子に座り、それを見届けた先輩が相対する。微細な表情変化を少しは読み取れるようになったとはいえ、やっぱり考えていることは分からない。

 先輩はどこまで読んでいたのだろう。俺が豊川小学校のことを切り出したときに、先輩は自分がトラウマの原因だったと確信した。けれど、神楽と野沢が現れたのはその直後だ。確信から計画が動くのが早すぎる。とすると、前から――少なくとも俺と先輩が二人きりになってすぐに、計画を水面下で立案、実行したと考えるのが自然だ。ただ見覚えがあるという推測で、ここまでの計画を立てるのは大胆に思えた。

 先輩が神楽の文章にダメ出しをした件もある。それがあったから俺は神楽との話のきっかけを掴み、神楽は依頼に関して俺を頼ることになった。つまり先輩は俺が神楽と接触すると見抜いていたのだ。もしや同じクラスだから仲良くなれると思ったのかもしれないが、これもかなりの賭けだった。もし俺が神楽と接触しなければどうしたつもりだったのだろう。今となっては知るよしもないが、つくづく先輩はただ者じゃないと思う。

 そんなことを考えていると、姫乃樹が「わっ」と声を出してスマホを持って慌てている。

「どうしよう、月璃ちゃん。近くにいるから、今から向かうって」

「タク! ぐずぐずしてないでやるわよ」

 ま、今は先輩のことは考えないでおくか。依頼者はたくさん待っているんだ。ここでうだうだ考えている暇はない。

 さて、一肌脱いでやるか。気合いを入れて出迎えないと。

「来るわよ」

 部室の外から足音が聞こえる。

 依頼主はどんな人だろう。野沢のように濃いキャラには食傷している。かといって普通人はいささか物足りない。そう思っている自分がいる。

 果たして俺は依頼主の気持ちを汲んで、ラブレターを書けるのだろうか。

 ……まあ、心配したってどうしようもないけどな。

 なにせ、依頼主はそこまで来ているんだ。俺はただやるだけ。行動しながら考えていけばいいのさ。だってスピーチでそう伝えたのは自分自身なのだから。

 ありったけの感情を詰め込めばきっと想いは伝わるんだ。

 だから、先輩への想いはそれまでしまっておこう。部室の外の箱みたいに溢れきったときでも遅くはないだろう。そしていつの日か俺の文章力が向上して、先輩に認めてもらえる日が来たら――。

 戸が開く。小柄な女子が入り口に立っている。

 不安そうな顔。

 俺が初めて文芸部に訪れたときはこんな顔をしていたのだろうか。

 ――そのときは必ず伝える。

「ようこそ。総合文章芸術部へ」

 俺は依頼の手紙を掲げて、固く誓うのだった。

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