第19話 なぜ鏡研一郎は俺に敵愾心を持つのだろう?

 荒々しく文芸部の戸が開いたとき、鏡の息の上がり方は相当なものだった。髪の毛がボサボサでいつも嘘くさいくらい整った前髪が台無しだ。それでも顔には「間に合った」と書いてあったし、神楽を見るなり大きく一呼吸つく余裕はあったらしい。こういう光景を俺は通学電車でしばしば見かける。

「来たな」

 爽やかにいった俺を、軽やかに無視した鏡は、安っぽいロボットのような挙動でぎくしゃくと神楽の元へ向かう。俺の言葉は無情にもサイレント。

「月璃! ……大丈夫か??」

「大丈夫って何が」

「タイツ同好会のことは聞いた。この――」

 鏡は俺を見ようともせず、指を指揮棒のように何度も振って向ける。

「高階。否、馬鹿シナに無理やり協力させられてるんだろ!? こいつは最初から胡散臭い奴だと思っていたがここまでとは。こんなことなら身を挺してでも入部を止めるべきだった。月璃を、脅す、なんて!!」

 鏡は俺を睨みつける。彼はどうしてこうも早とちりなのだろう。胡散臭いなんて人聞きの悪いことを簡単にいうんじゃないよ。まるで俺が悪者じゃないか。

「違うよ。聞いて、研一郎。タクにはアタシから頼んだの」

 誤解を解こうとすると、神楽が代弁してくれた。

「……タ、ク?」

「高階」

 すると鏡がまた睨んだ。一瞬、もの凄く怖い顔になった気がした。

「ど……」

 鏡は口元まで出かけた言葉を飲み込む。それからもう一度深呼吸。

「脅されてるとかではないんだな?」

「うん。無理やり協力を頼んだのはむしろアタシの方」

「本当に……本当だな?」

「大丈夫だって。高階の顔を見てみなさいよ。人畜無害を体現した顔じゃない。心配しすぎ」

 神楽が手のひらを俺に向ける。

「……」

 ばつが悪いのか鏡は押し黙る。

 どうやら鏡は俺が神楽を脅してタイツ同好会への協力を取り付けたと勘違いしていたらしい。まったくもって失礼極まりない。どんな背景があろうともまず状況を確認するのが筋ってもんじゃないのか。ラインをしたのは俺なのだから、神楽を問い詰める必要はない。なのに、鏡は間違っていたことを一向に謝罪をする気配はない。

 神楽が「あっ」と手を叩く。

「ねぇ研一郎」

「うん?」

「来てくれたってことは協力してくれるってことだよね。そうじゃなきゃラインで済ませられるし。なんだ、アンタもいいとこあんじゃん。アタシにケチつけるだけじゃなくて」

「いや、まあ……」

 神楽が腕で小突くと、鏡は慣れていないようで口をもごもごさせる。そろそろ俺も話してもいいだろう。

「鏡、ちょうどお前の助けが必要だったところだ」

 ここぞというタイミングで発言したのに、あろうことか再び鏡は俺を睨む。こいつはいつまで続けるつもりなんだ。俺に一生喋らせない気かよ。なんなら筆談か目の前でラインしようか。神楽とは対応が雲泥の差だ。

 神楽――そういえばこいつは神楽と事あるごとに対立していた。それがどうしたことか。ラインで神楽の名前を出すだけでこの狼狽えようだ。これは深掘りが必要だ。

 そう思い至った途端。

「高階、ちょっと来い」

「断る。話があるならここですればいい」

「いいから来い!」

 鏡は強引に俺の腕を掴み、部室から連れ去った。

 連れてこられたのはラウンジだった。食事時くらいしか利用しないこのスペースは、放課後である今は人気がなくて内緒話には好都合だった。ただし、相手は残念なことに野郎だけれども。

 ようやく離された腕は少しだけ赤みを帯びていた。抵抗すれば簡単に振りほどけたけど、俺も一度くらいは腹を割って話したかった。

 鏡はスマホを机に置き、タイマーを設定した。

「五分だけ話そう」

「もっと長くても構わない」

「僕の方が構うんだ。で、いつからだ」

 鏡は窓の外を見ながら、いきなりいった。熱っぽい口調は落ち着いて淡泊になっている。やはり神楽に対して特別な感情があるようだった。

「何が」

「月璃とこそこそやってたのは」

「さあ。二、三日前くらいか十日くらいか」

 曖昧な返答に鏡は鼻を鳴らした。

「ずいぶんとはっきりしないな」

「悪いか? 俺がいつ神楽と文書作成をしていたっていいだろう。お前になんの関係があるんだ」

 つい、喧嘩腰になってしまう。鏡には仮入部当初からやられっぱなしだった。その不満が今噴出している。ちょっとくらい煽っても罰は当たらないだろう。

 鏡は俺の質問には答えなかった。ただでさえ静かなのに追加で沈黙が降りる。こいつとは話が続かないような気がした。そういうことなら本題だけを伝えるべきであろう。俺は鏡の心情を把握するのを諦めて方向転換を行った。

「鏡、俺はお前が嫌いだ。でもお前の論理はリスペクトに値する。そのことについては神楽のお墨付きだ。頭を下げるのは気が進まない。でも時間もないだろうから、一度だけいう。――助けてくれないか」

 鏡はまるで剃り残した髭を確認するように顎を触りながら、

「スピーチ……あるだろ。それを放り投げるのか」

「スピーチはなんとかする。だがこっち、同好会申請書の方が不安定なんだ。鏡、お前に力を貸してほしい」

 俺がいうと、もったいぶった間をわざとらしくクリエイトして、

「そんな義理ないね。文彩先輩からお前とはかかわるな、と前にお達しがあった。月璃はそれに反発したみたいだけど、僕はそうはいかない。分かったか。この話はもう終わりだ」

 鏡は立ち上がる。これだけ下手に出ているのにつれないなんて。

 そこで、仕掛けてみようと思った。

「そうか……。残念だな。じゃあ俺は月璃と二人でいちゃいちゃすることにするか」

「あ?」

 鏡の耳がピクリと動いた。そのときアラーム音が鳴った。鏡の設定したタイマーだ。

「どうして……どうして月璃って呼んでいるんだ」

「タイマー鳴ってるぞ。話を切り上げなくていいのか」

「それは月璃の希望か。それともお前が勝手に呼んでるだけか」

「忙しいんだろ。帰らなくていいのか。お塾の時間に遅れるぞ」

 冷静だった鏡の頬が強張る。鏡はタイマーを止める。

「お前……底意地が悪いな」

「人のこと言えるか」

 去ろうとしていた鏡がもう一度座り直す。会話を続ける意思表示だった。腰を落ち着けた鏡に、俺は昔話を話した。

「これから俺は独り言をいう。口出しは無用だ。四月某日、俺は文芸部に仮入部した。文芸部員は概ね歓迎してくれたが、ただ一人嫌悪感を露わにする奴がいた。名を鏡研一郎という。俺は考えた。鏡とは初対面だ。それなのにどうしてこんな態度を取られるのだろうか」

 鏡はずっと窓の外から目を逸らさない。しかし、しきりに顔を触っている。

「言葉を軽視しているから? 違う。人の力に依存しているから? これも違う。やる気がないから? それも違う。全部違う。俺を嫌う理由として釈然としないんだ。でも神楽との関係性に注目すると疑問はすっと溶けた」

「……」

「つまりだ鏡。お前、神楽のこと好きだろ」

 いった瞬間、鏡は勢いよく立ち上がる。顔は紅潮し、眼鏡で大きくなった目がさらに大きくなっている。黒目がてかてかでペッパー君みたいだ。

 図星のようだった。これでこそ神楽を名前呼びした甲斐があったというものだ。

「そんなんじゃない」

「まずは顔色を戻してからいったらどうだ。赤信号がつきっぱなしだぞ」

「これは――体質だ。決して月璃とは関係ない!!」

「まあ落ち着けって。だからお前はあんな態度を取ったんだな。もしかしたら邪魔されるんじゃないかって怯えていたわけだ」

 鏡は肩を落とす。ついに観念してくれた。

「…………どうして分かった」

「座る場所だよ」

「場所って」

「最初は偶然かと思ったよ。でもお前、俺がいるときは、いつも神楽の隣に座ってた。たまにじゃない。いつもだ。無意識で匿うような位置についていたんだな」

「悪いかよ!」

「いいや。好きな女子にくっつく害虫を払い落とすことを責めてるんじゃない。だがな、それで俺を攻撃するのはお門違いだと思わないか? せめて俺にそういう気持ちがあるか確認してからでも遅くないだろう」

 鏡は顔を伏せる。耳が真っ赤だ。なんだかわいいところあるじゃねーか。

 部室では俺のミスを論い揶揄してきた。それが神楽のこととなると初恋真っ只中の児童のようにうぶになる。

「中二まで月璃のことは一度だって意識しなかった。でも中三で気持ちが膨らんで、高校に入ってもっと……。おかしいよな。クソガキかと思ってたのに、だって、あいつ――急に可愛くなったんだよ! ああそうだ、認めるよ。僕は神楽が好きだ。恋なんて無縁だと思ってた。電気信号の伝達、換言するとたかがイオンの伝達だぞ。物質だぞ。それがどうだ? 僕は物質で作られた感情の奴隷に成り下がっている。おまけに文章のスタンスでも対立ときてる。反発する相手に惹かれるなんて、どうかしてるよな!」

 段々と興奮していく鏡の話を俺は黙って聞いていた。鏡の神楽に対する想いは本物だった。だからこれ以上土足で踏み込むのは得策とはいえない。鏡がイライラしているのは予期せぬ侵入者である俺への懸念のほかに、制御できない恋愛感情があったのだ。

 にしても、性格悪すぎるな俺。少し挫くつもりはあったとはいえ、こんなにも乱すつもりはなかった。悪役の時間は終わり。話していていい気分もしない。こうやって苛めるためにラウンジに着いてきたわけではないのだ。ここでの目的はただ一つ。鏡の協力を取り付けること。

「鏡、お前が協力してくれたら、俺はお前の恋路を邪魔することはない。むしろ協力してもいい」

「どうしてそんなことを。裏があるとしか思えない。僕がした仕打ちを忘れたのか」

「それはなお前の気持ちが分かるからだ。文章で対立する相手に恋愛感情を抱く気持ちが」

「それって」

 鏡ははっとして顔を上げた。しかし、俺の顔を見て言語化しない配慮をしてくれた。

「ああ。恐らくお前の想像通りだ。これでおあいこだろう」

「どうしてわざわざ僕に教えたんだ。言わなかったら誰にも気づかれなかった」

「対等に話したいからさ」

「じゃあ高階は恋愛しに来たんじゃないんだな」

 自分に言い聞かせるような声量だった。初めて侮蔑の響きなしで呼ばれた。

「俺はスピーチを書きに来た。それだけだ。――そもそも、どうして恋愛目的の入部だと思ったんだ」

「だってお前スケベそうな顔してるし」

 またか。神楽には人畜無害と言われたのに、野沢には変態感、しまいにはスケベそうときた。俺はどんな見られ方をしてるんだ。

 鏡はゆっくりと口を開く。

「ごめん……」

 素直だった。頑固な性格は一度こうと思ったら考えを曲げないというけれど、もしも曲がってしまったら今度はそれを維持する方向に働くのだ。

「俺も言い過ぎた。お互い様だよ」

「いいや。僕はガキだったよ。だから、謝罪のしるしだ。――協力する」

 待ちに待った瞬間。ようやく鏡からその言葉を引き出せた。


 部室に戻った俺たちは神楽の驚いた顔を目の当たりにした。仲良くこうして現れるとは思いもしなかったのだろう。

「どうしちゃったの。二人とも。険悪なムードで出ていったと思ったら、こんな」

「濃ーい話があったんだよ――な」

 俺は肩を組む。鏡のぎこちない笑顔。

 過程など知らぬ神楽はそれを見て、

「なんか二人とも――気色悪いね」

 心ない一言を告げるのだった。

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