第16話 予期せぬ訪問者
「ライン返信なかったから、来ちゃったけど……取り込み中だった?」
「いや、そんなことは」
俺は先輩から目を逸らし、神楽に対して返信できていなかったことを思い出す。どうやら神楽は返信を待てず来てしまったらしい。走ってきたようで、頬が上気している。
「神楽さん、約束を覚えていないの?」
先輩が咎めるような口調でいった。俺から離れる、という約束のことだろう。
「文彩先輩、ごめんなさい。約束を守れなかったことは謝ります。でも、急ぎで相談があってここに来るしかなかったんです」
「相談?」
「はい。アタシじゃないんですけど、――入って」
神楽が背後を見ると、見知らぬ男子が現れた。そのまま滑るように霜門先輩の膝元に駆け寄る。そして土下座。あまりの早業に誰も何も言えなかった。
そして、彼は大きく息を吸い込む。
「霜門先輩、助けてください!! オレに同好会の申請書をご教授ください」
可哀想になるくらい、男子は何度も頭を下げた。
先輩は男子の後頭部を見下ろす。困惑の表情を浮かべていた。そして、つかつかと神楽の元へ向かう。
「これは何……どういうこと。神楽さん、それから――」
「野沢です。野沢秀っていいます」
「何が起きているのか、説明してちょうだい」
「それが――」
神楽は唇を波打たせ、言いづらそうに話す。
神楽の話を要約するとこうだ。俺がスピーチ原稿を文芸部に頼ったことが一部生徒に知れ渡り、いつの間にか噂はいいように解釈され、文芸部はお悩み相談所の門戸を開いている……というものだった。そして、この弱々しい男子は神楽の友人の友人で、伝手を頼ってここにいる。まばたき三回の間に友だちになれる神楽の才能が今回ばかりは徒となった格好だ。昨日、神楽がラインでいっていた「困ったこと」というのはこのことを意味していたのだ。
「それで、神楽さんはどうしたいの」
「はい。部として助けたいです」
迷いなくいった。
「どうして」
「この人は切実に悩んでいます」
「この部は何をするところなのか知った上で?」
「はい。それでも、です」
神楽の決意は揺らがないようだった。
「なるほど。言い分は分かったわ。でも今はこの通りスピーチ原稿を抱えている身なのよ。そっちに取りかかったら、高階くんとの約束を反故にすることになる。――高階くんもそう思うわよね」
先輩は俺に答えを委ねた。ずるいと思った。でも、そうだ。その通りだ。たとえ二人同時にやるとしても人員は足りない。それに、さらに一人受け容れたら後続が続くとも限らない。いうべきことは決まっていた。
「神楽、悪いけど――」
「タク!」
神楽は俺ににじり寄り、人差し指で胸を突く。
「この前いってくれたよね。レトリックを褒めてくれて、文に飲み込まれるって。あの言葉にアタシは救われたんだよ。だから、試したいの。いつか日の目を浴びることを待ってないで、読まれることを待ってないで、今この瞬間、人の文のなかで役に立ちたいの! そう思わせてくれたのはタクなんだよ。だから――」
神楽は指をゆっくりと引っ込める。震える指先から本気度が伝わった。
ここまでして文彩先輩に刃向かうのは、俺の言葉のせいだった。伝えた本心が、神楽の執筆への自信を取り戻す結果に繋がっていた。神楽の勇気。そのこと自体はよかったと思う。
でも。それでも、と思う。固く目を瞑る。俺にはスピーチがあった。
もしも神楽の肩を持つと、先輩はスピーチに協力してくれなくなるかもしれない。しかし逆に先輩を優先すると神楽はきっと失望するだろう。図書館のベンチで話した内容も、上っ面の言葉に成り下がってしまう。
「高階くん、あなたはどうしたいの」
「タク!」
板挟みになっていると、男子はついに俺の足下にまで来る。
止めろよ。そんなふうにされたら――俺は。
「あとがないんです! 助けてください!!」
このときまで俺は断ろうと思っていた。スピーチの期限は残り一ヶ月。書くだけでも時間がかかるのに推敲や練習もある。しかも文章の素人が誰かを助ける? そんなの無理な話だ。
しかし、この男子が跪いているまさにこの場所は、俺が先輩に助けを求めた場所に相違なかった。俺が見ているのは過去の自分だった。それに男子が相談に来たのは、元はといえば俺の相談に端緒を発するのだから、責任の一部はあった。
でも、そんなの大した理由じゃない。最後は気持ちで押し負けた。
「神楽、分かった。どれだけ力になれるか分からないけど」
「じゃあ」
神楽の目が爛々とする。
「ああ。――文彩先輩、すみません。俺、神楽と手伝います」
「あなた、正気? 原稿はどうするの。時間がないのよ。本末転倒だわ」
「原稿もやります」
「嘘ばっかりの文章を積み重ねるの?」
「いいえ。必ず真実の言葉にしてみせます。スピーチも、この依頼も全部まとめて解決します」
いってしまった。これは訣別だった。先輩がトラウマの元凶であり、スピーチのお助け人というのは複雑な構図で、そこに先輩に対する想いも相まってめちゃくちゃだった。
だからこそ、俺は先輩から離れないといけないと感じた。そうじゃないといつまで経っても殻を破れない。独力で書かないとものにはならないと、ようやく俺は理解した。
「そう。もはや何をいっても無駄なようね。……なら部としてではなく高階くん、神楽さんが個人として協力するということで了承しましょう」
「ありが……ありがとうございます!!」
神楽は俺と目を見合わせる。
「この部室はしばらくお貸しするわ」
「言葉もありません。なんとお礼をいったらいいのか……」
男子がまた頭を下げた。
この熱意、俺にはない熱意と態度が心を動かしたのは間違いなかったけど、部室を貸してくれることまでは想像できなかった。文彩先輩も思うところがあったみたいだ。もしくは俺と神楽の勢いに気圧されたのかもしれない。先輩は拍子抜けするくらい素直に認めてくれた。
「どこへ行くんですか」
神楽が文彩先輩に向かっていう。見ると、先輩は部室から出て行こうとしていた。
「私はお邪魔だから。――帰るわ。次に戻ってくるのは全てが終わった頃かしら」
誰も口を挟まない。文彩先輩の言葉には凄みが宿っていた。
「本もパソコンも何でも使っていいわ。その代わり必ず成功させるのよ」
文彩先輩はいった。気のせいか、一瞬笑ったように見えた。
「担いだ荷物に潰されないように、ね」
そう忠告して、文彩先輩は部室を後にした。思えば先輩なりの優しさだったのかもしれない。
とびきりの気まずさを切り裂くように残された俺は男子――野沢に話しかけた。
彼がこれほどまでに熱心に設立を求める同好会とはどんなものか。興味がある。
「で、野沢とやら。アンタは何同好会を作りたいんだ」
「ああ。黒タイツ同好会だよ」
衝撃だった。
その日の夜のことだ。俺は自室の机に二組の用紙を並べる。一つは、同好会設立申請書。一つは、スピーチ原稿。
原稿はなかなか進まなかった。さっきまでは先輩から離れた方が上手く事が進むと思っていた。トラウマと恋愛感情を脇に置けたし、一人の時間の方が余計な口出しがなくて捗ったからだ。しかしながら、その考えは改めないといけないかもしれない。現に、書いていて手応えを感じられなかった。量は稼げるが空っぽの文ばかり連なっていく。すると、また神楽の文章を思い出し、比べてしまう。文を重ねれば重ねるほど空しくなる。音楽に音感があるように文章にも文感という才能がある気がする。
手が止まり、次は申請書を手に取る。意味なく光に翳してみる。
――どうして、請け負ったのだろう。
タイツ同好会なんて聞いてなかった。あんなに真剣だから、さぞ大層なものだと思ったが、とんだ変態に加担したようだ。
そのことについて神楽を問いただすと、同好会の内容までは聞いていなかったという。そんなことあるだろうか。神楽だって依頼内容がタイツだと分かっていたら請け負わなかったに決まっている。今からでもキャンセルできないだろうか。そういうと神楽は、あそこまで先輩に対峙してそれを取り下げるなんて、ダサくない? と言われてしまった。確かにそれは一理あった。しかし、するとどうだろう。俺はスピーチ原稿という全力でやるべき課題を半分の力でやり遂げ、もう半分の力で真面目に馬鹿をやらないといけないということになる。
俺は頭を掻き毟った。原稿どうしよう、と。
そこで重大なことに気づいた。なにも最高のスピーチでなくてもいいのだ。普通のスピーチを書く。可もなく不可もなしで構わない。どうして気づかなかったのだろう。文芸部というバイアスがかかって、うっかり最高のものを追求していたのだった。
別に文彩先輩に嘘ばっかりと言われようが、普通のスピーチなら少なくとも普通の人間は騙せる。生徒の行動変容を促すわけではないのだ。恥を掻かない程度に、次の瞬間には忘れられてるくらいの品質の内容を書き上げればよい。どうせ俺には無理なんだ。素晴らしい内容は作家先生に任せるとして俺は中道を歩むことにしよう。文彩先輩の期待を裏切るのは申し訳ないが、適材適所。俺はもともと文に不向きなだけ。それがどうした? それに文彩先輩はそもそも俺のトラウマの元凶だぞ。そんな人に最高のスピーチで恩返しする必要があるのだろうか。
そう考えるとだいぶ楽になった。スピーチ代表者に指名されたときから文章メンタルは大いなる飛躍を遂げたと思いたい。
それにしても文彩先輩。言葉愛好家の先輩が俺のトラウマ生産者だなんて。未だに信じたくない。
そんなことを考えていると、こくりこくりと俺は船を漕ぎ始めたのだった……………。
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