第15話 秘密
幾日が経って再び文芸部。俺はいそいそと作品作りに勤しんでいた。
今日も他の部員はいない。しかし、心のわだかまりはすでに溶けていた。俺の発言が影響していたことは否めないが、部員が来ない大きな理由は文彩先輩の指示にあったと判明したからだ。その文彩先輩はまだ来ていない。
神楽からもらった「文章の手引き」を見る。レトリック中心ではあるが、過剰に傾倒したものではなく、基本的な文章作法もまとめてあった。神楽はこんなの習得済みだろうから、ひょっとしたら俺に渡すために先輩が仕組んだのかと勘ぐってしまう。もっとも、そうだとすればこの付箋は全て剥がしているだろう。神楽は色ペンで自分の陥りやすいミスを、人に見せるほどたくましい羞恥心は持っていないからな。これは純粋な厚意だと解釈できる。
神楽のおかげで文章は日進月歩で成長していた。小学生のころのトラウマに侵される前くらいには文章作成能力が戻っていると思う。吐き気も動悸もない。レトリックを駆使して、すいすいと綺麗な文が書ける。心地よかった。
しかし、たまにはよそ見もしたくなるもので、ついスマホを見てしまう。持久力ばかりは「文章の手引き」を読んだだけじゃ身につけられそうにないのである。
気分転換を兼ねてネットニュースを眺めていると、昨日、神楽とのラインを途中で切り上げたことを思い出した。連日の作文により疲労が溜まっていてつい寝落ちしてしまったのだ。悪いことをした。確か俺が返すところで止まってしまっていた。ラインを開くと、返信を待たず追撃の未読が一件あった。
――今、部室行っていい?(午後5:05)
神楽からのラインにはそう書いてあった。驚いたのはいうまでもない。だって、文彩先輩に俺から離れるように指示されているのに、それに抗うことを意味するからだ。なんと返したらいいものか考えた。一体なぜ急にこんなことを。早くしないと神楽は来てしまう。どうすれば……。
「なにしてるの」
文彩先輩は抜群のステルス性能を駆使し、足音を消して俺の背後に佇んでいた。無情にも俺の指はスマホの画面から滑っていく。文彩先輩がスマホを摘まんでいた。
「違うんです、これは――」
「大人しく小説を書いているかと思いきや、こんなことをしてるなんて。あきれたわ」
先輩は画面を見ている。俺はスマホの背面を空しく見つめている。画面には先ほどまでの神楽とのやり取りが惜しみなく晒されているだろう。――遅かった。
「ぶ、文章の勉強なんです」
「詳しく説明してくれるかしら」
「ええと、本だけじゃ情報が足らなかったので別の人の意見を聞きたかったんです」
「なるほど。――文章をダイエットさせる?」
「そうなんです。……いや、違います。文章は足し算が神楽の考えですけど……。そんなこと書いてありましたっけ? とにかく、神楽は俺を助けてくれて――」
「どうして、神楽さんが出てくるの」
「えっ、だって」
先輩は画面を翻し、こちらに向ける。
「高階くん、何を勘違いしてるの。彦摩呂、キャベツダイエットで十キロ減量。――これネットニュースよね」
「あれ。ええと、ええと」
しまった。指が変なところに当たってさっき見ていたネットニュースが開いてしまったらしい。なんてことだ。黙っていればいいものを、俺は神楽とのやり取りをまんまと白状してしまったのだ。
「見損なったわ。……高階くん。それとも、恋愛小説を書いたせいで劣情を催したのかしら。そういうことなら、ジャンルを変えなきゃね」
「違います。……神楽とは何もなくて、ただ相談に乗ってもらっただけです」
「どうだか」
文彩先輩は冷ややかな視線を浴びせた。少しの息抜きなのにきっと不真面目に見られてしまっていた。
「俺が真面目にやってるって証拠に、ほら。これです。平行してスピーチ書いてるんです。見てください」
俺は先輩に原稿を差し出す。神楽の本のおかげで原稿は半分まで進んでいた。これで持ち時間の半分は埋められる計算だ。これで先輩に見直してもらいたかった。
文彩先輩は目を細くして原稿を見ていた。速読のできる先輩にしては時間がかかった。だからたぶん、原稿を文単位じゃなくて単語で読んでいた。粒を見るように慎重だった。「ダメね」
「どうして……ですか」
「再読はした?」
俺は首を縦に振った。
「じゃあ分かるでしょ。この原稿からはあなたが見えない。勉強を頑張る、将来の夢や自分探しは結構だけど、それは本当にあなたが考えていること? いくら文飾を施しても鎧だけ立派になるだけで、身体が貧弱なのが露呈している。つまり、レトリックのなかにあなたが埋没してるわ。これじゃレトリックを使いこなすというより、レトリックに使われてる」
先輩は原稿を机に落とす。距離の長いため息をついて、怒っているようにも失望しているようにも見えた。でも感情的に喚き散らすのではなく、俺のためを思っていることは明白だった。
俺は重力に耐えられず俯く。
「高階くん、私はね。あなたの物語が聞きたいの。スピーチ文例集じゃなくて、あなた自身の気持ちを知りたいの。聴衆だって、そうよ。判で押したような話は聞きたくないの」
「はい……。すみません」
「高階くん、こっちを見て」
俺は顔を上げた。文彩先輩の顔が眼前にあった。
「私はね。本当に期待しているのよ」
「どうして俺なんかに」
「誰にだって自分にだけしか語れない話があるの。誰でも一回は物語を書ける。私は高階くんの底力を信じてる。だから」
先輩は俺を正視する。真剣な目をしていた。
「――向き合って」
そして、腕を握ったのだ。俺はそのとき初めて腕というものがこんなに神経が張り巡らされているのだと思い知った。
俺は驚いて半歩退いた。離された腕がだらりと垂れる。
原稿がダメな理由は自分でも分かっていた。だからこそもどかしかった。学校では読む能力は教えてくれたけど、書く能力は自力でつけるしかなかった。それなのに作文はあらゆる場面で強制的であって、文を書けば書くほど理想から離れていく。試行錯誤するも、人のいうことは様々で、何が正しくて何が間違っているのか、袋小路に入ってしまう。
カラオケでうまく歌おうとするように、うまく書こうとしてしまう。一緒にカラオケに行くと友人の声に驚くことがある。こいつこんないい声してたんだ、なんて。
神楽の文章を見てそう感じた。見かけでは分からない心の声が表出していたんだ。自分でもやってみようと思った。でも、どうしたら自由に書けるのだろう。どうしたらもっと正直になれるのだろう。力が入って、固くなって、素直になれない。
黙っている俺を諦めて、先輩が席に戻るときだった。
「このままだと嘘まみれの文になってしまう」
「え、今……なんて」
「……嘘ばっかり。ってことよ」
ポツリといった文彩先輩の言葉は俺の心を抉って、記憶を掘り返した。
小学校。掲示板に残った画鋲のあと。靴の裏の小石。手汗。シャツの肌触り。あのとき、あの場所。鮮明に記憶が吹き上がる。嘘ばっかり嘘ばっかり……。
文芸部の魔物。霜門文彩。過去と現在が結びついて瞬く。
俺は一つの可能性を試したくなった。唇が震えていた。
「先輩、一つだけ教えてください。先輩はどこの小学校に通っていましたか」
「それが何か関係あるの」
「お願いします。……教えてください」
「豊川小学校。駅からすぐの急な坂の途中にある。いっても分からないでしょうけど」
俺と同じ小学校。
認めたくなかった。でも認めざるをえなかった。
俺に言葉の刃を突きつけた女の子。長い髪の女の子。
文彩先輩こそが俺のトラウマの元凶だった。
「とにかく、恋愛小説は止めましょう。これ以上の進展は望めないわ。次は――そうね。スピーチと重なるものとして私小説にしましょうか。あなたの人生を語ってみるの。誰に聞いても分かるように。お年寄りでも簡単に分かるように」
「先輩……」
俺は唇を噛んだ。先輩の言葉は俺の耳を素通りする。
文彩先輩の一言さえなかったら……。俺は――。
両手が突っ張って力がこもる。
粘り気のある怒りがお腹の底で動いていて、今にも爆発しそうだった。部室には誰もいない。制御する友人もいない。それを留めていたのはたった一つの感情だった。開けてしまえば楽になるかもしれないけれど、その蓋は頑固で病的だった。
先輩はいった。本能には逆らえないって。
俺は怒りたかった。先輩のせいで俺はトラウマが生まれた、っていってやりたかった。
でも、そんなことはできっこない。
なんだって、こんなことになるのだろう。
俺は先輩に惚れていた。
「先輩、小学生の頃――」
譫言のようにいったそのとき、戸が開いた。
神楽が立っていた。
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