第13話 神楽の想い

 水垢のついた鏡を見つめると間抜けな顔が一つ。もう一度、顔に水を浴びせる。

 ――よし、だいぶマシになった。

 ついでに気持ち程度に寝ぐせを直していくと、脳内に閃いた文彩先輩の残像が消えていく。

 川のせせらぎは放尿の音と似ている――。というのは間違っていたのだと手を洗いながら考えに至った。想像で書いた文章がいかに不正確なのか、その真実に気づくのには場違いな場所だったかもしれないけれど、俺の考えは紛れようもなくトイレにより矯正されたのだった。後で文彩先輩に俺の気づきを伝えなければ。きっと喜んでくれるだろう。

「あ」

 トイレから出ると、神楽がいた。ちょうど同じタイミングでかち合ったようだった。クラスでは顔を合わせていても簡単な挨拶しかしなかった。敵対しているでもなく、かといって友好的でもない不安定な状態だったと思う。これも全部、俺の余計な発言のせいだった。この機会に謝ろうと思った。俺の考えを伝えるのも忘れずに。

「神楽」

 呼び止めたのに、神楽はそそくさと歩いていく。

「ちょっと待ってくれって。この前のこと謝りたいんだ」

「いい。気にしてないから!」

「嘘だよ。めちゃくちゃ怒ってんじゃん」

「怒ってない。こういう口調なの!」

「なら、逃げるなよ」

「逃げてない。追われているだけ」

「相談に乗って欲しいんだ」

 神楽はさらに足を速める。放課後でよかった。俺のしていることはストーカーに近かったかもしれない。でも、謝らないでこのままずっといるのは気持ち悪かった。

「ジュース奢るから」

 ぴたりと足を止めた。そして、思い切り振り返って、自販機を指さす。

「紅茶! シュガーレス」

 といった。


 神楽は図書館外のベンチに腰掛けた。ベンチは数カ所あるのに一番目立たないところだった。さっき買った紅茶に口をつける気配はない。

「文彩先輩が部員全員にいったの。高階から離れてっていうからさ。……それで、ここに」

「先輩が? どうして」

「アタシには分からない。先輩はいつも急だから。だから部室にも行ってないでしょ。部室に行ったら高階がいるし」

 神楽は辺りを見回して、落ち着かない素振りだった。今、文彩先輩は部室にいるからよほどのことがない限り大丈夫だろう。でも、なんだって先輩はそんなことを。

「てっきり、避けられてるのかと思ってた。作品を作ってないことを責めるようなことをいったから」

「それもあるよ」

 神楽は口を尖らせた。

「やっぱり」

「だって、誰だってあんなこと言われて気を悪くしない子はいないでしょ。アタシはアタシの理由しか知らないけれど、みんなそれぞれの理由があるの。もう少し想像していってほしかった」

「悪かったよ。でも、気になったんだ。文芸部にいるのに作品を作らない理由が」

「作ってたよ。アタシは」

 神楽は飲んでいないペットボトルのキャップを指でなぞっている。

「なんだ」

「なんだ、って。アタシを口だけの女子だと思ってたの。昔読んだ小説に憧れて、恩返しをするために書いてた。――でも、もうしてない」

「どうして」

「誰も読まないから。高階だっていってたでしょ。漫画やネトフリがあるって。わざわざ文章主体の本にこだわらなくてもってさ。誰にも読まれないなら書いても意味ないでしょ」

 神楽の笑いには諦めが混じっていた。

 自分の精一杯を表現しても誰にも見向きされない。それは昔の俺に重なった。詩を書いたら笑われて、作文をしたら馬鹿にされる。試行錯誤の上でこうなのだ。神楽は馬鹿にこそされていないかもしれない、けれど、俺よりもっと悪い。最初から読まれていないのだから。その気持ちは察するに余りある。

 俺は無意識に神楽を傷つけたことを知って、後悔した。文芸しない文芸部なんていうんじゃなかった。でも今更過去は変えられない。だから、今できることをしたいと思った。

「悪かったよ。本当に……。思いやりのない言葉だった」

「もういいの。それに高階のいってることは外れてないし。現実を教えてくれた」

「――見せてよ」

 いうと、神楽は腰を浮かせた。

「えっ、何を」

「小説。誰も読まないなら、俺が読むよ」

「どうして、高階に? 急に言われても、持ってきてないし」

 神楽はリュックを身体に寄せる。

「リュック、どうしたの」

「別に……」

 分かりやすい反応だった。

「本当は持ってるんでしょ、作品。無理にとは言わないよ。でも、神楽の話を聞いて俺は読みたくなった。文章を愛する神楽がどんな作品を書くのか」

「きっと馬鹿にされる」

「しないよ。ただ読んでみたいんだ。神楽が俺の作品を見たように」

 神楽は目を閉じている。やがて決心したように、リュックを開ける。クリアホルダーを取り出して、突きつける。

「ん」

「ありがとう」

「言っとくけど、コメントはいらないからね」

 そういって神楽はそっぽを向いた。

 俺はクリアホルダーから作品を引き出す。

 十枚ほどの短編だった。

 漢字がいっぱいの冒頭が目にぶつかったときは、難解な内容だと覚悟した。でも二行、三行と読み進めていくうちにそうではないことが分かった。

 恋愛の話だった。神楽の願望だろうか。死ぬまでに沢山の恋愛を経験したいというような趣旨が書いてあった。表面的には神楽っぽいと思った。手鏡を手放さず、セブンティーンを愛読し、お菓子を広げる今風な女子。でも内容は夢想的とはいえず、ふいに現実が見え隠れして、俺が知っているどのラブコメとも違う傾向だった。

 面白い、とは異なる。すごいと思った。綺麗な文が、ただ綺麗なだけでなかった。文全体から張り裂けそうな気持ちが伝わってきた。沢山の恋愛をしたいと思う背景の心理に言及していないのに、孤独であることがこれ以上ないくらい伝わってきた。そして、自分がレトリックに偏っていることに負い目を感じていること。それでもレトリックが好きで頼りたいという気持ち。飾れば飾るほど悲しい気持ちが見えてきたのだった。明るい神楽のなかに清潔な闇が広がっているのが、心をざわつかせた。

 顔を上げると、神楽がずっとこちらを見ていたことに気づいた。目が合うと、クリアホルダーをぶんどってリュックにしまった。

「神楽、その作品……」

「いい。聞きたくない……じゃあね」

 塞いでいた耳から手を離し、神楽は立ち去ろうとしていた。

「神楽、待って」

「いいっていったんじゃん。しつこいよ」

 神楽は背を向ける。

「すごい。……すごくよかったよ」

「慰めのつもり?」

「本当だって」

「嘘。文彩先輩はそんなこといってくれなかった」

「じゃあ先輩が間違ってるよ。……上手く言えないけど、文に飲み込まれるって感覚なのかな。刺さった……違うな。沁みたが正解っていうのか。神楽がもがいてることが伝わって、とにかく、本当に、レトリックすげぇって思ったよ」

 本心を伝えた。勝手に全身で気持ちを伝えていた。お世辞をいったつもりはもちろんなかった。全力で肯定したつもりなのに、振り向いた神楽は目の端に光る粒を浮かべていた。

「ごめん! 傷つけるつもりはなかったんだ。ただ思ったままをいって――」

 俺は狼狽えた。また不用意な発言をしてしまったらしい。

「ううん、違うの」

 神楽は涙を小指の先で拭う。

「そんなに褒められたことなかった」

「本当に? でも本心だよ。神楽の心が見えた気がした」

「なにそれ、ちょっとキザっぽい」

 神楽は笑って、再びベンチに腰掛ける。気のせいかさっきより距離が近く感じた。ただの気まずさが、和やかな気まずさに進歩していた。

 不思議そうにしている俺の顔を見て、

「いいよ」

「えっ?」

「相談、あるんでしょ。――乗ったげる」

「そうだった。実は小説が伸び悩んでるんだ。文彩先輩につきっきりでいてもらっているけど、なかなか上達しなくて」

「そっか……。あっ、ちょっと待って。文彩先輩の指導ほどには役に立たないと思うけど」

 神楽は背負ったリュックから一冊の本を取り出した。あちこち付箋が飛び出していて、使い込まれた本だった。文章の手引き、と書いてある。

「よかったら使って」

「いいのか」

「書き込みとかあるから、そこはそんなに見ないで欲しいけど……」

「そうする。神楽――ありがとう」

「そんな、感謝されることじゃないし。むしろ、アタシが――」

 彼方に向かって話したせいで、その先の言葉は聞き取れなかった。

「……ん?」

「なんでもない!」

「神楽、あのさ。俺なんかがいうことじゃないけどさ、書くの止めない方がいいよ。俺、好きだよ。神楽の文、カッコよくて」

「あーもう、分かったって。言われなくてもそうするつもり。高階ってさ、言葉を積み重ねてくタイプだね。アタシと少し似ているけど、褒めすぎるのは高階の悪い癖」

 すっかり元の調子に戻った神楽はローファーで地面を擦る。アスファルトの砂がでたらめな陰影を刻んでいる。

「ねぇ、あのさ……」

「なんだ」

「タクって呼んでいい? ほら、ウチのクラス高田がいるでしょ。タカの音が被るからさ。紛らわしいじゃん」

「その通りだけど、でも高田は担任だろう」

 指摘すると、神楽は焦ったようにいった。猫背になって自分の影を目で追っている。俺とは目も合わせてくれない。ひょっとして体調が悪いのだろうか。

「それはそうだけど……文彩先輩も文彩先輩って名前で呼んでるでしょ。だったらあだ名でも不自然じゃないよね。アタシも月璃でいいからさ。神楽も月璃も名前っぽいからどっちでもいいんだ。別に、ダメなら、いいけど……さ」

「いいけど」

「じゃあ、決まりっ――さて、と」

 スカートを微調整して神楽は立ち上がる。

「アタシ、そろそろ帰るね。弟が家で待ってるし」

「おう、了解」

 俺は神楽の後ろ姿を見送った。三歩ほど進んでまた振り返る。そして、元気よく手を振っている。俺はどうしていいか分からず、腰の辺りで手を浮かせる。

「たかな……ううん。タク!」

「なんだ?」

「あれ、本当は、アタシの初めてだから。だから――読んでくれてありがと。それだけ!」

 神楽は今日一番の笑顔を咲かせた。影のある神楽は珍しくてそれゆえ儚さを感じた。でもその儚さを可愛いとか美しいと思うのは、ネガティブな感情を引き出したいと思うのと変わらない。だから俺は神楽の儚さを見たいとは思わない。やっぱり神楽には笑顔が似合っているのだから。

 

 それから神楽からラインがきた。部員には教えていないから初めて交換したことになる。どうやら人づてに連絡先を聞いたらしかった。神楽は部で決まったことや文彩先輩が何かいっていたら教えてくれるとのことだった。素直に嬉しかった。

 部室に一人で戻った俺は文彩先輩にこっぴどく叱られた。やる気があるのか、こんなに長いトイレはない、サボってる……。俺は小さく背中を丸め縮こまって反省した。五月の折り返し地点。スピーチまであと一ヶ月半。のんびりとはしていられない。

 家に帰り、俺は机に向かった。シャーペンを持ち、スピーチ原稿を考えた。とりあえず一行書いてみた。

 そこで不思議なことが起きた。

 吐き気がない……。文を書くときだけに起きるあの症状。散々悩まされていたのに、完全に消失していたのだ。

 俺は喜び勇み、ペンを走らせた。

 勉強を頑張る。国語は苦手だから、それ以外。消去法で理科系か。化学の勉強を頑張ると書いた。嘘はついていない。勉強を頑張ることは高校に入学した以上、当然のことだ。

 でも、何か違った。消しゴムを取って、俺は文字を消した。

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