第12話 遠回りの理由

「違う」文彩先輩が厳しくいった。

「こうですか?」俺は書き直し、「こっちならどうでしょう」

「さっきのがよかったわ。やり直し。なんでわざわざ難しい言葉を使うのかしら。姫乃樹さんもいっていたでしょ。等身大の言葉を使いましょう、って」

「これでも伝わると思いますけど」

「合っているならね。でも、この場合は間違っているわ。高階くんはまず、正しい言葉を使わないと。――オリジナリティはそれからよ」

 長机には上質紙が積み重ねられていく。文彩先輩にボツにされた紙の束だ。

 先輩はスピーチ原稿には取り組ませてくれなかった。関係のないはずの小説を書かせた。俺はそれに無抵抗に従っていた。それはなぜか。これ以上部員たちを敵に回したくなかったのだ。

 部員たちとぎこちない距離が横たわって、五月は二週目に突入していた。スピーチまであと一ヶ月半。決して充分な期間とはいえない。それなのに先輩さえ失ったらいよいよ後がない状況である。

 あれ以来、部員たちは部室に来ていなかった。今日も引き続き文彩先輩と二人きりだ。幸か不幸かマンツーマン指導になっている。今も文章を書いては消しを繰り返している最中だ。そのせいで右手小指の側面は真っ黒である。加えて、腱鞘炎気味かもしれない。

 にしても――。どうしてこの先輩はこんなに硬いのだろう。なんか自分に制約を課しているのか。

「先輩」俺はいった。

「なに」

「あの、怒らないで聞いてほしいんですけど……先輩ってお笑いとか見ます」

「どうして」

「いや、どうして……」それをいわれると俺も困った。先輩が無表情すぎるから、とはいえっこない。「なんとなく……ただの雑談です。昨日のお笑い番組見たかなって。めっちゃ面白かったんですよ」

 先輩は黙って俺を凝視していた。

「すみません……忘れてください」俺はいった。「あ、でも別の話ですが……なんで他の人は来ないんですか。神楽とか教室以外では会っていませんよ」

「あなたが気にすることではないわ」

「もしかして、この間の俺の質問に関係してますか。なら、謝り――」

「そんなこと気にしてる余裕はないでしょ。高階くんは他に集中すべきことがある」

 文彩先輩は原稿を指さす。赤ペンで訂正された箇所が複数あった。

 そりゃ、言い方は悪かったと思う。でも、文芸しない文芸部はやっぱりおかしい。それは存在意義にかかわるだろう。謝るつもりはあったけれど、考えを取り下げる気はなかった。まあ、この場にいないならどうしようもないけど。

 俺は小説を書き進めた。それにしても、なぜ文彩先輩は小説を書くことに固執するのだろう。

「一つ聞いていいですか」

「原稿のことなら」

 先輩は手許の分厚い本を読みながら、そっけなくいった。

「どうして小説を書かせるんですか。俺はスピーチを書きに来たんです」

「それはこの間もいったはずでしょ。スピーチには――」

「ストーリーが必要なんですよね。それは分かります。でも、それなら読むので充分じゃないんですか。ストーリーを学ぶなら簡単な小説、いや漫画でもいいはずです。少しくらいの長文なら読んでも吐き気はしなくなりました。だったら」

「あなたはまた受け身なことをいっているのね。読むのと書くのじゃ全然違うのよ。読んでても書けない。――書かなきゃ書けないの」

「なんで断言できるんですか」

 先輩は答えず、また読書に戻った。

 俺もそれ以上追求しなかった。しても先輩からは何も引き出せないだろう。だんまりを決め込んだ先輩は無敵だ。

「戦争」

「えっ?」

「私が戦争を起こそうと思ったら畑から耕すわ」

 先輩は急に物騒なことをいった。なんの脈絡もない発言だった。意図が分からない。でも先輩はお構いなしで話し続けた。

「衣食住を確保して、教育を充実させて、そして兵士を作る」

「ど、どういうことですか? ついていけません」

 俺は面食らった。

「何を悠長なことを、とあなたは思うでしょう。でも私は間に合わせの兵士よりも、生まれつきの兵士を作るべきだと思うの。もちろんそんなこと実際にはしないけれど」

「何が言いたいんですか」

「つまりね、効率だけの世の中って寂しくないかしら? ってこと。何でもかんでも効率化していいのかしら。直接的にスピーチを書いて、良い結果を残せるのかしら。小説のストーリーを経由することでスピーチに膨らみを持たせることができると思うの」

 文彩先輩のいっていることがようやく分かった。急ごしらえの兵士より、生まれた瞬間から衣食住や教育を戦闘用に最適化した兵士を作った方が、より強靱だと言いたいのだろう。そこから発展して、文彩先輩はいきなりスピーチにいくのではなく、まずは小説で訓練をすべきという考え方を伝えたいのだ。それにしても説明に戦争を持ち出すなんて。遠回りな言い方だと思った。それに、伝わらないたとえだとも思った。こんなこと、文彩先輩に言えないけど。

「去年の例を見る?」

 先輩は読んでいた本を閉じて棚に差しこんだ。戦争論というタイトルが目に入る。それで戦争の話を持ち出したと納得した。

 それから、指を背表紙に触れながら何かを探す。すぐに指がとまった。棚からファイルを取り出し、表面をさっと撫でると細かな埃が舞った。ファイルを開く。

「これ……」俺は驚いた。そこには過去のスピーチ全文が収められていた。

「こんなのあったんですね。知らなかった。……先生も教えてくれなかったです」

「知らないはずよ。公式の文集はないわ。これは私が書き起こしたの」

「どうやってですか」

「これよ」

 胸ポケットからICレコーダーを取り出す。

「どうしてそんなことを」

「さあ。魔が差したのかしら――読んでみる?」

 俺はファイルを受け取った。過去のテーマは「大切なもの」、「多様性」など様々だった。正直、高を括っていた。生徒の発表なのだから大したことがないと。

 しかし、その予想は覆された。完成度が高かった。平易な言葉で伝えたいことがはっきりと分かった。ストーリーがあって、感情を巻き込んだ。打ちのめされそうだった。

「これ、すごいです。……本当に生徒が書いたんですか。先生の手も入ってますよね。じゃなきゃ、ちょっと信じられないです」

 俺は素直に驚いて、感想を伝えた。しかし、先輩の返答はさらに驚くべきものだった。

「それ? 今高階くんが読んでいるのは最下位のよ」

「最下位!? 何かの間違いじゃないですか。こんなにいい内容なのに」

「内容は並ね。しかも身振り手振りが大げさで聴衆は白けていたわ。その人――同級生の男の子はあだ名がつけられた」

 俺は唾を飲み込んだ。

「なんていうあだ名ですか」

「偽ジョブズ。もちろん、かの有名なスティーブジョブズに由来してる。タイミングも悪く、半袖のワイシャツがシンプルを好むジョブズをさらに連想させたわ。彼は今も偽ジョブズのあだ名から逃れられない。可哀想よね」

 先輩は哀調を帯びた口ぶりだった。

「他にもこんな人がいたわ。『私が伝えたいことは十個あります』とか明らかな容量オーバーの人。それから、自慢話をする人。早口な人。誰もスピーチがなんたるかを分かっていない。不思議なもので、欠点はみんな忘れないの。素晴らしい内容はわずかしか覚えていないのにね。私達の代は失敗と成功が極端に分かれていた。これは、聞いていた上級生の意見よ」

「上級生!?」

 耳を疑った。

「あら、知らなかったの。一年生のスピーチは全校生徒が集まるのよ」

「文彩先輩も聞くんですか」

「ええ。もちろん」

 俺は倒れそうになった。身震いがした。スピーチ失敗者の末路は惨憺たるものだったし、スピーチに全校生徒が集まるなんて聞いてない。一年の発表なのに何で全校で聞くんだよ。そこで気づいた。一年生限定、というのは発表が一年生だけということだ。

 くそぅ……。俺は怒りたかった。でも、怒りの矛先はなかったのだ。

「どう? これでもまだストーリーをおろそかにする?」

 先輩の発言は俺にとどめを刺すのに充分だった。

 だから、大人しく小説のストーリー作りに専念すべきだった。幸い、先輩に渡されていた三幕構成の本が役立っていたからか、形にはなっていた。満足させることはできないし、突き返されてばかりだけど、進展はあったのだ。

 でも、俺は小説に取り組めなかった。

 少なくとも頭を冷やす必要があった。

 なぜか。

「どうしたの?」

 先輩が小首を傾げる。

 先輩はブレザーの肩に乗った埃に気づいていない。放課後の疲れ切った光が先輩の肩に寄りかかる。俺はその埃を取りたかった。でも、できない。親密な関係ではないというのももちろん。上級生と下級生という関係ももちろん。だがしかし、それ以上の理由があった。

 灰色の埃が色めいている。先輩の美しさは埃さえ美しくした。俺はそれを留めておきたい衝動に駆られたのだった。先輩の美しさを永遠に凍結させておきたい気持ちになった。

「何、見てるの?」

 つまり、何が言いたいかというと……。

「なんでもないです。――すみません。トイレ、行ってきます」

 先輩が無駄に綺麗なせいで、集中できないのである!

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