第9話 文章童貞
「では面接を始めます」
文彩先輩が厳かに宣言すると、そこは面接会場に様変わりした。俺はパイプ椅子に浅く腰掛け、先輩と正対する。
落ち着け……俺。落ち着け。
俺は深呼吸して平静を装った。
けれど先輩の真剣な表情を見て、自然、膝上の拳が固くなる。先輩の前には長机があるけど、俺にはない。距離を二メートルほど取られ、ボディーランゲージを隠す遮蔽物がないのは、喋っても喋らなくても自分の考えていることを見透かされそうで怖かった。
先輩の両翼には部員たちが座っていた。俺から向かって左に美竹、姫乃樹、先輩、神楽、鏡の順に座っている。不思議なことに、俺だけでなく他の部員もいささか緊張しているように見えた。俺の面接なのにどうしてそんなに顔が強張っているのだろう。文彩先輩の雰囲気に気圧されているのか。特に姫乃樹。おろおろと落ち着かない様子だ。
文彩先輩がノートを開く。そこには質問事項が書いてあるのだろう。果たして、どのようなことを聞かれるのだろうか。
「ええと、先輩」
「なにかしら」
「なんか裁判みたい……ですね。緊張します。やめることはできないですか。ほら、もっと和やかにやりませんか」
文彩先輩が話し始める前に、俺が先んじた。緊張を少しでも和らげようと冗談をいったつもりだった。だが先輩は俺に目を合わさず、ノートを見ている。
「やめないわ。大事なことだから」
「でも、もう少し、こう……。柔らかい感じでしていただけると、その、嬉しいです」
「前例を破るのはそう簡単じゃないのよ」
先輩のいうままにするしかなかった。どうせそこまで時間はかからないだろう。これがこの文芸部特有の儀式なのだ。郷に入っては郷に従う。基本的なことだ。それを守る度量くらい俺にだってあるさ。
「さて、高階くん。あなたはなぜこの部を志望したのですか」
「さっきいった通りです」
「これは確認なの。質問に答えてください」
「ええと、スピーチ原稿の作成を助けてもらうためです」
俺は答えた。真意は分からなかったがそうすべきだと思った。文彩先輩に口答えしてはならない。せっかく、協力を取り付けたのに機嫌を損ねるような真似はできないのだ。
どうも文彩先輩は形式を重んじる人らしかった。それは言葉遣いからもなんとなく察せられた。
「なるほど、分かりました。次――」文彩先輩はノートに何かを書き留めた。「本は読みますか?」
「読みません」
「少しも?」
「はい。教科書を除いては」
「娯楽は嗜まない主義?」
「いえ、そういうわけでは。アニメとか映画は観ます。ゲームもそれなりに。あと漫画も読みます。これって本に含みますかね」
「それはどうして。どうしてアニメや映画を観るの」
「……どうして? さあ話題性とか人気とか、楽しいからだと思います」
そう聞かれるとは思わなかった。アニメや映画を観るのに理由なんてない。いや、あるのかもしれないが哲学的な深い理由はない。せいぜい楽しさを得るため、会話のネタになるか、暇潰しとしての役割くらいだ。
「自分でもはっきり特定できない?」
「そうですね。理由があるなら知りたいくらいです」
「人はいつだって物語を求めているの。五秒間のCMでも長い長い人生のなかでも。連綿と続く古来から変わらないのかしら」
「どういうことでしょう」
「言葉通りよ。本題に戻るけれど高階くんは、本は読まないけど、物語はちゃんと求めている。この質問の意図は、その確認がしたかっただけ」
「物語を求めてる……そうなりますかね」
「ええ、そうよ。だから、あなたも本質的には私達と変わらない。人は本能からは逃れられないのね」文彩先輩はいった。
どうも俺と文彩先輩とでは温度差を感じた。文彩先輩はやたら見識ぶっているし、衒学的なところがある。物語を求める点に関して言えば、もしかしたら俺個人に当てはまる特性を、人全体に主語を拡張しているのも気になる。きっとスピーチの一件がなければ、一生関わらない人種だと思った。言葉で殴ってくる人間は、苦手だ。
「文字は疲れるんです。意識して読まないといけないし。単調で、絵がないですよね。それに本には代用があります。本がなくてもゲームがありますし、YouTubeとかネトフリとか、あぁ、コンビニに行けばジャンプで見れるし――」
「見られる」
なぜか話してもいない鏡が急に横やりを入れてきた。性格の悪い野郎。鏡の印象が好転するのは今後無理だろう。
「言葉は正確に、な」
な、がウザすぎて、俺も反発したくなった。
「そんな重箱のカドをつつくような――」
「重箱の隅」
「ひょっとして友だち少ないだろ」
「文章童貞」
「ちょっと研一郎」
神楽は制したが、鏡は止まらなかった。
「本を読まないなら文が苦手なのも当たり前だ。お前は状況に甘んじてる」
俺はムスッとした。んなこと言われなくても分かっている。分かった上で助けを請うているのだ。
文彩先輩が鏡を見た。それで鏡は口を閉じた。ざまあみろ、といいたかった。ようやく、話を本筋に戻せる。
「とにかくわざわざ本を読む必要はないのかなって。もちろん、読んだ方がいいとは思いますけど」
話し終えると変な間ができた。
「なるほど」文彩先輩はまたペンを走らせた。「本に関する考え方は分かったわ。では、次。あなたが文章を苦手と思うようになったきっかけを教えてください」
漢文の素読のようにただ質問事項を読んでいるような響きだった。
――来た、と思った。間違いなく小学校の頃の女の子が原因なのは分かっていた。でもそれをいうべきか考えてしまう。なぜならこの部に入ってまだ二時間しか入っていないのだ。心の奥のトラウマをこの関係性でいう踏ん切りがつかなかった。しかも文彩先輩に打ち明けるということは、漏れなく他の部員たちにも知られてしまうということだ。女性陣はともかく、鏡にはこれ以上弱みを見せたくなかった。不要なカミングアウトだと思った。
考えた末、登場人物の心情を読み取るのが……云々をきっかけとして挙げた。ああ、そうなんだと納得されやすい理由だと思う。俺がいつも使う便利な言い訳だ。
「そう」
文彩先輩はそれ以上何も言わなかった。ただ、俺の目を見ていた。俺はその偽りのない視線を直視できなかった。
「理由としては薄い気がするけれど、まあいいわ」
文彩先輩はペンでノートを三回叩いて、いった。
よかった。バレなかったようだ。
その後、簡単な質問を交わし十分ほど経った。どこが山場かは分からなかったが、正直には答えられたと思いたい。文彩先輩はずっと鉄仮面をつけているようだった。こんなに一つの表情を保つのって、きっと疲れる。ふと、思った。この人、お笑いとか見るのだろうか。
「最後の質問よ」文彩先輩はいった。
「あなたは言葉が好きですか」
「言葉は伝わればいいと思います」
「好きか嫌いで」
「ええと、好きか嫌いだったら好きかと思います。嫌いといったら言葉のない社会で暮らすということでしょうか。それはちょっと想像できませんからね。言葉は手放せません」
文彩先輩がノートから顔を上げた。目の奥が光ったように見えた。
「面白い考え方」
微風のような声で呟いた。
「どこがですか」
「あなたがいっているのは言葉のない世界が言葉のある世界より劣っているかというテーマに通ずるわ。動物の世界が人の世界より劣っているのかという意味において、私を問うてるのかと思って」
文彩先輩はふっと息を吐いて、ペンを置いた。彼方を見つめ、それからまた沈黙した。終始、文彩先輩のペースだった。
ええと、何を考えているのだろう。
すると文彩先輩は思い出したかのように、
「これで面接は終わりよ。お疲れ様」
「合格ですか」
「合格? 何をいっているのかしら。さっきもいったけれど、これはあなたの立ち位置を確認するための方法なのだから、合格も不合格ないわ」
最後までよく分からない面接だった。でもやっと終わったらしい。
さて、これでいよいよスピーチ原稿の時間だ。ちゃちゃっと片付けてもらって、文章とはおさらばしないとな。
立ち上がろうとすると文彩先輩が止める。
「待って」
「はい」
「高階くん、あなたに宿題を出します」
「えっ宿題ですか」
心臓が跳ねた。大変なことが起きようとしている。そんな予感がした。
「そう。今の面接でおおよそのことは分かったわ。あなたはやるべきことがたくさんある。高階くんに最も適しているのは、そうね……日記かしら」
「日記?」
「ええ」
目を見開いた俺に向かって、先輩は当たり前のようにいった。
「か、書くんですか」
「書くの」
「誰がですか……」
「あなたに決まっているでしょう」
「高校一年ですよ」
「年は関係ないわ」
俺は愕然とした。あんなに苦手なのに、文を書くことになるなんて。書かないようにするために文芸部に来たのにどうしてこうなった。さっき協力してくれるっていったじゃないか。協力っていったら全部内容を考えてくれることだろ。話が違う。それに日記なんて、スピーチと無関係だ。どこがどう役立つというのだ。……あぁ、吐き気がしてきた。
「先輩は協力してくれると言いました。それって内容を考えてくれるってことですよね。じゃあ、なんで俺は文を書く必要があるんですか。それも日記なんて」
「内容……。そんなこと請け負ったつもりはないわ。請け負ったのはあなたが歩けるようになる訓練よ。文章のリハビリ。私は歩き方を教えられても、あなたの代わりに歩くことはできない。歩くのはあなたなのだから」
先輩はいった。
俺は項垂れた。目の前に机があったら叩いていたと思う。
――やられた。やられてしまった。
約束が違うとは思ったが、詰めが甘い自分にも責任があった。きっと今更、仮入部の紙を取り下げるなんてできないだろう。だって、さっき書いた紙はもう見当たらないのだから。数分前にはあったはずなのに、どこかにしまわれている。仕事が早い。
「……分かりました。できるだけやってみます」
「まだあるわ」
「まだ……ですか」
俺がいうと、文彩先輩は隣の姫乃樹に耳打ちした。
姫乃樹は文彩先輩の使命を受けて、本棚に向かう。二、三冊の本を見繕って俺に渡した。見た目以上の本の重さがのしかかる。
「あっ、重いですよ。気をつけてくださいね」
一番上の表紙には、分かりやすい文章を書く五十の技術、とある。
五十も……。なんで十個じゃないんだよ。そして随分と分厚い。これを読めということに決まっていた。頭の中で計算する。かかって三ヶ月くらいか。
「これ。今週中に目を通しておくこと」
「今週……!? これ、全部ですか」
俺は驚いた。絶望的だ。常軌を逸していた。
しかし、俺の怨嗟の声を文彩先輩はさらりと受け流す。
「これはほんの一部よ。あなたに必要なのはまだたくさんある。長い戦いになるわ」
先輩は本棚を眺める。
ダメだ。目眩がしてきた。
「そんな……。スピーチは六月なんですよ」
「そうよ。だから、すべてはあなた次第よ。笑われないように、なるべく早く歩けるようにならなきゃね」
文彩先輩は微笑む。
霜門文彩。文芸部の魔物。噂通りの存在だった。
今日だけで体重が三キロは減ったと思う。
――劉、お前のいっていたことは本当だったぞ。
俺は心のなかでそう嘆いた。
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