第7話 文芸部の魔物、あるいは霜門文彩
――はぁ。
昼のラウンジでお弁当箱を開け、おかずたちを機械的に口へ運ぶ。味はしないけど、勝手におかずが消えていく。
――どうしてだろう。不思議だなぁ。
「おい高階」
あの恥をまたかかなければいけないのか……。大勢に見られて笑われなければいけないのか……。俺はどうしたらいいんだ…………。
「高階大丈夫か?」
視界が揺れる。見ると、劉が俺の腕を肩を揺すっていた。どうやら自分の世界に入ってしまっていたらしかった。
「あ、ああ」掠れた声で返事をする。
「三回は呼んだぞ」
「あ、ああごめん」取り繕うように俺は笑った。「ちょっとこのヨーグルト酸味が強くて――」
劉は目をぎょろりとさせて、「ヨーグルト? おまえ、それどう見てもマヨネーズだろ」
箸先には確かにマヨネーズがついていた。これはかなりメンタルに来てるようだ。
「そうだった。マヨネーズマヨネーズ……。マヨネーズを食べてるんだった」
「いや、それも充分おかしいぞ。……マジで大丈夫か」
「その……」俺は考えて、「少し疲れてるんだ。ほら入学して色々あっただろ。環境が変わって体が追いついてないのかもしれない。心配かけて悪いな」
俺はティッシュで唇を拭い、マヨネーズの残滓を取り払った。気を取り直して、ブロッコリーを口に運んだ。しかし、劉は信用することなく「ううん」と首を横に振った。
「やっぱり大丈夫じゃないよ、高階は」
「どうして? 俺は大丈夫だよ。ほらこの通り!」咀嚼しながら、いった。
「声、震えてるし。それに」
「それに?」
「バラン食べてるし」
俺は緑のペラペラした仕切りを吹き出した。どうりで口の中が痛いと思った。
「マジでどうしたの」劉は心配そうな目をしていた。
「…………実はさ、スピーチ選ばれちゃって」
本当は言いたくなかったけど、それは口からするりと流れ出てしまった。
「あぁ……お気の毒。それでそんなに参ってるわけか」
「昔っから文章が苦手なのに選ばれちゃって」
「分かるよ。その気持ち」
劉は首が外れるんじゃないかと思うくらい何回も頷き、共感的な態度を示した。
劉と知り合ったのは入学式のときだった。一人で心細かった俺に話しかけてくれたのが他ならぬ彼だった。残念ながらクラスは一緒になれなかったけれど、単位制の高校だから選んだ授業が重なる機会が多く、こうして昼食も取れる。
「俺だって文章苦手だからなー」劉がいった。
「本当に」
「ああ、書いてて小学生の感想文みたいに思う。もう高校生になったのに一向に成長しない。時間が経てば大人な文なんて書けると思ってたんだけどな……」
「劉もそう思うんだ」
「まあな」劉は恥ずかしそうに頭を掻いた。「俺に限らず大抵、そうだと思うぞ。文章が得意な子なんて見たことがない。でも、こんなことが聞きたいんじゃないんだよな高階は」
「へ?」
「すまんすまん。自分語りになってしまった」
劉は箸を置いた。弁当を食べ終わっていた。
「相談なら俺に任せておけ」
「ははぁ」俺は気のない返事をした。
「なんだ信用してない顔だな。心外だぞ。割といい案が閃いたんだが」
「どんな案だよ」
あまり期待せず聞いてみる。
「それはなぁ…………文章が得意な子に相談する」
「劉にしてはずいぶん普通の発想だ。でも、そんな奴どこにいるんだよ。まさか、友だち伝いに聞くとかか、一人一人尋ね歩くんじゃないのか」
「勘が悪いな。文芸部だよ、文芸部」
文芸部。確かに名案だった。文芸部なら常日頃より文を書き慣れているはずだ。望むものは自発的な創作ではないけれど、もしかしたら力になってくれるかもしれない。
しかし、ふと気になることがあった。
「この学校、文芸部なんてあったか。このあいだの部活紹介には来ていなかったと思うけど」
先日体育館で行われた新入生への部活紹介イベントに文芸部はいなかったと思う。さすがに、四月頭のイベントを忘れてしまうほど記憶力が衰えているとは信じたくないが。
「そうだっけ。俺はバスケ部に入るからそこまで気にしてなかったな。だったら、お前がいう通り、そのときは文芸部はいなかったかもしれない。でも噂で文芸部の存在は聞きまくった。だから間違いない」
噂で? なんか妙な表現。これは劉の言語センスなのだろうか。とにかく文芸部があるなら話は早い。わざわざ達者な文章の書き手を探す手間が省ける。
「なら俺、文芸部に行ってみるよ」
「まあ待て」劉は俺を呼び止めて、「文芸部の噂、お前も聞いたことないか」
「噂って」俺は訊いた。
「知らないのか? 文芸部の魔物の話だよ。二年の霜門文彩先輩」
「しも……、誰それ? 聞いたこともないよ」
「じゃあ、教えてやる。これは知り合いの知り合いに聞いたんだけどな」
劉はひそひそと話し始めた。
「ある女子がいた。その女子は本が好きで、もともと文芸部に入ろうと思ってたんだ。勧誘のチラシや学内の掲示は一つも見当たらないけど、文芸部の情報は知っていた。学校のホームページで紹介されているからな。それで部室を部室棟で見つける」
「その女子が魔物?」
「落ち着けって……。話はこれからなんだから。文芸部の部室をノックしようとしたら、中から異質な声が聞こえた。そこで引き下がればよかった。でもその女子は戸を開いてしまった。怖かったから音も立てずに開けたみたいだ」
劉は怪談話のように語った。
「するとそこにはまた別の女子が座っていた。本を開いて泣いていたんだ」
「感動してただけだろ。何もおかしくない」
「普通そう思うよな。でも彼女は謝ってんだ。ごめんね、ごめんね……って」
「本に? 理解できない」
「俺だってそうだよ。それで続きなんだけど、座っていた女子は部室への侵入者に気づいたようだ。入部希望の方は勝手に入ってしまったことを詫びて、この部室に来た目的を伝えた。『入部希望です』って。そしたらなんて返ってきたと思う」
「ようこそ、みたいな」
「違うね。答えは『この部はスカウト制なの』、だって。スカウト制って野球かよ。そんなの許されるのかよ」
劉はまるで自分のことのように憤慨した。
「そういうことか。劉がいう魔物の意味が分かったよ」
「他にも、中学のとき図書室の本を全部読破したとか、熱が三十九度あっても本は手放さなかったとか、本を読み切ってしまったから着ていた制服の洗濯表示を読み潰すなんて、色んな噂がある」
「尾ひれはついていそうだ」
「まあな。でも全否定もできない。なにせその後クラスの子の涙は三日三晩続いたからな」
「盛っただろ」
「どうだか」劉は笑った。
手放しで信じることはできないが、スカウト制を信じるならば新入生への部活紹介の場に登場しなかったのも合点がいく。霜門文彩――噂が流れるほど強烈な存在。ここでようやく劉が噂で文芸部の存在を知ったことの意味が分かった。その霜門文彩という先輩は要注意だ。俺は脳に刻みこんだ。
劉は「とにかく」とオーバーアクションで両手を広げる。
「そんな魔物の住処にお前は手ぶらで行く」
「じゃあやっぱ止めようかな」
「でも一見の価値はある」
「どうして」
「だってそれだけ本ひいては文とか言葉が好きってことなんだろ。それなら素晴らしい文章が書けて当然だ。こだわりの歪んだ形なのかもな」
「確かに、じゃあ――」
「逆に相談しないっていう手もある」
はっきりしなさすぎて、俺は笑い出しそうになった。
「結局、俺はどうしたらいいの」
「何もしないのもいいかもしれない」
「はあ」俺はため息交じりにいった。「それマジでいってる?」
「このままあえて何もしない。するとどうなる」
「さあな。怒られるとか」
「だろ? その先は? 考えてみろ……。このスピーチ大会は各クラスの代表者で競わせる。そしてそのクラスを受け持っているのは担任だ。つまり――」
担任、それがどうした? と問いかけようとして、あっ、と声が出た。
これはガチでいい案かもしれない。
劉は悪戯っぽくニヤリと笑った。
「分かったか。これは代理戦争だ。担任同士の戦いの代理が生徒たちなんだよ。担任だって自分の評判に傷がつくのは避けたいだろう。そこを逆手に取る」
「劉、頭良いな。あえて何もしないで焦った担任の助けを待つ」
「運動馬鹿だと思ったか。スポーツには戦略と戦術が必要なんだよ」
「じゃあ、なにもしないことにする。劉、ありがとう。相談してよかったよ」
切り上げようとした俺に、
「でもデメリットがある」劉はいった。「担任に助けてもらったら、今度は逆にお前自身の評判に傷がつく。高校一年にもなって自力で文章を書けないなんて、夏休みの宿題を親にやってもらうのと同じくらい恥ずかしいことだろ」
「それ、劉の偏見も多分に入ってる」
「一般論だよ一般論。俺だって文章苦手っていっただろ」劉は弁解した。「とにかく、どうするかはお前が決めることだ。選ぶも選ばないもあなた次第、ってな」
そういって劉は話を締めくくった。いつも通り劉は俺を揺さぶって揺さぶって、複数の選択肢を与えた。
順番的に俺が何かいうべきだった。でもどうするべきか決断できなかった。先輩に相談するべきか、しないべきか。担任に縋り付くべきか、しないべきか。そんな困惑した思いが表情に出ていたはずなのに、話し足りないのか劉は再び口を開く。
「不思議だよな。書く前は書けると思うんだよな。日本語なんて常に話してるし、一億三千万人が使ってる。思っていることをそのまま書き写せばいいって。なんでそんな簡単なことができないんだろうな」
劉は独り言のようにいった。
そんなときチャイムが鳴った。
「いけねぇ、高階。俺、次体育だわ。この話はまたあとで」
「おい、ちょっと劉――」
俺の回答を待たず、劉はそそくさと行ってしまった。取り残された俺は去っていく劉の背中を見つめるだけ。脱力してなかなか立ち上がれなかった。
どうしよう……。
なんというか未だに信じられない。でも選ばれてしまったからには対応を考えなければいけない。どうすればいいんだ。行くか文芸部? それとも何もしないか。どうする俺。
俺は頭を抱える。劉は話すだけ話して心をかき混ぜてくれた。相談するメリットとデメリットが交錯する。けれど最後にいった劉の言葉だけは、心に引っかかった。
――なんでそんな簡単なことができないんだろうな。
本当にそう思う。どうして一億人以上の人々が持っている武器を、毎日使っている武器を、俺はいつまで経っても使いこなせないのだろうか。
重い腰を上げて次の教室へ向かおうとする。
そこで気づいた。テーブルの上を見る。
「あ……」
お弁当は半分も食べられなかった。
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