序幕

―― 前夜 ――

 一九二五年二月 帝居ていきょ地下 研究区画





 その日、【宮森みやもり 遼一りょういち】は自身の研究室に入ると、ぐさま助手の女性研究員に帰宅するよう言い渡した。

 彼女はとりわけ不思議がる事はせず、手早く帰り支度を済ませ研究室から出て行く。


 宮森は女性研究員が退室したのを見計みはからい、研究室の奥へと目をった。

 そこには分厚い硝子ガラス壁がしつらえてあり、硝子ガラス壁の向こうには空間が広がっている。


 奥の空間は研究室の壁面とは地続きになっておらず、その奥行きも計り知れない。

 又、照明の点滅器スイッチが入っていないのか照明のたぐいが設置されていないのか、奥の空間は濃密な暗さをたたえていた。


 宮森は、硝子ガラス壁そばに設置された投光器の点滅器スイッチを入れる。


 投光器から放たれる光は強烈なはずだが、それでも硝子ガラス壁の向こうは見透みすかせない。

 光は硝子ガラス壁の表面に沈殿するだけで、ほぼ無力だ。


 それでもなお、僅かな光子は攻め入る事を許され弱々しく行軍する。

 その行く手には、光などでは到底越える事の出来ない城壁が待ち受けているとうのに。


 ゆっくりと揺らめく硝子ガラス壁の向こう側は濃密な昏闇くらやみを思わせ、見る者の心を否応なしに引きり込む。

 そう、彼に現世との密度の違いをさとすように。


 彼は硝子ガラス壁に近付き、軽く壁を叩く。

 ただ叩音こうおんは小さく、とてもではないが硝子ガラス壁の向こうに届くとは思えない。


 数瞬の後、硝子ガラス壁向こうの空間が今迄いままでになく揺れた。



 何かが近付いてくる。


 舞っている。


 硝子ガラス壁を照らす人工ツクリモノの光を侵食しながら。


 この世に行き渡る神の摂理をけがし乍ら。


 それに必死でしがみ付こうとする彼の理性をあざわらい乍ら。


 ソレは硝子ガラス壁の向こうに現れ、壁に両のてのひらてがい笑う。


 彼はソレをのぞく。


 ふちを覗き込む。


 覗き込んだ分だけ、ソレが入り込んで来る――。


 ――。



 我に返った宮森は、研究室側に備え付けられた集音器マイクロホンに顔を近付け、ソレに向かって言葉を投げ掛けた。


「おはよう、【てい】。

 今日の調子はどうだい?」


 彼の問いを受けたソレが言葉を発すると、機械に濾過ろかされた声が研究室側の拡声器スピーカーから漏れ出る。


『……おはよう、せんせー。

 きょうは、なにしてあそぶの?』


 ソレからのたどたどしい問いに彼は答えず、水槽の中にたたずむ〈稚異魚にんぎょ〉を、


 ただ愛おしそうに見詰めていた――。





 一九一八年 帝都





 宮森は大学を悔いの残る形で去った。

 だがひまを持て余さないうちに、とある慈善団体からの誘いが舞い込む。

 団体の背後には後ろ盾パトロンが控えており、名を【九頭竜会くずりゅうかい】と云った。


 九頭竜会は複数の舎弟フロント団体を使い分け、表向きは社会貢献をうたっている。

 しかしその実態は、名立たる企業の上層部、政財界の要人、官僚、軍部将校、学者、芸能人、芸術家、宗教家、警察、司法、果ては裏社会に籍を置く者達をも含め構成された巨大組織で、この国はおろか東アジアで絶大な権勢を誇っていた。


 その九頭竜会から宮森に御呼びが掛かる。

 どうやら、彼が大学時代に執筆した論文が評価されたらしい。


 肝心の論文内容は、この国に伝わる宗教行事から伝説神話の類、民族の出自、市井しせいの慣習などを幅広く考察したものだった。

 ただ被差別民や超古代文明、宗教儀式の性慣習などについても深く踏み込んだ内容だった為、宮森の在学中は教授達が無視を決め込んでいたものである。

 宮森 自身も学問の道で飯を食って行く事は諦め、教育者として世に尽くそうと考えていた所での勧誘だった。


 一般的な勤め人の三倍以上の年収に加え、住む場所までも提供される。

 将来的には、研究室と助手も付けると言われた。

 これだけの好条件に裏が有るのは明白だったが、再び学問の道を目指す事が出来ると云う誘惑には勝てず、宮森は誘いに応じてしまう。


 後悔は直ぐにやって来た。

 宮森を九頭竜会に推薦したのが、事も有ろうに彼の論文をまともに取り上げなかった、かの教授だったのである。


 九頭竜会に所属する学会人達が屡々しばしば使う手口で、優れた論文や功績を認めずその芽を摘み取り、教え子達が困窮こんきゅうしている所を見計らって助け舟を出す。

 そしてていよく組織に取り込むのだ。


 宮森はこのり口にまんまとまってしまう。

 

 九頭竜会の活動内容は驚くべきもので、異常性、残虐性、反社会性、どれをとっても学問などでは決してなかった。

 違法行為などは日常茶飯事さはんじ

 当然人命もかえりみられる事は無く、人体実験が当たり前のように行なわれる。

 組織の利益と会員の享楽きょうらくの為だけに多くの者が涙を飲み、そして蹂躙じゅうりんされて行った。


 そんな日々の只中で宮森の心胆しんたんを最も寒からしめたのは、それらの活動を指揮していたのが当時の皇太子であり、後の大日本帝国太帝たいていとなる、【瑠璃家宮るりやのみや 玖須人くすひと 親王しんのう】その人だったからである。


 組織に入会して半年ほど経った頃、宮森は自らの運命を決定付けた瑠璃家宮を始めとする人外じんがいの者達との、運命の邂逅かいこうを果たす事となった――。





 ―― 前夜 ―― 了

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