6-3
「本当に来たのか」
「最初の挨拶は大切じゃないですか」
訪ねてきたのは予想通り、アンジェだった。
初対面でもないのだから、わざわざ引っ越しの挨拶になんて来なくてもいいだろうに。
律儀と言うべきか、融通が利かないと言うべきか。
「……で、その手に持ってるものはなんだ?」
「見ての通り、引っ越しそばですよ」
さぁどうぞ、と差し出されたそれは、どう見てもカップ麺だ。
それも、コンビニとかにあるちょっと高いやつ。
「ランプのように、玄関先に置いておくわけにもいかないですし」
「問題はそこじゃないんだが……なんでそれをチョイスした?」
「少しくらい高いもののほうが、それっぽいかと思ったんです」
「だからそうじゃなくてだな……」
引っ越しそばでカップ麺を持っていくやつが、どこにいる。
「本当はちゃんと調理したものをお持ちするつもりだったんですよ? でも、うっかりしてました。我が家にはまだ、調理器具とかがそろっていなくて」
なるほど、それはそうだろうな。
このアパートは家具付きの物件じゃないはずだし。
「ちなみに、ガスとか水道は連絡したのか?」
「あ、もう済ませてあります。部屋に手引き書? みたいなものがあったので」
「ならいいんだ」
それなら夜になって騒ぐようなこともない。
「というわけで、急遽コンビニに行って買ってきたんです」
まるでそれが誇らしいことだと言うように、アンジェは胸を張ってみせる。
心なしか表情も得意げだ。
確かに機転が利いたと言えなくもないが、方向性を決定的に間違えている。
「言っておくが、引っ越しそばとして持っていくのは完成品じゃないぞ」
「え、そうなんですか?」
「たぶんだけどな。贈り物用のそばセット、みたいなやつだと思う」
そもそも、引っ越しの挨拶ならそばに拘る必要も今はないだろう。
「では、カップ麺のほうが正解だったんですかね」
「……ちなみに向こうの、301号室にはもう行ったのか?」
「そちらはまだです」
「ならやめておけ。少なくとも、カップ麺じゃ印象が悪すぎる」
「ダメでしょうか、カップ麺」
「変な人だと思われたくないだろ」
「……確かに」
さすがにアンジェも、初手で失敗はしたくないらしい。
もしかしたら、俺との出会いが脳裏をよぎったのかもしれない。
「えーっと、でもせっかくなので、お納めください」
「……まぁ、うん。一応、ありがとう」
彼女の努力を認めるという意味で、カップ麺を受け取っておく。
普段食べないから、少し楽しみではある。
「あれ? それ、なんです?」
「…………それ?」
どれだ、と思いながらアンジェの視線を追ってみる。
視線の先は、部屋着としてはいているジャージのポケットに向かっていた。
「…………ち、違う」
そこからはみ出ているものがなんであるかを理解し、即座に否定する。
「なんだか見覚えが……あ、あれ、それって私の……ぇ」
ポケットから半分ほど出ていたそれがなにかを、アンジェも理解したらしい。
あっという間に顔が赤くなり、声が震え始める。
そして怯えたような目で、俺を見上げてきた。
「待て落ち着け。これは違う。すぐ説明するから」
ポケットからそれ――先ほど発見したアンジェのパンツを取り出し、弁解する。
「これはあれだ。洗濯物に紛れてたやつでだな、ついさっき見つけて、どうしたものかと考えてただけだ」
「……で、でも、ポケットに入れるのは、なな、なにか特殊な事情がないと」
「そ、それはいきなりチャイムが鳴ったからだ。と、咄嗟というかついというか、音にビックリして無意識に突っ込んだだけでだな……ほ、本当に変な意味はないんだっ。ほらっ、返すからっ」
噴き出す汗の勢いに負けないくらいにまくし立て、アンジェにパンツを押し付ける。
「あ、は、はいっ」
動転しつつも、アンジェはちゃんとパンツを受け取ってくれた。
とりあえず、どうやって返却するかという問題は解決した。
その分、別の問題が発生した気がしないでもないが。
「だ、大丈夫だ。本当になにもしてないから」
「……えっと、大丈夫の意味というか、わ、私の下着で大丈夫じゃないナニができるのかわからないのですが」
「い、いいんだよ、細かいことは。ちゃんと返したからな」
「は、はい。洗濯物が紛れ込んでいたのは、たぶん私の落ち度ですし……その、お、お見苦しいものを見せてしまって……えっと、はい」
茹で上がったように赤面しつつ、アンジェはパンツを器用に丸めて、手の中に隠した。
そしてそのままなにかから守るように、手を背後に回す。
「ま、まぁ、お互い事故にでも遭ったと思っておくか」
「そう、ですね……はい」
変に意識しすぎたらドツボに嵌るのは明白だ。
ここはお互いに忘れて、話題もサクッと変えてしまうのがいい。
手のひらに残る、俺のものとは全く異なる肌触りのことは忘れ、咳払いを一つ。
「で、用事はそれだけか? そろそろ昼飯にしたいんだが」
「あ、いえ、実は他にもお願いがありまして」
「飯の話か?」
「違います。あ、でもせっかくなら、ご一緒したいと思いますけど」
「まぁ、考えてる途中だから別に構わないが」
「先ほども言った通り、家具などが全然足りなくて。これから商店街でいろいろと揃えたいと思ってるんです。なので、できたらあのぅ」
「……そういうことか」
アンジェが言いたいことを理解し、頷く。
確かにアンジェ一人では、大変だろう。
「いいぞ。どうせやることもないし」
「ありがとうございます。ついでなので、ご飯もどこかで食べませんか?」
「そうだな。今から準備するのは面倒だし」
どうやら連休初日の予定は、埋まったようだ。
「少し待っててくれ。着替えてくる」
「はい、外でお待ちしてますね」
そう言って一度部屋に戻るアンジェを見送る。
なんだか不思議な感覚だった。
「……さっさと着替えるか」
誰にともなく呟き、俺も部屋の中に戻った。
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