ランプの女神の幸福論

米澤じん

1-1

 ――そのランプは、忘れ物のように置かれていた。


 築二十五年になるアパートの三〇三号室。

 そのドアの前にぽつんと置かれたそれは、俺の帰りを待っていたようにも思えた。

「って、そんなわけあるか」

 自分の考えを鼻で笑い飛ばし、階段を上ったところで止まっていた足を動かす。

 四月の夕焼けに照らされた廊下を、一番奥まで進む。

 いつもならあとは鍵を開けて、部屋の中に入るだけなのだが、今日はそうもいかない。

 ドアを開けるには、足元に置いてある物が邪魔だ。

 少し前屈みになり、夕陽を浴びているそれを凝視する。

 なんとなくランプだろうと思っていたが、改めて観察して確信した。

 変わった形の急須やカレーを注いだりする道具などではなく、黄金の輝きをまとうそれは、間違いなくランプと呼ばれるものだった。

 実物を見るのは初めてだが、どちらにせよ場違いな物であることに変わりはない。

 一応周囲を見回してみるが、持ち主らしき人物の姿はなく、安アパートの廊下に聞こえてくるのは、近所の小学生たちが遊ぶ声と、微かな喧噪だけだ。

「子供のいたずらにしちゃ、それっぽすぎるよなぁ」

 いたずらで使うようなおもちゃの類には見えない。

 過度な装飾こそ施されてはいないが、だからといって安物とも思えない。

 素人目にも、骨董品などを扱う店に並んでいるのがしっくりくる一品に見える。

 まぁ、そんな店には無縁の人生なのだが。

「お隣さんの荷物……も違うか」

 配達された品物なら、最低でも段ボールの箱に入っているものだ。

 むき出しで廊下に置いていくほど非常識な運送屋は、さすがにいないと思いたい。

「……ふむ」

 さてどうしたものか、とわざわざ考えることはせず、俺は足でそのランプを横にずらし、取り出した鍵で玄関を開けた。

 確かなことは一つだけ。

 このランプがなんであろうと、俺には一切関わりのないものだ。

 それだけは間違いないのだから、こうするに限る。

 謎のランプのことは頭から追い出し、薄暗い玄関先に鍵を置く。

 そして後ろ手に玄関を閉める。

「……ん?」

 いや、閉めようとした。が、妙な力でそれを阻まれた。

 まるで、逆側からドアを掴まれているような感覚。

 なにが起きたのかを確かめようと振り返り、

「…………」

 その視線とぶつかった。

 不満げに細められた、碧い瞳。

 全身が軽く痺れるような感覚に、息を呑む。

 そして、そのまま呼吸すら忘れてしまいそうなほどにきれいな、透き通る金色の長い髪。

 その二つを兼ね備えた少女の姿を認識し、改めてゾッとするような感覚に襲われた。

「……どうして」

 微かに揺れる声が、不機嫌な気配と共に流れてくる。

 見上げてくる碧い双眸から、目が離せない。

 代わりに一歩あとずさり、そのおかげで少女の姿がそれまで以上にはっきりと見える。

 白を基調とした服が、少女の神聖さを際立たせていた。

 そうだ。

 突然現れたこの少女は、そう思えてしまうほどに整いすぎていた。

 フィクションの世界から飛び出してきたとしか思えない少女。

 そんな彼女が唯一見せる、現実的な一面。

 端正な顔立ちを彩る、頬に差した朱。

「……君は」

 何者なのか、と問いかけようとした俺の眼前に、それが突き出される。

 なぜか不機嫌そうな表情を浮かべてそれを突き出した少女は、言った。

「どうしてこすってくれないんですか⁉」

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