メヌエット
青
Chapter 1
1-1
バスを降りると、冬のような、まだ秋のような空気が頬にかかった。薄手のパーカーで外に出てしまったことを後悔する。俺はポケットに手を突っ込み、少しでも暖を逃がさぬよう姿勢低く歩き始めた。
「桐田」
後ろから肩を叩かれる。予期せぬ挨拶だったので、おっと小さく声が出る。すかさず「そんなにびっくりするとこ?」と突かれた。
「完全に自分の世界に入ってたわ」
「いっつもそうだなー」
同じ大学に通う伊藤は、時々突然現れてすかさず俺の肩を叩く。1年の頃の第二外国語の授業で一緒になってから、専攻が同じこともあってよく顔を合わす。
「お前、いつももう一つ次のとこで降りてない?今日違くない?」
気づかれるとも思っていなかったことだったので、返す言葉に詰まる。
「いや?一緒だよ」
「違うわー それは違うわ」
「一緒一緒」
そうごまかしても、伊藤はまだぶつぶつと何かつぶやいている。彼の眼鏡のつるが日差しにあたって光り、俺の目に入ってくる。携帯に通知があったことがポケットの振動で分かったが、何となく今は見るのをやめておいた。
講義室での授業を終え、室内の人口が減るまでぼんやりと席にとどまっていた。全学部必修の科目であるため、まるで入学当初のオリエンテーションのように多くの学生が集まっていた。
前から2番目ほどの座席の一角で、数人の女子が笑い声を上げながら話し込んでいる。名前は知らないが、学食などの校内でたまに見かける顔たちだった。しばらくながめていると、数人の中の一人が、両手で握りこぶしを作ってちいさく前に出すような動きをしていた。それを見た周りの女子たちは、手を叩いて笑っていた。俺自身も、それが誰かの物まねだと気づいたとき、思わず吹き出してしまった。手を前に出すとき、目をちょっと大きく開く。
「ん? 何?」
隣に座っていた伊藤が、不思議そうに聞いてくる。自分でもなぜかわからないが、笑いが止まらなくなり、そのままくつくつと笑い続けてしまった。
「ああ あれか」
伊藤も俺が笑っている対象に気づき、机ごしにぐっと体を前のめりにした。
「いや、別に…顔が似てるとかじゃないんだけど。全然似てるとかじゃないんだけど。」
「めちゃくちゃ笑うじゃん」
笑いながら、途中で自分の中の笑いのピークが過ぎたことに気づいたが、それでも余韻で笑ってしまい、しばらくしてようやく落ち着いた。
「ああいうのがツボなわけね」
「別にそうでもないんだけど、なんか」
俺は一仕事終えたようによっこいしょと立ち上がり、教室を後にした。
大学に入って、今月で3年が経った。
自分の学力ではボーダーラインの遠方の公立大学を受けたところ、思いがけず合格したのだが、新しい土地での生活を想像すると何となく気が引け、結局地元から1時間程の私大を選び、今に至る。高校までの友達は、俺とは違い勇敢にも地元を離れて進学した者が大多数で、帰省の折に飲み会が開かれ、そこでそれぞれのキャンパスライフのことを聞かせてもらった。楽しそうだなとも思うが、地元を離れなくて正解だったなと感じることが多い。
住み慣れた地域での気ままな一人暮らし、これに勝るものはない。
「きりたんおっはー」
バイト先の塾が入っているビルに到着し、エレベーターを待っていると、生徒の女子学生が現れた。ちょうどエレベーターも来たので、共に乗り込む。
「授業だるいっすわー」
「俺も」
「えっ 塾長に言っとこ」
「勘弁してください」
女子学生・日下が豪快に笑った。
「てか、最近付き合ってほしいってしつこい男子いるんだよね。きりたん彼氏のふりしてくんない?」
「その現場見られたらそれこそ塾長に怒られるわ」
「まあ、確かに」
日下がスマホに目を落とすと同時に、エレベーターのドアが開いた。個別指導の塾のため、フロアにはパーテーションで区切られた机同士が背中合わせになって配置されている。
「じゃ、また」
「うん 頑張って」
ロッカー室に消えていく日下と別れ、事務室へ向かう。
今日最後のコマを終え、帰り支度を済ませ廊下を歩いていると、背後から名前を呼ばれ立ち止まる。
「金子さん」
「おつかれ もう帰り?」
「はい タバコすか」
そうそう、と金子さんは胸ポケットの上からライターをぽんぽんと叩きながら答えた。金子さんは元々中学校の教師をしていたが、親御さんの介護で続けられなくなって退職したらしい。その親御さんが亡くなってから、塾講師に転身したと本人から聞いたことがある。
「最近寒いよねえ」
「ほんとっすね 金子さんも、風邪ひかないように気を付けて」
「桐田くんは、優しいねえ」
「ああ…ありがとうございます」
小恥ずかしい気持ちになりながら、家路に急ぐ。
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