第35話 美麗は光一から逃げ切りたい
「なあ美麗。せっかくだし、手、繋がない?」
小丸に見えない位置で、小声で陸夜はいってきた。できることなら、手を繋いで歩いていたい。もし光一に見つかってしまったときに、私と付き合っている陸夜まで特定されると面倒なことになる。一緒に痛いのは山々なのだが、今は距離をとっておきたい。
「ごめん、ちょっと今はそういう気分じゃないから」
「少し焦りすぎてたわ。あー、俺が悪かった、ごめん」
そういうつもりじゃないのに。
私たちの恋を阻む財閥の存在。ずっと見えないフリをして、自分を騙していた。いまさら、その存在を意識することになるなんて。
周囲の音が入ってくるのを。耳が拒絶する。人の喋り声も、太鼓の音も、すべてがぼんやりとして、ひとつに混ざっていく。そのうち、視界もぼんやりと歪んできて────
「ああ、私、どうしたら……」
「大丈夫か?」
「なんでもない。ひとりごと、だから」
思っているだけじゃ伝わらないなんて百も承知。この状況で、事情を明らかにするわけにはいかない。私から財閥のことについて、光一のことについてはなした日には、付き合うことをやめるようにいってくるだろう。
別れたとして、付き合っていた事実を財閥が認めるはずがない。ほんとうに、縁を切られてしまうかもしれない。今はただ、光一に何も察させないことが重要事項だった。
「ごめん、事情はいえないんだけどさ、ちょっと他人のふりをしてくれないかな」
「……」
「せっかくの夏祭りだけど、これは本当にお願い」
「いいよ、別に」
何にも囚われずに、陸夜と過ごせたら。そんなんことを考えてしまう。いくら屋台を巡っても、虚しさしか残らなかった。他人のふりをするなんて、楽しくなかった。
刻一刻と、花火の時間は近づいてくる。ふと、カバンの中でスマホが揺れているのを感じた。電話だろう。裏返っていた画面をひっくり返し、送ってきた人物の名前を確認する。
雨宮光一だった。
「陸夜、ちょっとお手洗いにいってくる」
手汗が湧き出てくる。陸夜から離れると、息を整えおそるおそる画面をタップした。
「出てくれたんだね」
「こんな時間に何のようですか」
「そうだよね。こんな時間にかけてくるなんて失礼だよね。いまさ、ちょうど後夜祭をやっているはずだけど? その最中に電話に出れるなんて、不思議なものだね。この時間は、美麗サンのクラスが出ている時間じゃなかったかな? まさかステージに立ちながら電話をしているのかい?」
「まだ、はじまってないから」
「ふーん、じゃあ、どうして盆踊りの曲が流れているんだい。そしてやけに静かしギルと思うんだけど」
「当たり前だと思うのだけど。電話に出るために、わざわざ場所を選んでるんだから」
「なるほどね。それじゃあ、楽しみにしているよ、ボクの婚約者。『花火大会』でね」
その一言で、電話がきれた。
汗が止まらない。鼓動は高まるばかり。いったん校舎内のトイレまで向かう。ここには、私以外誰もいないようだ。個室の中に入って、私は気が緩んだのか泣いてしまった。
少し考えればわかることだったのに。
秘密裏に転校し、奏流高校に通う。そのことを財閥には隠す。私は、自分の居場所を確保するために、大きなリスクを抱えている。それを無視したから、だから……
いつ壊れるかもわからない、脆すぎる幸せだったんだ。陸夜と、明日翔と、小丸と、棚葉との生活。本当の生活から目を背けて。
もう、光一にはバレているだろう。陸夜との関係も、おしまいになってしまう。そんなのわかりきっている。
でも、なぜか涙は先ほどよりも勢いを増して、ハンカチを濡らしていた。
「じゃあ、いきますか」
鍵を外す。現実を見なくちゃ。
『花火大会は、あと三十分でおこなわれます』
校舎から出た後、アナウンスがそう伝えた。
もう、花火の時間か。
陸夜たちの姿が見当たらない。彷徨いても、全然見当たらなかった。陸夜たちを探している途中、とあるカップルがやけに目についた。叶えられていたはずの光景。
歩き続けていたら、ふいに、肩に手をおかれた。
「みーつけた、みーれいサン」
「雨宮、光一」
「やはり君は奏流に通っていたか」
「それがどうしたっていうの。もうバレているだろうと思ってたから」
「冷静だね。まあ、ボクはキミの秘密を漏らすつもりなんてない。興味本位で事実を追求していただけだからね」
「いい迷惑ね」
「それじゃあ本題だ。誰と奏流の祭りに来た」
「ひとりに決まってるじゃない」
「ボクにはそう思えないんだ。ただの勘みたいなところはあるけどね」
陸夜の存在を知られるのは困る。たとえ奏流に通っていることがバレようとも、婚約者がいるのに付き合っている男子がいるとわかれば今度こそ終わりだ。
「そういうあなたは、わざわざひとりでここに?」
「いいや、茜サンも一緒さ。ボクを探しにくるのも、時間の問題かもしれないね」
茜がきているっていうの? 私に不利な状況があれば、すぐに言いふらされそうだ。安心できない。
「私が許嫁だっていうのに、茜と一緒に来るのね。そんな浮ついた態度で平気なわけ」
「キミはもちろん大事な存さだ。たとえキミが好きじゃなくても、愛を注ぎ込むことに変わりはない」
少しずつ、距離が詰まる。
「いやぁ、まさかキミからそんなセリフが出てくるとは。ボクからの愛を再確認したともとれる、そのセリフを」
光一が肉薄する。
「何のつもり」
私の瞳をじっと覗き込んだ後。膝をつき、見上げて視線を送った後。光一は、手の甲にキスをした。
「キミに対して、ボクができたのはここまで。でも、これで終わりにするつもりはなかったんだよ」
気持ち悪すぎる、つい食べたものをもどしてしまいそうだ。
「ボクの愛、受け止めてくれるかい」
「……やめて、もう、やめて」
「どうしたんだい、そんな小さな声じゃ、ボクにまではっきり届かないよ」
「お願いだから……もう、やめて!」
ガタガタ震える足で、この場から逃げようと試みる。光一を跳ね除け、震えを抑えて走り出した。ともかく今は、光一から離れないと。
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