初恋は金木犀の香り
旦開野
第1話
暑さも落ち着き、吹く風に涼しさを感じるころ、秋を伝える風と一緒に、甘く華やかな香りが届く。金木犀の香りを嗅ぐと、僕はあの時の初恋を思い出す。
これは僕が5歳くらいの時の話だ。この頃、僕たち家族は父の仕事の関係で引っ越しをした。慣れ親しんだ幼稚園を離れて、違う幼稚園に通うことになった僕は、なかなかその幼稚園になじむことができず、一人でいることが多かった。父も母も慣れない土地での生活にバタバタしていて、両親に今日あったことをゆっくり話すことすら、少し億劫になっていた。母は夕方になると、ご飯の支度などで特にバタバタしだしてとても忙しそうだった。そのため僕は幼稚園から帰ってくると、晴れている日は大体、おうちのすぐ目の前にあるブランコとベンチしかない小さな公園で時間をつぶしていた。
夏休みが明け、明日からまた幼稚園という8月最後の日、僕はこの日もいつものように公園にいた。いつもと違うのは隣のブランコが埋まっていたということだ。いつもなら空いているそのブランコに、今日は見たことがない、僕と同じくらいの年であろう女の子が座っていた。クルクルとした長い髪に、白い肌、オレンジ色のワンピースがよく似合う女の子だった。隣のブランコに座る見たことのない女の子を、僕はまじまじと見つめてしまった。女の子は視線に気が付き、僕に微笑みかけた。僕はそんな笑顔を向けられたことがあまりなかったので、視線を外すことしかできなかった。熱なんかないはずなのに僕の顔はとても熱くなっていた。
次の日、幼稚園が終わって公園に行くとやっぱり昨日の女の子がブランコに乗っていた。僕は彼女に話しかけようと、隣のブランコに乗った。しかし、何て声をかけていいかわからず、しばらくの間沈黙が流れた。
「あ、あの…」
僕は話しかける恥ずかしさよりも、2人の間に張り詰める沈黙に耐えられなくなり、何の考えもないのに一言声をかけた。彼女はこちらを向いた。
「えっと…名前を教えて欲しいんだ、君の。」
なんて呼んだらいいのかがわからなかったので、とりあえず名前を聞いてみることにした。
「名前…私、名前はないの。人に呼ばれることがないから。」
淡々と彼女は言ったが、僕は何を言ったのかがよくわからなかった。きょとんとした顔をしていたであろう僕のことなど気にすることなく彼女は続けた。
「私は人じゃなくてね、妖精なの。あそこに木があるでしょう?もうすぐ黄色い小さな花が咲くの。金木犀っていってね。私はあの木の妖精なの。」
僕はこんな不思議なことをいう人に会うのは初めてだったから、なんて返したらいいのかがわからなかった。
これが僕たちの最初の会話だった。不思議なことをいう子だと思ったけど、僕はお母さんから、お母さんは小さい頃から空想が大好きで、今のお仕事もその空想が生かされているんだよという話を聞いていたから、この女の子もきっとそういう空想が大好きな女の子なんだろうなと理解した。僕はそれから毎日のように、公園に行き、彼女とお話をするようになった。彼女は名前を聞いても名前はない、と言い続けたため、僕は勝手に彼女のことを「はなちゃん」と呼んだ。はなちゃんは僕が話す家族のことや、幼稚園での出来事など、どんな話でもしっかりと耳を傾けて聞いてくれた。僕の話を嫌な顔一つせずに聞いてくれるはなちゃんに、僕はついついたくさん話をしてしまった。
「僕ばかりお話しちゃってるけど、はなちゃん、退屈してない?」
一度、僕ははなちゃんにそう聞いたことがある。自分で言うのも何だが、僕は小さい頃から相手のことを気にしすぎてしまうところがある。
「私はゆうくんのお話が聞きたくて聞いているから大丈夫だよ。私、他の場所のこと知らないし、ゆうくんが話してくれる幼稚園のこととか、お母さんとお父さんの話とか大好き。」
彼女は落ち着いた声でそう言った。はなちゃんの控えめで落ち着いた雰囲気は同い年とは思えなくて、とても大人っぽいなと、幼いながらに思ったのを記憶している。
僕ははなちゃんのことをもっと知りたかったが、彼女は自分のことをあまり話してくれなくて、いつも何かとはぐらかされていた。こんなに毎日会っているのに彼女のことをまるで知らない…そのモヤモヤも相まって、気づけば僕は幼稚園にいる時もお家にいる時もはなちゃんのことばかり考えるようになっていた。
そうやって過ごしているうちに秋も深まり、公園にある金木犀の木に、黄色くて小さな花が咲き出した。冷たい風とともに甘い香りが漂ってくる。はなちゃんは今年も綺麗に咲いたと、とても嬉しそうにしていた。静かではあったけど彼女の目一杯の笑顔を見て、僕も金木犀という花が咲いたことを嬉しく思った。
金木犀が咲き始めて2日くらい経った頃だろうか。空には重たい灰色の雲がかかっていた。朝のニュースは、明日の朝ごろに台風がやってきて、嵐になるらしいと伝えているんだと、お父さんが教えてくれた。僕はそのことをはなちゃんにも教えてあげた。
「そう…」
はなちゃんは今までに見たことのない悲しそうな顔をしていた。いつもなら僕の話を目を見て聞いてくれるのに、天気の話をした途端に目線を足元に落としてしまった。僕はこの話題はつまらなかったかなと思い、話題を変えた。話題を変えるとはなちゃんはいつもみたいに僕の目を見て話を聞いてくれたけど、その顔はまだ悲しさをひきづっているようにも見えた。
辺りがより暗くなって、僕はお家に帰らなければいけなくなった。
「そろそろ帰らないと。明日は会えないかもしれないけど…また明後日ね。」
僕がそういうといつもなら花ちゃんはまたねって返してくれるけど、この日は違った。
「ありがとう。楽しかったよ。さようなら。」
今の僕なら、あの笑顔を哀愁を帯びた笑顔とでも表現するだろう。しかし当時の僕はその笑顔はいつもとは何か違うけど、その何かがわからず、少しもやっとした気持ちを残してうちへと帰った。
その日の夜、外では強い風がビュービューと吹いていた。何かが吹き飛ばされている大きな音も聞こえた。ちょうど寝る時間だった僕は、ベットに入ったものの、大きな音と、いつもと違う様子のはなちゃんが頭から離れず、すぐに眠ることができなかった。どうしてはなちゃんは天気の話を嫌がったんだろう。どうして今日は何だか悲しそうだったんだろう。あの見たことのない笑顔がずっと頭から離れない。しかし、当時の僕は考えたところで何も結論を出すことができず、気がついたら眠りに落ちていた。
朝起きると、強い風に大粒の雨が加わっていた。電車が止まったため、お父さんはお仕事に行けず、今日はお休みになった。僕も幼稚園はお休みになった。いつもと違う平日。お父さんはコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。僕はというと、はなちゃんのことを考えながら窓の外で降り続ける雨をじっと見つめていた。
嵐は夕方にはおさまり、さっきまでの強い風と雨が嘘のように、太陽の光が差し込み、とても穏やかなものになっていた。
「ちょっと公園行ってくる!」
その一言だけを言って僕は家を飛び出した。いくら雨上がりとはいえ、もう日が傾きだしてるし、はなちゃんはいないかもと思った。でもちょっと不思議なはなちゃんのことだから、こんな時間からでも公園に行くかもしれない。僕はそれを確かめずにはいられなかった。玄関を開けた瞬間、外の世界は昨日とはまるで別物になっていた。木の枝や葉っぱがそこら中に散らばり、ちょっと先の小川の水も今にも溢れそうだ。公園を見渡した。しかしはなちゃんの姿はなかった。公園の中も嵐のせいでぐちゃぐちゃになっている。はなちゃんが嬉しそうに話していた金木犀は、根本の近くでぽっきりと折れてしまっていた。小さな黄色い花は公園の水たまりに、まるで星のように散らばっていた。
僕はまた公園に通いだしたが、あの嵐の日以来、はなちゃんに会うことはなかった。あの日のさようならが、本当のさようならになってしまったのだ。僕は小学生に上がる頃には、もうすっかり友達もできて、家の前の小さな公園に行くこともなくなった。
それでも秋になるとちょっと不思議で控えめで、大人っぽかった彼女のことが頭の中をよぎる。髪の毛がくるくるで、オレンジ色のワンピースが似合う女の子。彼女は本当に金木犀の妖精だったのだろうか。もしかしたら僕が頭の中で描いていた空想や夢であって、彼女は実在していなかったのかもしれない。しかし、今となってはその真相を確かめる方法はない。
暑さも落ち着き、吹く風に涼しさを感じるころ、秋を伝える風と一緒に甘く、華やかな香りが届く。金木犀の香りを嗅ぐと、僕はあの時の初恋を思い出す。
初恋は金木犀の香り 旦開野 @asaakeno73
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