第13話

 駅前まで来たところで、コンコン、とガラスを叩く硬質な音が聞こえてきた。その方向を向いてみるとそこは何かのファミレスで、窓の向こうで佐竹さんが小さく手を挙げて俺に向かってにこやかに微笑みかけていた。そして、その手を招き猫のように変形させて、ちょいちょいと手招きした。


「え」


 佐竹さんが俺を呼んでいる、ということしか俺は理解できなかった。


 俺は足早にサイゼに入店して、それから店員に軽く頭を下げてから、佐竹さんの座っているテーブルの向かい側に座った。佐竹さんに向き合った。


 佐竹さんは俺に構わず柔らかな笑みのままで、テーブルの上のたらこスパゲッティをフォークでくるくる巻いて、それを口に運び、幸せそうにより一層笑みを深くする。


 佐竹さんのような上品で高貴そうな黒髪和風美人な女性が、庶民向けのファミレスで出された料理をとても美味しそうに食べているのは、どこかちぐはぐな印象を受けざるを得ないけど、今はそんなことはさして重要ではない。


 佐竹さんは口の中のスパゲッティをごくりと飲み込んで、すこし姿勢を正してから、言った。


「こんにちは天野さん。昨日ぶりですね。お元気ですか?」


 相変わらず、中学英語の直訳のように丁寧な文章で話す人だ。まあ、意味は汲み取りやすいし良いんだけど。


「まあ、もちろん元気ですけど、えーっと、なぜあなたがここに?」


 そう。さっき電話で話した女性と、今俺の目の前にいる女子高生とでは、あまりにテンションだとか雰囲気だとか話し方だとかが違いすぎる。電話口の女性は煩雑な印象を受けるのだが、佐竹さんから受ける印象はその対極だ。


 では、俺に電話をかけてきた女性はいったいどこにいるのか。


「あら? 先程わたしが電話で天野さんを呼び出したでしょう? ですからわたしがここにいるのは当然のはずですよ」

「え……?」


 まさか、あの電話口の女性と佐竹さんが、同一人物だと言いたいのか? 


 佐竹さんがあんなにくだけた日本語の使い手だとは思えないし、佐竹さんが一歩間違えれば気が狂っているように思われかねないほどのハイテンションになるところなど想像できない。


 もし可能性があるとすれば多重人格だけど、記憶を共有しているからその線はない。


 えーと、つまり?


「いや、だって、話し方だって声だって、全然違ったし、それも完全に別の人間だとしか思えないほどだったし……」

「あら、また無意識に話し方が変わってしまっていたのね。煩わせてごめんなさいね。ですがご安心ください、先程天野さんに電話をかけたのは紛れもないわたし本人ですので」

「いや、そんなこと……」

「嘘だとおっしゃりたいの? 混乱する気持ちはわかりますけれど、あの電話でのわたしもわたし、そして今あなたの目の前にいるわたしもわたしなのです。これは覆しようのない確固たる事実なのです。それで、ご納得いただけませんか?」

「えぇ……」


 佐竹さんは電話をしているときだけ話し方ががらっと変わる、文字通り特殊な特徴の持ち主なのか。和泉も俺の前とそれ以外の前とで話し方が変わるから、それと似たようなものか……いや、全然似てない。和泉はまだ、同一人物として納得できる範囲内だけど、佐竹さんの場合はその範囲から大きく外れている。とてもじゃないが同一人物だとは納得できないけど……。


「納得、してくださる?」


 目の前でこてっと小首を傾げている佐竹さんの笑顔が、みるみるうちに胡散臭いものに見えてくる。もはや胡散臭さしか感じられないほどに。


 真に上品な人間などこの世に存在しないのかもしれない。


「……わかりました」


 気休め程度に納得したフリをしておく。


「それは良かった。まあでも、天野さんの反応は別段珍しいものではないのですよ。わたしが人に初めて電話をすると、大抵の人は頭が混乱して混濁して色々ぐちゃぐちゃになってしまうそうです。気が狂いそうになったと言っていた人もいましたね」


 佐竹さんは人差し指を顎にあてて目線を斜め上に向けて、何でもないことのように言う。


 俺も今さっき気が狂いかけたよ。


「そういえば、自己紹介がまだでしたよね。あらためまして、わたし、佐竹さたけ利奈りなと申します。以後よろしく」

「どうも、天野です」

「知ってます」


 佐竹さんはきっぱりそれだけ言って、俺から視線を外してテーブルの脇にあるメニュー表を指さした。


「ところで、天野さんもなにか頼みますか? もっとも、天野さんが何かを頼んだ瞬間に、ここは男性である天野さんの奢りという形になりますが」


 佐竹さんはいつでもすらすらよどみなく話すから、なにかおかしなことを言っていても気づくのが遅れる。


「今の時代に性差別はあまり良くないんじゃないですかね」


 言いながら、なぜ俺たちは同級生にもかかわらずお互い敬語で話しているのかという今更な疑問に気が付く。理由はなんとなく、かな。


「あら。では、天野さんがなにかを頼んだ瞬間に、わたしの財布は異空間に消し飛んでしまったということにしましょう。そういうことなら、わたしは一文無しですので天野さんが全額払うしかありませんよね?」

「……もういいですよ。俺はなにも頼まないんで」


 佐竹さんが電話口の女性と同一人物であるという説に信憑性が増してきた。佐竹さんが丁寧なのが、話し方と所作だけなのかもしれない。あとは全部煩雑なのかもしれない。


「あら、そうですか? せっかくここまで来たのだからなにか頼めばいいのに」


 佐竹さんは言いながらフォークをくるくる巻いて、それを口に運ぶ。美味しさのあまりなのか「んー!」とか声を漏らしていた。そこまで感激するとは、佐竹さんは普段どんなものを食っているんだろう。


 口をもぐもぐさせながら、佐竹さんはくるくるフォークを巻いて、ごくりと喉を鳴らしてからまたフォークを口に運ぶ。


 むぐむぐもぐもぐ。


 俺はその佐竹さんを眺めているだけ。


「……あの、ひとつ聞きたいんですけど」

「はい、どうぞ」

「なんで俺をここに呼び出したんですか?」

「一人で食事をするのは寂しかったので」


 スパゲッティに視線を注いだままで淡々と答える佐竹さん。


「じゃあ、もうひとつ質問です」

「はい、いくらでも質問してもらって構いませんよ」

「どうやって俺の電話番号を知ったんですか?」

「和泉さんから聞き出しました。珍しく怪訝そうな顔をしていましたが、案外すんなり教えてくれましたよ」


 予想外に普通に常識的な入手経路で、俺は拍子抜ける。


 そこで佐竹さんがやっと、視線をこちらに向けて、口の動きも止めた。そして軽くパンと手を打って、俺に提案するように話す。


「では、わたしからもひとつ、質問してもよろしいですか?」

「は、はい。どうぞ」


 そこで佐竹さんは細めていた目を開いた。その澄んだ瞳を真っすぐに向けられて、俺は少したじろぐ。


「今日水無瀬さんが学校に来なかったのは、あなたが原因ですよね?」

「え、と」


 そこで唐突に話題に現れた水無瀬さんという人物に、俺は特段驚くことはなかった。俺にとってその事柄は、唐突なものではなかったから。


 それは、今日一日ずっと俺の頭の中をぐるぐる回っていた事柄だから。


「勘違いしないでほしいのですが、他意があるわけではないのですよ。和泉さんから電話番号を教えてもらったときに、もし天野さんに会うことがあったらこのことを訊いておけと、そう承りましたので」

「は、はあ、そうですか。和泉が」

「それで、質問の答えはどうなんですか? イエスか、ノーか」

「イエスといえばイエスだけど、ノーである可能性も捨てきれないみたいな……」

「煮え切らないですね。曖昧模糊としていて薄もやがかったような答えです。男ならびしっといきましょう」

「じゃあ、イエスで……」

「びしっと」

「イエス」

「はいよくできました」


 全く称賛の意が込められていないであろう低い声音で、佐竹さんはスパゲッティに視線を落としながら言った。


 あと一口分しかないスパゲッティを巻いて、それを名残惜しそうに見つめつつ、佐竹さんは言う。


「それで、水無瀬さんと天野さんとの間でなにがあったんです? わたしも一応、水無瀬さんとは今でこそ疎遠ですがかつては大切な友人でしたので、その水無瀬さんが病気でもないのに学校を欠席したとなれば、人並み以上には心配になるのですよ」

「なにがあったかと聞かれてしまうとですね……」

「天野さんはいちいち言葉を濁しますね。イライラします。もっとびしっとばしっとテキパキ質問に答えたほうが、好印象ですよ」

「はあ、すみません」

「謝っている暇があったら質問に答えてください」


 フォークに巻かれた最後の一口をぱくりと食べてから、佐竹さんはむぐむぐしながら苛立ったような表情で俺を見据える。昨日までのニコニコ笑顔の佐竹さんからはおよそ想像できようもない表情だった。


「えーと、まあ、一言で言ってしまうと、交通事故みたいな、どちらかがアクセルを踏み間違えて派手にぶつかってしまったというか、それが原因で気まずくなって、そしてまたその気まずくなったことがきっかけで交通事故が起きて、っていう感じで。多分それが原因ですね、はい」


 全然一言で言えてないし我ながら日本語が下手すぎた。問題の渦中に身を置いている当事者の俺だが、事情を明瞭に理解できているわけではない。


 いや、本来なら理解しているはずなのだが、今回ばかりはうまく言葉にできなかった。自分が理解していても、それを言葉として人に伝えるとなるとまた話は違ってくる。


 佐竹さんはしらーっとした目で俺を見て、言った。


「……えー、すみませんが今の説明では全く要領を得れなかったのですが、もしかすると、すれ違い、というやつではないですか? 心と心のすれ違い」

「ああ、はい、それですそれ。確実にそれです」


 雑に肯定しておく。そうそう俺はすれ違いという言葉を出そうとしていたのだった。あるいは心と心の交通事故とか心と心のすれ違い通信とかでもいいけど、それでは比喩がちとわかりにくい。


「はあ、水無瀬さんが天野さんとすれ違いを起こしたと。へえ。ふうん。ほう」


 佐竹さんは顎に手を添えてにやにやと薄く笑って、独り言のように言った。


「水無瀬さんも少し見ない間に成長したというか、変わったんですね。一年生のころの水無瀬さんからは、クラスの同級生とすれ違いを起こすなんてことは絶対に考えられないことだったんですよ。あの人はそもそもすれ違う以前に、人との関わりを拒絶しますから」

「まあ、その辺は今もあまり変わっていないように見えますけどね……」

「あら、そうなんですか? では、天野さんが無理やりに強引に、暑苦しいほどの情熱でもって水無瀬さんとの関わりを持ったとか、そういうことですか?」

「……そういう捉え方もあるかもしれないですねー」


 そういう捉え方しかない。


「へえ、水無瀬さんも強引にやれば男性と関わりを持てると。ふむ、新たな発見ですね。ディスカバリー」


 にこやか笑顔になりながら、佐竹さんは唐突に英単語を発する。


「ディスカバリーっすねー……」


 てきとーに佐竹さんの言葉を反芻する。


 俺はまだ、佐竹さんとの話し方のコツを掴めていない。いや、普通に人と話すときに、その人と話すコツなんてものをいちいち掴んだりはしないのだが、なにぶん佐竹さんの話し方は特殊だ。電話になった途端に人格が変貌してしまうほどに特殊だ。だから、佐竹さん専用で話し方のコツというものが必要になってくる。


 それに、佐竹さんと話すのは、なんだか不思議な感覚がある。他の人と話しているときにはおよそ感じたことのないようななにかが、ある。


 まるで鏡に向かって話しているような……。


 鏡、とは。俺と佐竹さんの見た目は似ても似つかないというのに。ましてや性格はなおさらだ。


 不思議だ。


「すれ違い、について深堀りするのはやめておきましょうか。ある程度予想はできていますし」


 そして、佐竹さんは今まで一度も口をつけていなかったオレンジジュースを、そこでやっとストローでちゅるちゅる吸った。


 ストローから口を離して、佐竹さんは頬杖をついて薄ら笑いを浮かべながら窓の向こうを眺める。


「おおかた、水無瀬さんが自責の念に駆られて、みっともなく自己否定をし始めたんでしょう? それで、なんとなくこじれてしまった、とか」

「え、なんでわかったんですか?」


 昨日の駅の改札前での水無瀬さんは、完全に自己否定をしていた。すべては自分が悪いのだと思い込んでいた。


 それでまた、俺と水無瀬さんの間の溝が深くなってしまった。和泉はその溝を埋めるために俺たちを連れてきたはずだったのに。


「あら、当たっていたんですか。まあ、それくらいはわかりますよ。水無瀬さんはそういう人ですから。水無瀬さんの行動くらい、だいたい予想ができますよ」


 言いながらも、佐竹さんはずっと窓の向こうの遠くを眺めている。その視線の先には特に何もない。


「ですが、人と人とのすれ違いなんてのはよくあることですよ。水無瀬さんはああいう性格上経験がないのかもしれませんが、天野さんは、経験あるでしょう?」

「……ない、と言ったら?」

「それはそれでまた、おもしろいですね」


 佐竹さんは言って、口角を吊り上げてにやっといたずらっぽく笑った。


「水無瀬さんはいつもわたしを飽きさせません」


 水無瀬さんはいつも佐竹さんを飽きさせない。


 裏を返せば、佐竹さんはいつも水無瀬さんを見ておもしろがっている。


 いや、それは俺の考えすぎだ。


「では、そろそろ店を出ましょうか」と言って、上品に目を細めてにこやかに笑っている佐竹さんの表情は、そんなことを考えるような人のものには見えない。


 俺は、そう、思い込んだ。


 けど。


「きっと、向こうの道で水無瀬さんがあなたのことを待っていますので」


 と、佐竹さんは予言した。

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