秋(2) 水槽の脳
白黒画面は波の模様を描いたかと思えば、急に扉が閉じるように一つの横一線が引かれ、次は中央に集まり黒い背景に浮かぶ白い点になった。
得体のしれない催眠術にでもかけられているようで、気分が悪くなる。
その間、ナレーションは『ほら?』と得意げに語りかけ淡々と進んでいった。
『あなたはこれから私たちと共に、素晴らしい体験をなさるのです。それは、未知の世界の神秘ともいうべき宇宙の謎を解く驚くべき物語です』
代わる代わる進行するテレビ画面に『THE OUTER《アウター》 LIMITS《リミッツ》』とタイトルが浮き出た。
画面が暗転すると水面から物が浮き出たように、キャストの顔が現れた。
これ、昔の海外ドラマ?
かなり古いようだけど、どう考えても私が生まれる前のドラマだわ。
一瞬、本当にテレビが話かけてきたと錯覚してしまった。
異様なタイミングで現れたナレーションだったので、不気味さに耐えられず、リモコンのスイッチを押してテレビを切った。
リモコンを置いた側に影に隠れた赤黒いリンゴが置いてある。
私、リンゴなんて最近買った記憶がないのだけれど、どうして冷蔵庫にもしまわずに置いてたのかな?
手を伸ばしリンゴを掴もうとすると、空気を掴むように感触が感じられるず――――手がリンゴをすり抜けた。
自身の手を見て胸のあたりが詰まったように吐き気がする。
現実を現実として捉えてる気がしない。
春に教授がホログラフィック宇宙論について解説した言葉が蘇る。
《手の原子がリンゴに反発しなければ手はリンゴをすり抜けてしまう訳だよ》
違う、カーテンを閉め切ったせいで影になり、リンゴを掴み損ねただけだ。
ちゃんと見ていなかっただけ……。
私は恐る恐る手を伸ばしクレーンで廃材を掴むようにゆっくり指を曲げて、リンゴの表面に触れさせた。
――――掴んだ。
しっかり握力を使い掴んだリンゴを胸の位置まで寄せて見つめた。
リンゴは現実に存在してる。
精神科医におかしな病気の説明を聞いて感化されたんだ。
安心してため息を吐き出すと、リンゴをテーブルに戻して立ち上がる。
カーテンを締め切り部屋を暗くしているからか、こちらまで色を奪われた気分だ。
窓に歩みよりカーテンを思いっきり開いた。
太陽の光は眩しく時計を見ると通勤ラッシュが始まる前の朝だ。
陽射しに取り込み白さを取り戻した室内の壁をなんとなしに見やる。
アレ? 私、壁に何か飾ってなかったけ?
写真か何か…………気のせいか。
大学に友達もいないし、旧友とも顔合わせないしね。
§§§
窓の景色をしばらく眺めてふと魔が差した。
季節の変わり目からか、体調の浮き沈みを強く感じる。
研究所に行く気になれず、その日はバイトをズル休みした。
昼になり血圧が安定してきたので気分転換に外へ出かけた。
熱帯魚ショップに差し掛かるとラメのような表皮を翻し、輝きを放ちながら泳ぐ淡水魚が目に止まった。
棚を彩る水槽の熱帯魚達は飾られた宝石の様に煌き心を奪われる。
目移りする水槽の宝石箱を歩き見ていると、一つだけ異様に濁り不気味な色合いを醸す水槽を見つける。
私の視覚はその不気味なガラス箱に釘付けになった。
緑がかった液体の完全なる真ん中に、肌色のクラゲのような物体が浮いている。
触手を全て切り落とされたようなクラゲは、拳二つほどの大きさで、表面は迷路のようにシワが刻まれている。
自分が人生において一つの糧にしようとしている分野なので、すぐにそれが解る。
これは人の脳だ。
すると、三十代も折り返しであろう、ショップの店員が声をかける。
「面白いでしょ? 最近仕入れた商品で【水槽の脳】っていうですよ」
面白い商品?
これは売り物なの?
ショップと私の常識に食い違いがあるのか、それとも私の理解が追いつかないのか、言葉を失い魔法をかけられたように声が出ない。
「お客さんにはコレ、どう見えます?」
どう見えるなんて人の脳にしか見えないし、明らかな不法行為としか思えない。
それとも脳に見えるのは私だけ?
店員は商品の熱帯魚を眺めるように水槽の脳を見つめて、半笑いで話を続ける。
「ここに並ぶ熱帯魚と脳に何か違いはあるんですかね? 同じ水槽に入って外からお客さんに品定めされる。傍から見れば同じ存在なんですよ。じゃぁ、違いはなんでろう? 隣にあるグッピーは神経を伝う電気パルスで筋肉を動かし、水の中を自分の体を使って泳ぎ、目で物を見てエサを得る。水槽の中もグッピーが住みやすい世界にデザインされている。だから生きてると言える」
これだけの理屈を言葉に乗せてズラズラ並べ立てるのは関心すべきか、達の悪い性格とあざけるべきなのか、あまりいい気分はしない。
「一方の水槽の脳はただ動かず液体を浮遊するだけ。これが脳死したホルマリン漬けの脳なら、それは物言わぬ標本」
標本? なんだ……標本だったのね?
脅かさないでよ。
それにしても脳の標本を商品の熱帯魚と並べるなんて、悪趣味な店。
気持ち悪いから早く出て行こう。
不機嫌な芝居を交えて無言のまま立ち去ろうとすると、店員の続く言葉に私の思考が釘付けになり、足を止める。
「でもこれが生きた脳ならどうでしょう? この狭い水槽の中で生命活動に変わるエネルギーだけを供給され、脂肪の壁の中で神経細胞にひたすら電気パルスをかけ巡らせている。それはいわゆる思考ですよ」
私はゆっくり振り向く。
サスペンス映画で追ってくる狂人を、恐る恐る覗き見る主人公のように。
「僕達は朝起きて夢から覚めると眼球から太陽の光を受けて朝を実感し、気怠さから重力を感じる身体を筋肉で持ち上げる。寝ぼけ
さも解ったように現実を語る店員の言動は、上から物を言い価値観を押し付けているようで気分を害する
本当に何なの? この人。
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