【掌篇集Ⅰ】心象現実資料館
灰都とおり
方舟は、エリュシオンの夢
私の乗った渡海船は、那智勝浦の補陀洛山寺に見える四門の鳥居を備えた大層なものではなかった。熊野年代記は平安朝より20の渡海を記すが、無論記録の残らぬ試みが無数にあり、しかし私のように戒壇も得られぬ
釘打ちされた入蓋を眺めるうち、
そうして私は目を覚ました。
鳥の声、虫の音ひとつない静謐。
「ここはエリュシオンだ」
すぐそばに長身の男が立っていた。
見たことのない金色の髪と瞳。
「貴様から名乗るがいい小娘。神から言葉を得るという幸運に感謝しながらな……」
男の言葉から、私は己が十二三の娘の姿であることに気づく。岸に留まる渡海船の残骸だけが、過去の記憶をかろうじて繋いでいた。村での暮らし、
「フッ……随分奇妙な名だ。まあよかろう、ここ三〇〇年は絶えていた漂着者だ」
「ヒュプノス! 何だそ奴は」
金髪の男が去ろうとしたとき、瓜二つの男が――だが銀の髪と瞳を持つ男が現れた。
「アテナの闘士どもが騒いでいるのだぞ。いずれ奴らの縁の者だろう」
「タナトス、お前はこんな小娘が怖いのか」
それが眠りを司るヒュプノスと死を司るタナトスの兄弟神、私が辿り着いたエリュシオンを統治する
そこはホメロスやヘシオドスが遥か西方の祝福された島と伝え、ダンテが冥界神の支配する楽園と描写した理想郷エリュシオン。私は一切の肉体的苦痛から解放されていた。黄金のように輝くリンゴめいた果実を食し、海からの穏やかな風を感じて眠った。
目に見えぬ誰かが私の生命を維持していた。
「小娘……おまえは奇妙な絵を描くな」
気性の激しい弟と違い、兄ヒュプノスの言葉は優しく響く。時折姿を現す兄弟神の姿を、私は固い羊皮紙に描くようになった。
「なんだ、そんな優男が俺だというのか」
タナトスが私の描いた自身の姿を照れたように見やる。
「フッ、よく描けているではないか」
「だがなぜお前の絵より扱いが小さい」
ふたりのやりとりを私はさらに描き留める。紙とペンはいつしか手元にあったのだ。私は描けば描くほど上達するのが楽しかった。
だが、やがてその時が訪れる。アテナの闘士たちが現れる時が。それは神話の戦いであり、不可避の結末を招く。
「小娘、この時に貴様が居合わせたのはクロノスの悪戯かもしれん。だがそもそも時の整合性など幻なのだ。全ては繋がっている」
戦いの迫るなか、ヒュプノスは私に言った。いや、その言葉はあの村で師から教わったものだったか。
眠ることのできない夜があった。扉の外に置き与えられるペットボトルと食事。陽光も射さず締め切られた、どこへもたどり着くことのない
「我が眠りをそなたへ送ろう。ゆくがいい、
ヒュプノスの言葉と共に、銀河が砕けるような衝撃があって私は再びその姿を失う。
◆ ◆ ◆
〈ギリギリだけどようやく入稿だ~〉
加耶子のツイートに、こっちはまだ描いてんだとイラっとするが、まあ悪いのは私だ。
久しぶりに埃っぽいロフトに上がり、古いダンボールから退色した同人誌を引っ張り出す。中学のいじめから不登校になったおばさんが、入院中から描き始めたという少年マンガの二次創作。私は行き詰まると、いつもここにある拙く純粋な衝動を眺める。
すると脳内にヴィジョンが広がる。
規定された生から飛び出したいと叫ぶ声が聞こえる。その反響は、私が描き続ける理由を教えてくれる。そして今度こそ、そのイメージを形にするのだと、何度目かも分からない決意を刻み、私は描きはじめる。
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