第34話 願いと約束


「俺はもう、生涯人間を食べないだろう。村に帰るといい」


 満月の夜、ついに魔物はリィリエに別れを告げた。暗い洞のなかで果実をんでいた少女が、ぴくんと肩をはねさせて、顔を魔物に向ける。


「……でも……わたしが村に帰ったら、ラウがひとりぼっちになってしまう」


 リィリエは魔物のことを、いつしかラウという愛称で呼ぶようになっていた。その短い名前が彼女の唇からこぼれるたびに、どれだけ心が満たされたか。

 ──もう十分だ。ラウレンツは思う。


 魔物は太い腕を差し向けた。リィリエの白い頬に、毛に覆われた大きな手をあてがう。出会った時よりずっと青白くなってしまった頬。長いあいだ、わずかな果物しか食べない暮らしが、どれだけ彼女の身体を痛めつけるかを知っている。ましてやここは陽の届かない森の奥だ。

 雲間を抜けた月の光が、洞にも差し込む。青白い仄灯りに照らされる少女は、息を飲むほど美しかったけれど……人間は陽の光のもとでないと、生きられない。


「俺はこの森の魔物だ。ずっと一人で生きてきた。リィリエには人間の生活がある。それだけのことだ」


 声に湿り気が帯びないよう気を配りながら、ゆっくりと含むように言い聞かせる。

 リィリエは突然、その細い体をラウレンツへと預けた。ごわついた毛に顔をうずめるようにして抱きついてくる少女に、あわてふためく。彼女の身体はなんと軽くて、小さくあることか。


 戸惑いながらも彼女のほそい体を包んで、頼りない背をゆっくりと撫でる。再び月が雲に隠れるほどの時間を置いて、リィリエはおもむろに体を起こした。ラウレンツの身体に手を添えたまま、彼女は琥珀色の透き通ったまなざしを魔物に向ける。


「──お願いがあるの」




   〇




 二人が離れ離れになって、月齢が三度巡った。

 ラウレンツは変わらず森に。リィリエは村に、人間の世界に。

 二人で暮らした洞は、一人きりだと広いものだと思い知る。三月みつき前は、それが当たり前だったのに。


 満ちた月が冴えるころに目を覚ましたラウレンツは、洞を出て、暗い森のなかを歩いた。奇妙な鳥や虫たちの声も、音もなくたなびく白い霧も、慣れ親しんだ光景だ。

 やがてラウレンツは、森の出口付近で足を止める。白い吐息をついて満月を見上げた。今日も月光がやわらかい。


「ラウ」


 魔物であるラウレンツをこう呼ぶのは、一人しかいない。

 声のした方へ向きなおると、琥珀の瞳を持つ少女が立っていた。


「また村を抜けだしてきたのか? こんな夜中に危ないと、何度言ったら分かる」


「ラウが迎えに来てくれるから大丈夫よ。そうでしょう?」


 薄灰色の夜着をまとい、白金色の髪をゆるく編んだリィリエが微笑んだ。たしかに彼女の言う通り、夜半に彼女が森に来ると分かっていて、人の棲み家と森の境界線まで迎えに行くのだから、何も言い返せない。


 リィリエはそっとラウレンツの顔色をうかがって、おずおずと白い手を差し出した。彼はあきれたそぶりを見せながらも、膝を折って彼女の手を丁寧にすくいとる。それからおとがいで、軽くリィリエの手の甲に触れた。

 それはラウレンツの親愛の仕草で、歓迎の意味合いが込められている。硬い毛が肌をこする感触に、彼女はやわらかな微笑みをこぼした。


〝満月の夜に、また森に来ることを許して〟


 三月みつき前の別れ際にリィリエが口にした願いに、ラウレンツは戸惑った。いくら満月に魔物たちの獰猛性が鳴りを潜めるとはいえ、人間たちにとって異界である森に足を踏み入れることが、危険であることに変わりはない。

 それでも、拒みきれなかった。離れがたいと感じているのが自分だけではないと知って、胸が張り裂けるほど嬉しかったから。


 ラウレンツは彼女の手を取って、森の奥へと連れて行った。

 二人はやがて湖畔に辿り着く。ラウレンツの洗礼を行なった湖のそばだ。満月を映す湖面を眺めながら、二人は下草に腰を下ろした。


「あれから、本は読めた?」


 リィリエの問いかけに答えるように、ラウレンツは手に持っていた書物を、彼女の前に差し出す。すっかり古びて角が落ちたそれは、リィリエが幼いころに愛読していたという、聖書の絵本だ。月齢がひとめぐりした最初の逢瀬の日、リィリエがラウレンツにと贈ってくれた。


「言葉の意味がわからないところがあった」


 彼はそう言って、毛に覆われた大きな手で、本を傷めないよう慎重に繰った。

 ラウレンツは人間の言語を理解していたので、文字を読むのはさほど難しくなかった。むしろ知識を得るという楽しみが勝り、彼はリィリエの教えのもと、またたく間に一人で本を読めるようになった。

 けれど時々、文字と言葉を繋げてみても、分からないところがある。


「どこかしら」


 リィリエが身を乗りだして、ラウレンツが指差した文字を目で追った。しばらくして彼女は「ああ」と吐息を漏らす。


「これは〝救いの御手サルタリス〟よ。〝肉において蒔かれたものは、肉において刈り取る。そこに聖なる神の裁きの御手がある。十字架上には御子による罪のあがない、愛とゆるしが。聖なる神の裁きの背後に、神の愛と赦しの道、救いの御手サルタリスを見る〟……」


 ──救いの御手サルタリス。その言葉を耳にして、ラウレンツは押し黙った。

 あのときあやめた狩人サルタリスと、同じ名前……。


「ラウ?」


 リィリエの呼びかけに我に返る。

 彼は彼女に礼を言って、物思いを断ち切るように本を閉じた。


「……リィリエはこのひとつきの間、どう過ごしたんだ? 話を聞かせてくれ」


 話題を変えようと彼女に話を振る。リィリエのまわりの空気が華やいだ。


「今年も小麦が豊かに実ったわ。いまは収穫祭の準備に大忙しなの。今年はお祝いの焼き菓子を、わたしひとりで作っていいって言われたから、お母さんに美味しく作るこつを教えてもらっているところよ」


 太陽が一番まばゆい季節が過ぎて、空気が乾いてきたと思ったら、いつの間にか実りを祝う季節がきていたらしい。

 季節を感じられない森に住むラウレンツにとって、人間の世界は彩りにあふれていた。リィリエが語る日々の暮らしは、豊かな自然に寄り添う喜びにあふれていて、彼女が語る弟妹の様子は、ひとりぼっちの彼の胸をあたためた。


「次の満月の夜に、焼いたお菓子を持ってくるわ。ほんとうはラウレンツも収穫祭に来れたらいいんだけど……」


 彼の顔をうかがうリィリエに、ラウレンツは目を閉じて、首を横に振った。

 彼が人のすがたになれると、彼女はすでに知っている。けれど青年期を迎えた彼は、もう幼い少年にはなれない。


 たとえば大きな街なら、魔物であるところの青年を、旅人だと思わせられただろう。けれどリィリエが住んでいるのは、旅人がめったに訪れない小さな村だ。見ず知らずの青年が村の祭りに紛れ込んだら、村人らは困惑する。

 ……それに、その日に陽がかげる保証はどこにもないのだ。


「そうね……残念。でも、それでよかったのかも。だってわたしは、このままのラウが一番好きだから」


 リィリエが、そっと彼の毛並みを手のひらでたどった。

 ラウレンツは目を細める。彼女のやさしい手に触れられるのは心地よい。


 こんな醜い魔物を好きだと言ってくれる人間は、きっと彼女しかいないだろう。

 ……それで良かった。それが、嬉しかった。リィリエと出会えた縁こそが、かみさまからの贈り物だと、ラウレンツは感じている。


 リィリエは傷ついた魔物を介抱し、命を救ってくれた。ぬくもりを分け与え、神の教えを説いて、他の誰でもないと示す名前を授け、文字を教え、聖書を与えてくれた。

 ……貰ってばかりだとラウレンツは思う。

 何か、彼女に捧げられないだろうか──


「……収穫祭はいつだ?」


 ラウレンツがリィリエに尋ねた。彼女は「ひとつきあと」と小さく答える。


「それなら……そうだな、今度は満月ではなくて、もうすこし早く……下弦の月の夜に、会えないだろうか」


 そう口にしてから、彼女の訪問をしぶしぶ受け入れるという態度から、外れてしまったと気づく。あわてたのも束の間、リィリエが「ほんとう!?」と声を上げて、ラウレンツの腕に取りすがる。


「ラウから森に誘ってくれるなんて……! 下弦の月の夜に、必ず森に行くわ。約束よ」


 珍しく語気を強めて、きらきらとしたまなざしを向けるリィリエを見て、ラウレンツは目を見張る。会おうという誘いが、そんなにリィリエに喜ばれるとは思ってなかった。戸惑いながらもうなずくと、彼女の金のまつげがやわらかく重なる。


 彼女はまるで満ちた月のようだと、ラウレンツは思う。

 白くて、綺麗で、やさしく己を照らしてくれる、あの月に似ていると。




   〇




 リィリエを村近くの森の端まで送り届けて、ラウレンツはもと来た道を引き返した。

 夜が深まって月は落ち、かすかな光すら望めない。暗い森を夜目を頼りに掻き分けているうちに、慣れ親しんだ、しんとした孤独が寄り添って、彼の骨身にしみわたる。


 洞に着いて、彼は身体を横たえて目を閉じた。

 睡魔の誘いを待っていた彼だったが、いつもの、、、、苦しみが、彼から安らぎを遠ざける。


 体を硬くして耐える。体の底から黒い欲望が湧き上がり、いびつな手足のかたちをとって、身体の内側を掻きむしっている。

 彼は震える手で、両肩と額、心臓を順に突いて、手を組み合わせた。

 これは発作のようなものだ。ラウレンツはそう自分に言い聞かせて、嵐が通り過ぎるのを待った。彼のおとがいから苦悶の声が漏れる。


(──どうか、苦痛と誘惑に耐えられる力を与えてくれ。リィリエに貰ったこの名に、ふさわしいものであれるように……)


 彼は祈り続けた。やがて腑を刺す痛みと渇望に、意識が朦朧として、気絶のような眠りが、彼を無の世界にたたき落とすまで。


 ラウレンツに飢餓期が訪れてから、月齢が四度巡ろうとしている。

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