第32話 実を食み、仔羊を弔うこと
数日後、禁忌の森の湖畔には、魔物と少女のすがたがあった。
湖は黒い木々を映し、梢から落ちた露に打たれて、静かな波紋を描く。二人は色彩に乏しい眺めのなかを、灰色の下草を踏んで、共に歩いていた。
少女は折にふれて、そわそわと気遣わしい視線を魔物に送る。
「……出血は止まったし、傷もふさがった」
彼女の気持ちを汲んで、魔物が端的に傷の具合を口にする。少女は野鹿のように首を持ち上げて「でも、無理をしたら傷が開いてしまうわ」と返した。
「無理はしない。いつまでも洞のなかでじっとしていると、気が滅入る」
傷は深く、まだ体力は回復していない。それでも外に出たのは、洞のなかにいると
魔物がねぐらとする洞に出入りする以上、他の魔物は少女に手出しはしないだろうとも思ったが、飢餓期の魔物などに出くわしたら、どうなるか分からない。それに、少女は魔物に勧めるばかりで、あまり食べ物を口にしなかった。出会った時にはすでに華奢だった少女は、ここ数日でさらに痩せた気がする。
少女はまだ何か言いたそうにしていたが、結局うなずいた。視線は前に向けたまま、魔物の方へそっと近づく。魔物の肢がぐらついたり、体調が思わしくない時、体を支えられるようにと思ってのことだろう。
少女の手が届かないところに実る果物を、魔物が摘み取る。初めのひとつを噛み砕き、もうひとつ
おそるおそる果物に唇を寄せた少女だったが、ひとくち
「林檎みたいな味がするのね」
湖畔に腰を下ろして、夜色の果物を薄明かりに
その後も魔物は捕らえた小動物の肉を少女に勧めたが、彼女はかぶりを振って、果実のたぐいを口に含むに留めた。「今日は
(それにしても、あのしぐさにはどういった意味があるんだろう)
自らの両肩と額、心臓に触れていく、簡素な所作だ。けれど、その何気ない動きを自らに
初めて言葉を交わした時も、少女はあのしぐさのあとで、凛とした意志を
「わたしは果物で充分。でも、あなたはしっかり栄養を摂って。傷の治りが悪くなるから」
やさしい声に物思いから覚めた魔物は、少女を見た。少女は金のまつげを重ねるようにして、琥珀の目をやわらかく細めて魔物を見つめている。
その微笑みにうながされるまま、
──傷が治ったら、少女はこの森からいなくなるのだろう。
ふとよぎった考えに、魔物は驚いた。思考そのものにではなく……その
〇
湖畔で食事を終えたあと、来た道を
この近辺の魔物に、大型の魔物と連れ立って歩く、少女のすがたを見せておきたかった。下手に手出しさせないよう、
鳥と虫の音が反響する森の奥から、暗がりでこちらを眺める魔物たちの、ねばついた視線がまとわりつく。魔物は不快感に小さく舌打ちしたが、しかし隣を歩く少女は視線に気づいた様子はなかった。ただ魔物が来た道とは違う道を進んでいることに戸惑い、それでも魔物に寄り添うようにして歩いている。
しばらくして、二人は立ち止まった。木々や下草がみっしりとはびこる濃い緑の奥、そこに何か見慣れないものがあると気づいたからだ。太く張り出した木の根を登るように越えていき……魔物と少女は、それが何かを知る。
それは薄汚れた
少女が息を飲んで身を硬くする。魔物はそのまま人間に近づいて、手で触れた。
襤褸がめくれ、人間のすがたが
魔物は彼の顔に手をかざした。
──わずかな空気の動きも感じ取れなかった。
「死んでいる」
そうつぶやくと、少女は少年へと近づき、自らの両肩と額、心臓に指先で触れて、目を閉じた。それから両手をかたく組み合わせ、聞き取れないほどのわずかな声で、何か物語のようなものを
「……森に迷い込んで、帰れなくなったのかしら」
少女はおそるおそる少年の
「聖書だわ」
今にも崩れそうな紙を慎重に繰る少女の唇から、聞きなじみのない言葉が落ちる。
「聖書……?」
「かみさまと人間の約束が書かれた本よ」
かみさま、と少女の言葉を
少女は黙って聖書をめくっていたが、やがて眉をひそめて
「聖書の余白に、日記が綴ってある……」
──〝弟が死んだ。これで僕は天涯孤独だ。これから、何を支えに生きていけばいいのだろうか〟
──〝弟は太陽だった。僕は、月だ。太陽がなくなってしまった今、暗くて役立たずのものにすぎない〟
──〝今日も罵倒されて暴力を振るわれた。僕に価値なんてない。そのことは誰より僕が知っているのに、村の奴らは僕の存在すら許してくれない〟
──〝たとえば禁忌の森へ行って、そこで魔物に喰われたら、自死にはあたらないだろうか。かみさまは、僕をお
「森に命を捧げに来たのよ。それでもきっと怖かったんだわ……。ここに身を隠して、魔物の糧になるより先に、餓死してしまった」
日記を読み上げた少女の指が、少年の襟元に触れた。よく見ると、少年の首には小さな銀の鎖がかかっていた。それを目でたどると、胸もとで硬く握られた手へと行きつく。少女が慎重に彼の手を一指ずつを開いていくと……銀の細工物が現れた。
「ロザリオだわ。信仰深い人だったのね……」
魔物は魅入られたように、白い光を放つ細工を見つめた。何かを連想させると気づき、記憶をたどってみると、それは森の隙間から覗き見る、月のすがたによく似ていた。
少女は魔物に、少年を埋葬したいと言った。
埋葬という言葉の意味すら知らなかったが、彼女のしたい通りにするのが良いと思い、うなずく。
二人はひときわ大きな糸杉の木を見定めると、根の近くに石で穴を掘って、少年を横たえ、土をかぶせた。少女は荒れた手で土の上に小山をつくり、その上に大ぶりな石を置いて「こうして墓標をつくれば、最後の審判の日に、かみさまがこの人を復活させてくださる」と言って、
鳥の囁きよりもかすかな声音が、少女の唇から漏れる。少女がまた、両肩と額と心臓を順に突いていくしぐさをした。指の動きを見ていた魔物は、その軌跡が十字のかたちを──さきほど目にしたロザリオの先端と、同じかたちをしていると気づく。魔物もたどたどしい動きで少女に
ロザリオも聖書も、今はもう少年と共に、土の下で
「……かみさまとは、何だ」
洞へと戻る道すがら、魔物は少女に尋ねてみた。
少女は大きな瞳をさらに見開いて、音がしそうなほどまつげをしばたたいていたが、やがてほどけるような微笑みを浮かべる。
「かみさまは、生きとし生けるものを創ってくださった方よ。今この瞬間にも、わたしたちはかみさまに見守られているの」
魔物は
そのかみさまとやらに見守られているから、あの少年は森にいても怖くなかったのだろうか。この少女は死の淵に立ってなお、他人を想う健気さを、凛と
「……頼む」
自然と
彼は立ち止まり、その双眼で少女をとらえて、願いを口にした。
「俺に、かみさまのことを教えてくれ」
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