第17話 美しい小鳥と舞え


 月明かりを頼りに下草を掻き分ける。小さな羽虫が飛び立ち、荒れた手が夜露に濡れる。探しても探しても、望んでいる銀のきらめきを見つけられなくて、今日数えきれないほどついた溜め息を、リィリエはまたひとつ落とした。


 質素な夕餉ゆうげをとって、すぐに一人で館のまわりの下草に分け入った。昨日立ち入った部屋や廊下はもちろん、館中をくまなく探してもロザリオは見つからないから、あとはもう屋外しか探すところがない。誰かが窓の外に放ったかもしれない──そんな一縷いちるの希望にすがって。


 魔物に襲われて、右手を失って、傷ついて心細かったリィリエを支えてくれた、あのロザリオ。使徒の試練の時も、禁忌の森への旅の途中でも、アンゼルムの箱庭についてからも、片時も離さなかった。

 あんなに大切に思っていたのに……。


 思わずにじんだ涙を散らそうと、リィリエは立ち止まって何度もまばたきを繰り返した。そうしていると……彼女の耳に、小さな音が届いた。ぱた、ぱた、と、小雨が地面をやわらかく叩く調子に似ている。耳を澄まさないと聞き漏らすほどの、かぼそい音だ。


(なんの音かしら……)


 リィリエはそっと耳に手のひらを添えて、音のありかを聞き分ける。引き寄せられるように、そのままそちらへ足を運んだ。館の角を折れて、開けた中庭へ出て──そして、目にした光景に息を飲む。


 月明かりを全身に浴びて、髪に、肌に、白銀のかがやきをまとった人がそこにいた。両腕を天へと伸ばし、左足を後ろに高く掲げて、そのまま美しい彫刻のように静止している。月光の下で舞い散る微細なほこりだけが、時間の経過を示していた。


 まばたきすら忘れて見惚れる。やがて優美な長い手足が弧を描いて、その人は軽く屈伸したのちに、軽やかな足取りでくうへと跳んだ。地面と平行になるくらい両足をまっすぐに広げて、羽をしならせる鳥そっくりに飛翔して。

 黒いワンピースが広がり、月光に透ける。ふたつくくりのすべらかな黒髪が、動きに合わせて流れる。


 さきほど耳にした軽い音を立てて、彼女は着地した。両足を揃えて踊る姿勢を解いたかと思うと、彼女は突然リィリエの方へ体を向ける。


「覗き見? いいご趣味ね」


 その言葉にはっとする。リィリエの頬がみるみるうちに赤くなった。


「ち、ちがうの……!」


 手のひらを振って、懸命に否定する。

 まるで美しい鳥のようだった少女、ジゼルが不信そうな表情を浮かべる。綺麗な少女だと思っていたけれど、舞うすがたはおそれを感じるほどに神秘的だった。


 ジゼルの目線が、ふとリィリエの手のひらに向く。かさかさに擦り切れて赤くなり、土と泥にまみれた手。

 はっとして、リィリエは思わず手を体の後ろに隠した。ジゼルのまばゆいすがたがまなうらに残る今、自分の手のみすぼらしさが恥ずかしくてしかたない。顔が熱くなる。


「……わたし、探し物をしていて……そうしたら、足音が聞こえたから、それで」


「探し物?」


 小首を傾げるジゼルの白い頬に、さらりと絹の髪がかかる。せめて覗き見していたという誤解をときたくて、リィリエは赤面したまま、必死にうなずいた。


「……ああ」


 結んでいた唇を笑みのかたちにほどいて、ジゼルは吐息を漏らした。彼女はワンピースのポケットに手を差し込んで、ちゃらりと音を鳴らしながら、リィリエの前に手を掲げる。


「探し物って、これかしら?」


 リィリエは目を見開いた。

 彼女が求めてやまなかったロザリオ。ずっと探していたロザリオ。


「そ、それ……っ!」


 思わず手を伸ばす。けれどジゼルは黙ってロザリオを遠ざけた。

 ──何も言わずいきなり取ろうとするなんて、不作法極まりないわ。

 そう言われたようで、息を飲んで指先をひっこめる。


「ご、ごめんなさい……それ、わたしのロザリオなの。今朝からずっと探してて……」


「ずいぶんと大切なものなのね?」


 ジゼルの言葉にうなずきながら、リィリエはひそかに眉をひそめた。

 ……いつロザリオを見つけたんだろう?

 あれだけ何人もの子どもたちが協力してくれていたのに、リィリエがロザリオを探していることに、聡明な彼女が気づかないなんて。そんなことがあるだろうか?

 じわり、じわりと、不信が心をかげらせていく。もしかして、ジゼルが、ロザリオを……。


「そんな大切なものなのに、きちんと管理できないなんて。迂闊うかつじゃなくて?」


 鼻で笑うしぐさに、疑念が確信に変わる。リィリエの全身の血が、かっと熱くなった。


「かえして……!」


 声を絞り出して、ロザリオを下げたジゼルの腕に取りすがる。けれどジゼルは、リィリエの手を振りほどいた。勢いに押されてよろめいて、土の上にぺたんと腰を落とす。呆然とジゼルを見上げると、彼女はつかまれた服を払いながら、リィリエを蔑視べっしのまなざしで見下していた。


「逆上して力ずくなんて……あなたって、ほんとうに野蛮ね」


「──っ!」


 まなじりに涙がにじみ、白くなった視界の端に火花が散る。立ち上がる勢いでジゼルにつかみかかり、押し倒し、どさりと地面になだれ込む。ジゼルの手に握られたロザリオを取り返そうと、リィリエは彼女の手首をつかんだ。けれど苛立たしげな声と共に、手が振り払われる。ジゼルが片足を曲げ、二人の間に差し込んだかと思うと、とつぜん腹を突かれた。息が奪われ、激しくせる。リィリエのもとから逃れようと、ジゼルが体をよじる。


 ──だめ。かえして。

 リィリエはきこみながら、ジゼルを行かせまいと地面に腕をついた。土のえぐれる音がして──見開かれたジゼルの瞳に射抜かれ、リィリエは我に返る。あわてて自身の腕に視線をやると、地面に立った刃先が……リィリエの剣が、月光を弾いてきらめいていた。


「あ……」


 頭の芯が急激に冷えていく。感情がたかぶっていたとはいえ、武器を具現化するなんて。

 慌てて刃先を抜き取って、ジゼルから離れようとした刹那、刃を研ぐような音と共に、眼前に光が弾けた。リィリエは弾き飛ばされて、したたかに地面で腰を打つ。何が起こったのか分からない。右腕の刃がびりびりと震えて、高い共鳴音を鳴らしている。


 リィリエが顔を上げると、そこには左足を高く振り上げたジゼルが立っていた。この夜に出会った時と同じ神々しさで、けれど左足を、まばゆい銀の武器に変えて。


 あれで──左足のあるべきところに収まった、円錐えんすい騎槍ランスで、リィリエの右手の剣を弾いたのだ。そう理解するより早く、ジゼルがあしを──騎槍ランスを繰り出す。突き出された槍先が目の前に迫り、リィリエは反射的に剣を振るって軌道をずらした。高い金属音が鳴り響く。


「ふぅん……」


 槍を弾いて体勢を崩したはずなのに、ジゼルは感嘆を漏らしながら、涼しい顔で足の付け根の関節をやわらかく動かして、自らの体へ武器を引き寄せた。

 ほっそりとしなやかなジゼルの体に対して、すべてが銀の直線で成る騎槍ランスは冷たく、美しく、ジゼルの身体と相反していながら、ジゼルの印象に酷似している。


「本当に武器を具現化して、使いこなせるのね」


「違うの……わたし、武器を振るうなんて、そんなつもりじゃ……」


「まだ言い訳をおっしゃるの? いつまでなさるおつもりなのかしら? ──何も知らない、可哀想な子どものふり」


 苛立たしげな口調で言い残して、ジゼルは高く跳んだ。空中で体をしならせ、槍が薙ぎ払われる。慌てて右腕の剣を構えて、白い火花を散らして受け止めるけれど、勢いと重みに耐えかねて引き倒された。地面に叩きつけられ、数度跳ねて、リィリエは無様に転がる。なんとか体勢を立て直して振り返ると、ジゼルは槍を高く掲げていた。

 そのまま突き崩されると覚悟した時、


「何をしているんだ! やめなさい!」


 アンゼルムの声が響いた。ジゼルがぴたりと槍を止める。

 鼻先で光る槍先に、リィリエはかたかたと身体を震わせた。


「ただの模擬試合です。……ね?」


 にっこりと笑うジゼルの頬から、すべらかな黒髪が数本ぱらりと落ちた。

 リィリエは息を飲む。

 ──知らない間に、リィリエはジゼルの喉元に刃を突きつけていた。

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