第15話 特別な日の晩餐
「今日の糧に感謝を」
「感謝を!」
アンゼルムが十字を切る。三十人近くいる子どもたち全員が、彼にならって祈りのかたちを腕で描き、声高にアンゼルムの言葉を繰り返す。
それが晩餐が始まる合図だった。きちんと椅子に腰掛けて、礼儀正しく神への祈りを終えた面々は、膨らんだ実が弾けるがごとく、どっと賑やかなおしゃべりで食堂を満たした。ごちそうに手を伸ばし、食器と食具を触れあわせる。
皆が一斉に食事をとれる大きな食卓机には、ところ狭しと大皿が並び、銀色の脚つき食器には果物が盛られていた。その隙間を縫うように置かれた燭台が、料理に深い陰影を与え、食事をとる彼らの手もとにあたたかな光を投げている。
「今日の主役は君だよ、リィリエ。遠慮せずに食べなさい」
「は、はい」
食堂の最奥に座るアンゼルムに微笑みかけられ、リィリエはあらためて目の前のごちそうに目をやった。
円形のパイのなかに茹でた卵と茸を詰めて、こんがりと焼かれたピローク。かたまり肉がほろほろと崩れそうなくらいじっくりと煮込まれた、ビーツの赤色が鮮やかなボルシチ。パンは特別な日だけ食べることのできる白パンで、丸ごと火で炙られた七面鳥の姿焼きまである。七面鳥には、リィリエの砕いた胡桃が入った、とろりとしたソースが添えられていた。
「どれがいい、リィリエ? 取ってあげる」
隣に座っていたアラリカが、皿を片手に身を乗り出す。
リィリエは各種の料理をすこしずつ盛ったものを受け取って、小さな口で
村から遠く離れた禁忌の森の館にいながら、しかしその味つけはシグリの村のものに近い。アンゼルムの箱庭はフォルモンド王国出身の
向かいの席では、幼子たちが目を輝かせてごちそうで頬を膨らませ、その隣では弟妹くらいの年ごろの少年少女が、陽気なおしゃべりに
アラリカが軽口をたたき、あたたかな空気に心を許したリィリエが笑う。食堂は宴らしく華やかでかしましく、彼女はシグリの教会で行われる聖夜祭を思い出し、知らず今夜の晩餐と重ねていた。あたたかで豪勢な料理。特別な日にだけ使われる、花の練りこまれた良い匂いのする
「野菜や果物は裏庭で作ってるんだよ。鶏がいるから卵もあるし、肉は森に狩りに行って、
リィリエとすっかり打ち解けたアラリカが、唇についたメレンゲをぺろりと舐めながらそう教えてくれた。驚くことにこの日は〝鳥のミルク〟という、白いメレンゲスフレをチョコレートの膜で包んだ、特別な日のためのケーキまで作られていて、晩餐のしめくくりをあまい思い出で満たしてくれた。
アラリカの言う通り、アンゼルムの箱庭は寄宿舎のようでありながら、生活に必要なものがほとんど内々で
(思っていたよりずっと……居心地がいいところみたい)
教会から旅立ったあの日、リィリエは厳しい暮らしを覚悟していた。なにせ館は禁忌の森のなかにあるのだ。きっと、ひもじく、寂しく、うすら寒く、不便な日々を送ることになるだろうと思っていた。
ところが実際はどうだろう。ここには衣食住すべてが揃っていて、歓迎会を開いてごちそうをまかなう余裕もある。部屋をあてがわれ、魔物の襲来に怯えず、あたたかな寝具にくるまって眠ることができる。ここに着くまで森で野宿をしていたリィリエにとって、すべてが夢のようだった。
たくさんあった料理は幻のようになくなった。汚れた食器を片づけるために、子どもたちが皿を重ねて持って、食堂を後にする。
片手で持てる分だけの皿を運んで、食卓机を
「どうしたの……?」
その場にしゃがんで、目線の高さを合わせて小首を傾げる。ふわふわとした巻き毛が愛らしい女の子は、はにかみながらリィリエを見上げた。
何か言いかけて口ごもった女の子は、おもむろにリィリエに両腕を突き出した。両手のひらの間に、小さな箱が収まっている。
「……わたしに?」
戸惑いながら尋ねると、女の子は細い首をこくりと前に倒した。差し出された箱は、すみれの絵が入ったブリキの缶で、化粧品や上等なお菓子が入るような、綺麗なものだ。
おそるおそるリィリエがそれを受け取ると、女の子はぱっと笑顔を咲かせた。
「これからなかよくしてね、リィリエおねえちゃん」
にこりと笑ったかと思うと、恥じらいをおぼえたのか、枝を飛び立つ小鳥のような勢いで、女の子はスカートを蹴って走り去っていった。
アラリカがひょいとリィリエの手もとを覗き込む。
「あ、贈り物? 良かったねぇ。エミリアは最近ずっと塞ぎ込んでいたんだけど、リィリエがこの館に来てくれて、ちょっと気持ちが上向いたかな」
「あの子、エミリアっていうのね……。贈り物、嬉しい。大切にするわ」
リィリエは胸もとに小箱を抱き寄せた。
〇
まなうらに蝋燭の光が残っているようで、リィリエはそっとまぶたを開いた。
あたたかくにぎやかな晩餐が終わり、自室に引き上げて寝台についた後も、宴の
アンゼルム、ジゼル、ウルツ、カーティス、アラリカ、エミリア……今日出会った人たちの顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。
(神父さま……わたし、アンゼルムの箱庭に来て良かったです)
たとえ明日から、厳しい
記憶のなかのハイネが、微笑んでくれた気がした。彼はやがて追憶のなかに溶けて、ルカとリヒトのすがたへと変わる。
負けないで、と心のなかでつぶやく。
(わたしも……負けないから……)
ふと小箱に目をとめたリィリエは、やわらかく唇をほどいた。あてがわれた棚の上に飾った、エミリアからの贈り物。なかには週に一度だけ支給されるという、可愛らしい包装紙にくるまれたお菓子や、宝石のように透き通る飴玉が入っていた。
エミリアの想いが嬉しくて、心が満たされていく。胸の奥でふくらむあたたかさを閉じ込めようと、リィリエはそっとまぶたを伏せた。
やがて夜は深まり、館の奥、小さく区切られた寝床は、少年と少女たちの安らかな寝息で満たされる。
リィリエがアンゼルムの箱庭に着いた初めての日は、こうして幕を閉じた。
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