傍観者は花を摘む

葉月 望未

序章 名もなき男

1 いつもの朝




「……どうして、僕だけ」


 真っ赤な光が点滅し、夜を深い闇として不穏にしていく。どこにでもある普通の一軒家の前には黄色いテープが張られ、警官が立ち、野次馬がざわざわと様子を窺っていた。


テープの内側、家の扉の前で虚ろな目をした青年が立ちすくんでいる。


青年のシャツからちらつく、鈴蘭の花。刺青のようなそれは、可憐に、純白に、咲いていた。


手のひらには指輪が置かれ、青年はそれに目を落としていたが意識はまるで別の場所にあるように、ぼんやりとしている。








——青年は、ある男を思い出していた。


知り合いでもなく、こちらが一方的に知っているだけの悪名高き有名人。



 その男はテレビの中で異様な雰囲気を醸し出していた。少なくとも普通の、常識というものを取りこぼすことなく持ち、疑問を持ちながらもそれに従う、そういう健全な人間とは違う。


 黒く、這い上がってくる、世界を呪う目。何があったら、あんな顔をするようになるのか青年にはわからなかった。


 男は指名手配される少し前まで、ネットを掌握していた。男の話題で持ちきり。テレビにまで呼ばれるほどの興味関心。


 それが今や、面白いと持て囃していた人々が真っ青になって男を恐れている。


今度は情報欲しさに、心の安定剤としての「大丈夫」だという言葉欲しさに、あるいは世界を変えてくれるヒーロー崇拝に、騒ぎ立てるようになった。


 ——男は、人を狂わせることができた。


 人々は、明日は自分かもしれないと恐れ慄き、震えることしかできなかった。




男は、言った。




「人を、人たらしめるものとは一体何だと思いますか?」




自分の荒れた唇に触れながら肩をすくめて引き攣った笑いをこぼして。



「それは、理性という壁で固めた掃き溜めを壊さないように、どれだけ壁を上に作り続けられるか。そして、もう壁を作る気持ちがなくなったその時、誰かをその深い掃き溜めに突き落とす。一番嫌いな、奴を。で、どうでしょう。その放り込んだ奴が……例えば、本当に嫌いで劣悪な人間だったら落ちて当然だと、納得いくでしょう。しかし、もし放り込んだのが、自分自身だったら」



男の前にテロップが出る。——名もなき男、との紹介。彼こそ、のちの「悪」にあたる。



「自分を放り投げ、上から見下ろす。自分を自分で落とし入れる。理性の内側には何があると思いますか?本能?ははっ、本当に?愚劣な自己犠牲、擦り込まれた常識の残骸、足元に横たわる死、そういうものだと思いますけど。それを本能と呼ぶのなら当てはまりますね。どうですか?」


テレビの司会者が理解できない顔をして首を傾けると。


「例えが難しいですか?まあ、つまり、人を人たらしめるものは他人ですよ。所詮、人に惑わされて生きている。じゃなきゃ、自分自身を嫌う人なんていないでしょう?人間が『人』である、正しい人間というものを作り出す。だから人間が『人』だと言えば、その人はきっと人ですよ。つまり、僕は『人』ではないということだ」






***




——日常はそう簡単に変わるはずがない。僕は、そう、思っていた。いや、

そう思う余地すらないほど当たり前だった。









 朝日が差し込んで明るいリビング、温かい朝食のパン、キッチンからお弁当を用意する音。



いつもと変わらない、自分の日常。



リビングで朝ご飯を食べながら星宮ほしみや 壱晴いちはるは母——彩葉いろはへ目を向ける。



壱晴の黒髪のヘアセットは無難という言葉に尽き、目は二重で大きいほうにもかかわらず、唇をいつもきゅっとしてしまう癖と、眉の形のせいで自信なさげに見えてしまう。


毎朝、少しでも強く見えるようにと洗面台の鏡にかじりついて髪をワックスでいじってみたけれど結局上手くできず、昨日と変わりない。



息を吐き出してヘアセットを諦め、なんとなく母に声をかけた。




「ねえ、母さん、『名もなき男』って知ってる?」



この間、友達から聞いた話だ。

少し怖くて危ない、いうなれば壱晴たちの年頃にとっては変わらない日常に差す潤いだった。



「はい、牛乳も。えーっと、で、何だっけ?」


壱晴の前に牛乳を置き、彩葉は首を傾けた。


 彩葉は毛先にパーマがあてられた黒髪を低いポニーテールにし、エプロンをつけている。メイクは薄いが、元々がくっきりとした顔立ちのため、年齢よりも若く見られることが多い。


壱晴が説明しようと口を微かに開けた刹那、


「それ、今の流行りでしょ。お兄ちゃん」


 髪をハーフアップに整え、高校の制服を着た妹の詩織しおりが壱晴の向かいに座りながらそう言って、テレビをつけた。


「詩織は知ってるんだね」


「だって学校ですごく流行ってるもん」


「流行りなの?母さん、そういうの疎いからなあ」


 壱晴と詩織の会話を聞きながら彩葉は興味なさげに笑うと、キッチンへ戻って行ってしまう。



テレビからは丁度、そのニュースが流れるところだった。



『それでは次のニュースです。

名もなき男の呪詛じゅそ宣言から二日が経ちました。

彼の宣言通り都内の会社員、中崎なかざき 祐太郎ゆうたろう28歳が不審な死を遂げ、名もなき男は二日前のバラエティ番組を最後に姿を消しております。その時のV T Rがありますので、ご覧ください』





 画面が切り替わり、バラエティ番組の司会者が「名もなき男」と呼ばれる男に話しかけるところから映像が流れ始める。





————呪詛宣言をした「名もなき男」のVTR



「S N Sの投稿が拡散されて、こうしてテレビにまで出ることになってしまった名もなき男さん、あの投稿にはどういう意図があるの?若者もすっごく騒いでいるみたいだよ?」



 名もなき男はテレビ出演にもかかわらず、煌びやかさや、よく見せようとする意志が全く感じられない暗さを纏っていた。

その黒髪は櫛を通しただけのように、もさっとして、一重の目は窪んでいる。


肌は異常なほどに白い。黒い着物のせいでそう見えるのかもしれないが。


若い男のようにも歳がいった男のようにも見える、年齢不詳の男。


しかし、初めてテレビに出演するわりには落ち着いているように見えた。

その表情に緊張の色はなく、穏やかに見えるほどで。



『ええ。意図も何も、そのままの意味ですが。私は人に呪いをかけることができます。私には野望がありましてね、そのための一歩。

——ああ、これが意図というモノになるのかな。

あまりそういうのはちゃんと考えていませんでしたが、そうか。そうですね、野望の一歩があの投稿ということになりますね』


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